しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』

テリー・ギリアムドン・キホーテ』(原題の直訳は『ドン・キホーテを殺した男』。原題の方が、当たり前だが、いい)を見た。かなり好きな作品となった。


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本題に入る前にちょっと気になることがあるので書いておくと、この作品を見てる間中、一つ飛ばした横の席の人が前のめりになって映画を見ていたのだが、これって私にとってはとても気が散ることなのだが、普通の人は違うのだろうか? 私が神経質なだけ? しかし、視界にスクリーンだけでなく鑑賞者の顔が入ってくるとかなり邪魔だと感じてしまう。案外(?)映画が好きな人とかが前のめりになって見ていたりするっぽく、ということは悪気はないのだろうが。。ともあれ、前のめりに見ている人を邪魔だと思う人がいるということが周知されることを願わずにはいられない。

さて、そんなことはどうでもいいのだ(いや、よくないが)。『ドン・キホーテ』だが、テリー・ギリアムの作品らしく「これは夢か現実か」という話で、見方によっては複雑な入れ子構造をした作品ともとれるし(この映画全てが、劇中に登場した『ドン・キホーテを殺した男』という映画の内容である、というような)、また、シンプルに現実と夢の2層であるととることもできるだろう。全体的な印象としては夢と現実が混ざり合って何がなんだかわからなくなる感じなので、おそらく前者のような解釈が望まれているのであろう。

テリー・ギリアムの「夢か現実か」話の特徴的なのは、現実とされている場面がそもそもの初めからフィクション(夢)っぽいことだろう。恐らくこの手の話の定石は、ともあれ現実はかっちりしたもの「だった」のに、それが最終的には揺らいで、夢と見境がつかなくなるぐらいのヤワなものだったとわかる、といったものだろうが、テリー・ギリアムの場合は、端からそんなかっちりしたものなどない。つまりどういうことかと言えば、そもそも全ては作り物(夢)のうちだ、ということだ。現実か夢かという話自体は(当然のことながら)映画というフィクションのうちでなされていることに過ぎない。テリー・ギリアムのすごいところは、まずはそのことを誠実にも(!)宣言してから話を始めることである。そして、今作がそうであるように、一見フィクション(夢)の中に閉じこもるかのようなラストを迎えるが、それにもかかわらず後味が悪くないのは、むしろ何か軽やかささえ残るのは、実はそれは閉じこもるというよりも「回帰」したに過ぎないからである。もともとフィクションに過ぎなかったのだ、で、それでいいじゃないかという嘘なりの矜持、というより、当たり前の真実を告げ知らせるのである。そう思うと、映画というものに真面目なりすぎるあまりに、マナーの悪い客に「マジになっている」私はまだまだ修行が足りないのかもしれないなあ。。