しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

20260128

瞑想の効果だろうか、ここ数日は精神状態が安定している。普通の人のフリをして普通の人になれるかもしれないと思っていたときはまともに瞑想していなかった。やっぱり普通の人にはなれないという現実を突きつけられてから、瞑想を一日2時間やっている。それぐらいしないと苦しくて仕方なくなるからだ。

 

スピリチュアル本はほとんど読まないが、エックハルト・トールの著書は結構読んでいる。"New Earth"や"The Power of Now"、"Stillness Speaks"はすべて英語で読んだし、これらの一部はドイツ語でも読んだと思う。スピリチュアルな言説を安易に信じるほど批判能力が欠如しているわけではないので、エックハルト・トールにもある種の「甘さ」を感じはする。しかし、人間の存在構造についての説明やペイン・ボディ説など知的にも面白く、また癒やされることも確かなので、寝転びながら半瞑想的にオーディオブックを聞いていると心地よい。英語に触れる機会にもなる。

 

とはいえ、今日は頭があまり働かない日らしい。 依然、例の『西洋哲学史』を読んでいて、カントのところまで来たが、付箋を貼ったところでまだ日記では言及していない箇所を一つあげてみよう。 アンセルムスの神の存在論的証明。まず、それより偉大なものが考えられないものは知性の中のみに存在するのか、それとも現実存在するのか、と問う。もしそのようなものが知性の中にしか存在しないのだとしたら、知性の中にも現実にも存在するより偉大なものが考えられてしまうことになってしまい、前提となっていた「それより偉大なものが考えられないもの」と矛盾する。それゆえ、それより偉大なものが考えられないものは現実にも存在しなければならない・・・ これに対する反論は、現実に存在すると言うことはある存在者の一つの(述語となるような)本質ではないというようなものであろう(同じ一つのものだが、知性の中にあるそれと現実にも存在するそれが考えられる。両者は同じものなので同じ本質を有しているが、現実に存在しているかしていないかだけが違う。そしてそれは本質の差異ではない)

20260127

よく行くドトールの店員の、機械的で甲高い声。「いらっしゃいませ」も「~はいかかがえでしょうか」も「おそれいります」も「ありがとうございます」も誰にも向けられていないから、空間によく響く。私にとっては飲食チェーン店のこの種の声は不快極まりない。本当にやめてほしい。みんなやめてほしいと思っていないのだろうか? 本など読んでいる場合ではなくなるほどの不快さ。こういう無意味なものを定着させる日本社会的「合理主義」とそれを心の底から受け入れる馬鹿な労働者。見るものの心を閉塞させ、怒りを燻らせる。発散が日常的になされることのない退屈さ。日本に帰ってきてから、こういうのは以前よりは減ったようには感じてはいるのだが・・・(より職場への所属意識というものが持ちにくくなってはいるのだろう。とてもよいことだとは思うが)

引き続きドミニク・フォルシェーの『西洋哲学史』を読んでいる。それぞれの哲学者の思想をあまりかみ砕いて書いてはいないので論を追いにくい。すでに知っているものだと復習になるが、そうではないとあまり頭に入ってこない。

デカルトの神の存在証明の話は面白い。我々は種々の観念を持っているが、それらの観念が生まれるための原因がなければそれらの観念は生まれ得ない(そして例えば、実在しない空想上の動物の観念の場合は、実在する動物等を原因として生まれる)。さて、無限の観念についてはどうか。我々の中やこの世界を見渡してみてもそれの原因となるものは見つからないだろう。すべては有限で不完全だからだ。しかし、無限の観念を我々が持っている以上、やはり原因がなければならず、それは神以外にあり得ない。ゆえに神は存在する…。(ここからは私の主張だが)考えられる反論は、「「無」限の観念の原因が見つから「ない」」というときの「無」や「ない」に注目することだ。つまり無限とはただの有限の否定であり、そして我々は無という観念を現に持っているのだから、現実存在しないものの観念は持ち得ないという前提がそもそも成り立っていない、ということ。

100 Citatations Philosophiques Expliquéesを引き続き読んでいるが、この本は割と(ある意味で)通俗的な説教話が多いな。足るを知れとか、自分を知れ、とかそういう種類のことだ。昔の哲学者は生き方の問題については大概その方向に行っていたと思うし、今ではこのような教訓話が癒やしになるほどに私も歳をとってのであるが。

 

20260126

「勝手に生まれてこさせられた」という嘆きはどこまでいっても真理を含んでいる。私がこの世界に、この場所で、この人から生まれてきたことを選んだわけではないし、もっと正確に言えば、選ぶ選ばないの選択、選択の選択さえ与えられずに生まれてきた、いやそれもまだ不十分だ、もっと正確に言おう、私が生まれる前はそれに選択が与えられる存在者が存在しなかったのだから、選択権を与えられる可能性があったと言うことさえ禁じられている(選択権というのはすでに存在してしまった地点からしか考えられない発想だ、選択の選択権でさえ、その可能性を考えたら、私は私が生まれる前のある存在者を想定してしまう)ほどに、あるいはそういう意味で何の「理由」もなくここにこのようにして生まれてきたのがこの私なのだ。この圧倒的な不条理は「生まれてこない方がよかった」と言うことの権利さえ私から剥奪する。生まれてきたというただの事実と実際はそうはならなかった無の可能性の比較自体が私の存在に全面的に依存するからだ(それとも、私の持つ無の観念は全く存在に依存しないものであり得るのだろうか)。それでも、今は、私は自分を守るために「生まれてこない方がよかった」と言うことにした。知的誠実さを裏切ることになるが、今は「私に選択の選択権はなかった」という半端な立場にとどまり、私は私を守ることにしよう。そのレベルでも「親ガチャ」というような迷妄な概念を私から遠ざけることができる。「親ガチャ」は、少なくともガチャを回したのが自分であると前提している点で全く無意味な批判である。

「28年後...」パート1とパート2を観た。感想は今度書くつもりだが、どちらも傑作(とは言わないまでもかなり独特な作品)であった。しかし、映画館で2時間映画を観ていると、なぜか最近は精神状態が悪くなってしまうようになった。特に暴力的な映画の場合はそれが顕著になる。また、集中力が切れて他のことを考えてしまうことが多いのもよくない。しばらくは映画は観ないかもしれない。

20260124

一応仕事が決まりそうだ。ただ派遣の単純労働だけどそれでいい。後は引っ越しなどをしなければならないのが面倒だ。生活に大きな動きがあるときは頭が興奮しやすい。うまく制御できるようにならなければ。ずっと意味もなく不動産関係のサイトなどを見てしまったりする。うまく切り替えられるようにならなければ。この症状はある時期感情に身を委ねすぎたからとかそういうことが原因なのだろうか。

今をプラトンの主要な著作を読む期間にしたいと思っている。手始めに『テアイテトス』(岩波文庫)を読み始めた。ソクラテスの産婆術のところまで読んだ。なんてことはない、ソクラテスは自分では知恵を(産婆がそうであるように)生むことはできないが、人(男)がそうするのを助け、生まれたそれが真か偽を判定できるのだが、それを産婆術と呼んでいる。

衝動的に買ってしまったドミニク・フォルシェーの『西洋哲学史』(あぁ、読書の対する集中力が分散してしまう)にソクラテスの産婆術について書いてあった。

ソクラテスは、矛盾を浮かび上がらせるイロニーによって、差異を回復し、弟子を自己自身に立ち返らせる(汝自身を知れ!)。そうして弟子たちの魂を解放し、善のほうへと再び向けかえさせようとするのである。」

ドミニク・フォルシェー『西洋哲学史ーーパルメニデスからレヴィナスまで』p.15,16、白水社
ところで、善と真の一致というのはそれ自体ただのドグマにすぎないと思うが、これもまた探求(して解体)すべきテーマであろう。

20260122

集中力が全然続かないなあ。人生のある時期はとんでもない集中力で難しい本を読んだものだった。

最近わかってきたことだが、この人生とは(子供の頃そう思っていたようには)「深く」はならない。もちろん何かを高く積み上げていくことはできる。能力とか知識とか考え方とか生き方からにじみ出る雰囲気とか。しかし、過去に積み上げられられたそれらを未来に持ち越すかどうかは今決めている。異論はあるだろうが、意識していない身体的所作や人が持つ雰囲気でさえ、例外ではないだろう。意識しないという選択、あるいは変えないという選択がそこで働いていると考えられるからである。人生は実は今しかないということが(瞑想や宗教の分野では)救いとして教えられることもあるが、逆に最も残酷な事実でもある。私はこれまで変な経験や誇らしい経験楽しい経験や惨めな経験や苦しい経験をしてきてそれなりに生きる術や心持ちを蓄えてきた。しかし、分厚くあってもおかしくないそれは、私の存在を少しも支えはしない。幅のない今、無である今にすべてが載っかっているから、それも当然であろう(幅のない今、無としての今についてはもう少し詳しく書きたいが、今はそのような気力がない)。ここ最近の歳をとっても、何か経験しても、年齢という数字だけが増えているだけという感覚はこれのせいなのだろうか。

以前は身体感覚や心的現象に言葉でラベリングするタイプの瞑想を嫌っていたが、最近は気持ちが急いていたり不安定だったりするので、ラベリングという強引な手段が役に立っている。すべては心が少し回復して、思考力が戻ってきてからだ。

20260119

結局、私は仕事で成長するとか生きがいを得るみたいなことを全く信じていないのだろうし、信じることは今後もないのだろう。せめて、お金があったら幸せになれるかも、とか思えばまだ頑張れるのかもしれないが、それもまた全く思えない。もちろん、生活が快適になったりはするし、付き合う人々の質を上げることができて、それが幸福度につながるかもしれない。だけど、根本的に人生に対する態度が違うので(下品な人よりは品のある人の方が好きだが)品のある人に対してもかなりの違和感を持ちながら接することになる。それに、人生に対して似たような態度の人とは、仕事ではないところである程度は出会ってきた、これからも出会えるかもしれない。それぐらいで充分だ。それぐらいができるくらいには何かをやろうと思う。

20260117

ここのところ、とんでもなく重苦しい気分で朝目覚める。たばこを吸うと(正確には、嗅ぎたばこなので、口に含めると、というべきだが)その気分はほとんど消え去る。ニコチンの離脱症状が直接の原因の気がするが、前はこんなことはなかった。ただたばこを吸おう、という気持ちになって吸っていただけだった。ChatGPTに聞いたら、コルチゾールというストレスホルモン(ストレスを受けたときに分泌が増える)が関係しているかも、ということだ。

買ったばかりのポメラのバックスペースキーが若干不具合気味。キーの端っこを押しても反応しないことが多く、ちょっとしたストレスだが、交換とか修理に出すほどではない(というよりも、そういう面倒なことをする気力がわかない。不具合がひどくなったり、気持ちに余裕があるときに、あるいはもうあまり使わなくなったときに、修理等に出すことにしよう)。今は、書くことを(昔のように)習慣づけられればそれでいい。

カフェの店員の半笑いの顔に若干いらついた。笑われているのではないかという軽い被害妄想を抱いてしまったのだ。よくない。

花粉症が始まったのか、鼻水が止まらない。

"100 citations philosophiques expliquées"という哲学入門書のようなものを読んでフランス語を勉強している。哲学的100の名言の紹介・解説といった本である。軽い内容なので語学の勉強にはちょうどいい。1引用に対して1ページほどで、それに読んだ限りでは、簡単にしすぎて間違い、というようなことも(あまり)なさそうである。大体3分の1ぐらい読んだところだろうか。読むときは一日一引用箇所。

今日はニーチェの『喜ばしき知恵』からの引用だった。真実への意志は死への密かな意志であるというような内容。真実への意志は、混沌や間違いの原因であるところのあるがままの生命vieを否定し、より高次な(いわば世界の彼方にある)価値に頼ろうとすることであり、それはつまり生命に対する敵対である。その意味で真実への意志は死への意志で、不健全なのだ。

昨日はプラトンからの引用で、学習するとは思い出すことに他ならない、というようなもの。私の魂が受肉しているこの体もこの体があるこの世界も所詮は仮象であって、真実の世界(イデア界)の不完全な映し鏡に過ぎないのである。魂の居場所である永遠の真実の世界で私の魂が知っていることを、私はこの不完全な世界で何らかの手段で思い出すのである。当然、ニーチェが激烈に批判しているのはこのような構図である。