しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『FFT』再訪

ファイナルファンタジー・タクティクス(FFT)』を今再びプレイし、そしてクリアした。ちなみにPSP版(獅子戦争)。

 

 

FFT』は(少なくとも世界観・お話作りに関しては)天才の松野泰己によるシミュレーションRPGである。「少なくとも世界観・お話作りに関しては」と書いたが、この人の考えるゲームシステムはいつもやや煩雑だが、ハマることができればかなり中毒性があると思う。とはいえ、ここで書きたいのは主に「世界観・お話」方面なのでシステム面の話はしない。

大体の話の骨格は次のようなものである:イヴァリースという名の王国で王位継承をめぐる戦争が起こり、その動乱の中で教会の人間や貴族階級の人々はどす黒い政治的駆け引きや陰謀に明け暮れるが、名門貴族出の主人公であるラムザとその親友である平民出のディリータは、それぞれの考えにしたがって大勢にのまれることなく、苦悩しながらも自らの信念にしたがって行動していくが……

松野のその他の重要作品、例えば『タクティクスオウガ』や『ベイグラントストーリー』のストーリーを忘れてしまったから(彼が途中で降板したFF12は最近また二回ほどクリアしたが)うかつに彼の話作りの特徴を語るわけにはいかないのだが、しかし『オウガ』や『ベイグラ』をクリアするのがいつになるかわからないので(またやるつもりではある)間違いを犯す危険を承知でとりあえずそれをここに書いてしまいたいと思う。

まずごく表面的なことからいえば、とんでもなく緻密な設定がある世界(特に国などの何らかの政治機構のシステムや歴史)を作り上げ、そのことによって世界に圧倒的なリアリティを付与している点である。これに関してはほとんど異論はないだろうと思うが、あえて自ら異論を挟むとすれば、もしかしたら松野は「とんでもなく緻密な設定がある世界」というよりは「とんでもなく緻密な設定がある「ようにみえる」世界」を作るのがうまい、ということかもしれない。例えば、キャラクターのセリフの端々にプレイヤーが知らない世界設定上の単語などを適度に配置すれば、プレイヤーは世界観の広がりを感じる、といった仕掛けがうまいのかもしれない。実際、今回FFTを再プレイしてみると、世界設定がただ世界そのもののためにあるというよりか、物語のテーマ(FFTの場合は階級制度)に奉仕するように設定が練られていることがよくわかった(もちろん悪いことではない)。ただまぁ、これに関しては、実情は両方(「緻密」も「緻密のようにみえる」も)ともよくできている、ということだろう。

次の特徴としてあげたいのは「政治劇」。松野ゲームと言えば、何よりも政治劇を見るためにプレイするというところがある。とにかく主人公を取り巻く人々やまだあったこともない遠くにいる人々まで政治的駆け引き的な思考をしない人はいない。昔はこの「裏の裏を読む」キャラクターのセリフの小難しさに翻弄され、ゆえに魅了されていたのだが、今回再プレイしてみると、正直冷静に考えればみんな机上の空論という感じがしたのは否めない。特にことがでかくなってくるとその感じが強まり、例えばFFTで言えば教会の陰謀(世俗権力同士で戦争するように仕向け、彼らが疲弊したところで自らが君臨する)そうであった。ゾディアック・ストーンの伝説を利用して民衆から支持を得る、というような話も具体的にはどういうことなのか、いまいちつかめない(FF12で破魔石がどうしても大したものに思えなかったのと同じだ)。ということで、「松野政治劇」は、一面ではキャラクターが机上の空論を喋り、実際世界がその机上の空論通りに動いてしまっているように見える、という感があるのだが、しかし他方でそれにご都合主義を感じないのは(やはり)背後に緻密な設定が見え隠れ(あるいは見せ隠せ)しているからである。というわけで、「松野政治劇」はやはり素晴らしい。(というか、そもそも机上の空論で実際にことが動くこと自体がリアルっていう意見も十分あり得るしね)

松野げーのプロットラインにおける特徴は(これこそが『ベイグラ』や『オウガ』を確認してから書きたかったが)、一言でいうと人間同士の(せこい)争いから超越的存在者への戦いへ、という流れにあるだろう。FFTで言えば、最初は人間同士の薄暗い血みどろの、しかし貧乏くさい争いかと思いきや、そのすべてを実は人間的存在とは全く次元の異なる悪魔的(つまり超越的)な存在者が利用していたことが判明し、主人公らはそいつらと戦いを挑むことになる。FF12の場合も同様で、最初は国家間のつばぜり合いかと思いきや、後半でそのすべては神に等しき存在とその存在を乗り越えようとする人間との戦いであったことが判明する。複雑な政治劇を懸命に理解しようと努めなければならない前半とは打って変わって、後半はその煩雑さなどすべてどうでもよかったと思わせるような、ある意味で開かれた(単純な?)戦いへと身を投じることになる。物語の前半と後半、あるいは世俗的争いと超越的存在との戦いの間には個人的にはかなりのギャップがあるように感じられ、それゆえに私はたまらなく好きなのだが、人によってはその無関係さ加減に納得できない人もいたりして?

最後に物語のテーマ的側面だが、緻密な西洋中世的な世界観であることがほとんどあるのに、かなり現代的であり、誤解を恐れずに言えば、かなりわかりやすい。FFTのテーマは階級制度というよりか、実は資本主義社会における(あるいは共産主義が盛んだったころの)「持つ者、持たざる者」たちによる闘争に見えるし、FF12ではニーチェあたりがどこかで書いていそうな「歴史を人間の手に取り戻す」という文言を真顔で、文字通りの意味で(つまり若干無粋に)実現してしまっている。あるいは、FF12のテーマを「過去との決別」だと考えても同じである。緻密な設定や政治劇でプレイヤーの頭は攪乱されるとはいえ、テーマは思いのほか単純なのだ。

さて、次は『ベイグラント・ストーリー』をやるつもりだが、松野げーを始めるときは(ストーリーの重さではなく)システム面の大変さ、難易度の高さを思って、いつもしり込みしてしまう。あー、どうしよう、始めようかなぁ……。