しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

Amy Cross "Stephen"

Amy Crossの"Stephen"を読んだ。英語である、ホラーである。前回の記事(ホラー作家Amy Crossを知る者(たち?) - であ・あいんつぃげ)が4月24日だから、ちょびちょび読んだ結果読み終わるのに少なくとも2ヶ月以上はかかったことになる(どう考えたってそんなに長い期間付き合う類の本じゃない)!

 

Stephen (English Edition)

Stephen (English Edition)

 

 

あらすじを簡単に:修道院を出たばかりの世間知らずの少女がとある屋敷の子守として職を得る。が、なんと世話すべき赤ん坊というのは死体以外のなにものでもなかった(その死体の赤ん坊がStephenである)。子どもの母親は赤ん坊の死のショックから立ち直れずに死んだ子どもを生きたものとして扱っていたのだ! 主人公の少女は世間知らずなので雇い主(子どもの母親の夫)になんだかんだ言いくるめられて、死んだ赤ん坊の「世話」をして同時に母親の正気を取り戻そうと奮闘するのだが……。

まず言っておかなければならないが、私はこんな話だとは知らずに読み始めたのだった。私が期待していたのもっと上品(?)なゴーストストーリーだったのであるが、あぁこれはもう幽霊は(少なくとも本格的には)出てこないな、と悟った頃にはもう半分以上読んでいた(この本、紙の本でいうと300ページもあるから、150ページも!)ので引き返せなくなったのである。

それにしても、悪趣味にも程がある話だった……。死んだ赤ん坊の世話とは、つまり死体をお風呂に入れたり、死体をベビーカーに入れて散歩したり、ものを食べさせるふりをしたり……そして後半になってくると赤ん坊の腐り具合がひどくなっていって……あぁ、悪趣味すぎる! こんなグロテスクなものを読むつもりじゃなかったんだ! 途中何度も読むのをやめようと思ったが、しかしこの著者、やっぱりホラー、サスペンス描写が破格にうまく、先が気になるように書くのもお手の物なので、嫌悪感を抱きながらもついつい読み進めてしまった。それでもやはり、私はグロテスクなものが駄目になったのは確かなようだ。途中、ご丁寧にも「次の章はグロすぎるので読み飛ばしても構わない」と読者は書き手である(という設定である)主人公に忠告されるのだが、本気で読み飛ばそうかと思った。まぁ、読んだが。そして、たしかに最悪だった。

不満点を上げるとしたら(上記はもちろん「不満」ではない)、まず第一に「言い訳描写」。この本は大部分主人公が後年になって書いた手記という形式をとっているのだが、その後年の主人公が過去の自分の行動の愚かさを説明するのに、私はその頃ナイーブ過ぎたのだ、と説明するのは萎える。普通に考えて主人公はさっさとあの屋敷から立ち去ればよかったのであるが、そうなるともちろん物語を展開できないので、あの頃は私はナイーブだったのだ、馬鹿だったのだ、だからあの状況に甘んじていたのだと書いて物語に正当性を持たせようとするのはいかにも拙いし、だから正当性も結局与えられていない。

第二の不満点は主人公の変態設定。この主人公、自分を鞭打ちして(つまり痛みから)快感を得るというちょっと変わった趣味を持っているのだが、これは完全に蛇足だと思った。痛みから快感を得ている時の描写がなんだかギャグのようだったし、しかも後半になってくるとこの変態設定が真面目な顔をして物語的に大きな意味を持ってきてしまうので、当惑(というかバカらしさ)を禁じ得なかった。

ともあれ、Amy Crossは本当に才能があると思う。しかし、日本人で私の他にこの本を読んだ人はいるかな? いたら教えてください。

つぎは上品なものがいいので、カート・ヴォネガットの『猫のゆりかご』を原書で読もうかな。

ドイツ語de.『点子ちゃんとアントン』!

ケストナーの『点子ちゃんとアントン』を原書で読んだ(原題“Pünktchen und Anton”)。もちろんドイツ語の勉強のためである。

 

点子ちゃんとアントン (岩波少年文庫)

点子ちゃんとアントン (岩波少年文庫)

 

 

読んでいて、だいぶ自分の中でドイツ語の基本単語が定着している感じがあって心地よかった。分離動詞(英語で言うと、動詞と副詞の組合せで独自の意味になるような単位だが)の意味の推測もどんどん精度が上がっていってると感じた。といって、大体10ページ弱ある各章を読むのに2時間かそれ以上かかってしまったのだが。全部で16章であり、時間のある日はだいたい一日一章読んでいたので、多分3週間ぐらいで読み終えたのだろう。主にドイツ語の勉強のために読んだから、わからない単語は全て調べ、どころか名詞の意味はわかっても性がわからない場合も調べ、極めつけは大体一段落読み終えたらまた全ての単語がわかっている状態でその段落を読み直した。

昔同じケストナーの『飛ぶ教室』を原書で挑戦したが、途中でやめた。ドイツ語力がおいつていなかったからつまらなく感じたのか、それとも単純に(読んだ限りの箇所は)つまらなかったからか、それはよくわからない。ただ『飛ぶ教室』のほうが若干難しいっぽいのは確かなように思われる。『点子〜』の方が面白く思ったが、ただ簡単だったのをそう錯覚しただけかもしれない。

内容的なことをいうと、『点子〜』は児童書だから他愛のない話だ。もちろん、点子という「天使のような変な子」の描写や犬を擬人化したユーモラスな描写などは読んでいて楽しい。だがもちろん私は大人だから、「ドイツ語で読む」という付加価値がなければ、到底本書を手にすることはなかっただろう。逆に言うと、外国語で読むという付加価値を与えればありきたりな(失礼!)話も楽しんで読めるのである。そして、今や多くの人にとって(児童書に限らず)あらゆる物語はありきたりになってしまった(見知ったパターンの一つ)であろうから、またその輝きを取り戻すためにも外国語で読むというのはなかなかいいことだと思う(退屈ならば外国語 - であ・あいんつぃげ)。

もちろん、自分の見知ったパターンに当てはまらない物語、というかもっと広く「言説」はまだまだ無数にあると思っている。特に哲学において。というのも例えば、哲学はそういうパターンの成立そのものを問題にしたりするからである(パターンの上にパターンを重ねるような類の芸は私は好きではない)。全てがわかりきっていると自惚れてはならない。むしろある意味で全くわかっていないはずであり、それは救いでさえある。

 

『ビューティフル・デイ』と(映画的)教養について

ビューティフル・デイ』を見たのでちょっと感想。


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いやぁ、久々に映像に見惚れてしまったなぁ。それと(いやそれ以上に)音楽のカッコよさと言ったら!


ところで、こういう「説明不足」の物語を楽しむ際には当然(最低限)映画の「文法」は一通り理解していなければならないが、どうやら多くの人はそのための「訓練」をしてきていないようで、本作を見ても意味がわからないらしい。そして、ちょっとネットの感想を覗いてみると、いつもの通り知性のない人間が知性がないことを誇って、わからなかった僕でいいんだ、洗練された映画の方こそが悪いんだという始末。もちろん、洗練されすぎた映画=ハイコンテキストな映画の是非を問うことは可能なのだが、私としてはやはり批判するにしても批判対象を楽しめる能力・知識を有しているのは大前提だと感じる。


しかし、一般に批判するなら批判対象を理解した上で批判するのがよいと感じるこの「趣味」に本当のところ正当性があるのかと聞かれたら、別にないと言わざるを言えないだろう(バカが考えなしに何か言ったことと頭のいい人間が考えに考えて言ったことと、結局中身は変わらないということは往々にしてある)。しかしここで「別に正当性はない」と言うとき、それは一度「正当性がある」という可能性を考慮したあとの否定であるから、やはり「批判対象を理解した上での批判」という構造を保っていることになる。つまり何が言いたいかというと、人は普通バカ(何も知らない状態)には戻れないということである(戻りたがっている人をよく見るので)。

 

『万引き家族』vs.『デッドプール2』

万引き家族』と『デッドプール2』を見たので、それらの感想。


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まずは『万引き家族』だが、まぁ是枝監督だから素晴らしいのは当たり前。物語は意外なことに(?)ミステリー的な見せ方をしていて、ずばりこの「万引き家族」の成員の素性が絶妙な塩梅で明かされていく構成になっている。彼らの素性が完全に明かされた時、我々がそれまで持っていた万引き家族に対する共感・好印象が(少なくとも半分は)ひっくり返されることになる。最初は「万引きをしている心温かい家族」を見せることで世間的な良さを相対化・弱体化させるわけだが、万引き家族もやはり決して褒められたものではなかったことをまざまざと見せつけてこちらもまた相対化され、結果、観客は不安定な地平へと放り出されることになる。あぁ、そもそも万引き家族の崩壊のきっかけは成員の一人である少年が正義に目覚めてしまったことに、自分らを相対化してしまったことにあったのだった。そしてその結果がどうであれ、それが良くなかったともやはり言えないのである。
 十分楽しんだし、傑作と言われてもなんの違和感もないが、前作『三度目の殺人』でも感じたが、是枝監督にしてはテーマがやや単純。いや、単純というよりも理屈っぽい。今作について言えば(いや、前作もそうかな?)「正しくないことが正しいことであることも時にはあるのではないか」といったテーマをかなりわかりやすく提示している(特にラストシーン!)。ただそれが、テーマを「感じさせる」と言うよりは、あくまでもその文言を「見せられている」ようなわかりやすさなので物足りないといえば物足りない。「正しくないことが正しいことであることも時にはあるのではないか」というメッセージ自体は「正しすぎるほど正しい」だけだからである。是枝監督、社会的責任というものを(もともと持っていただろうが)より強く感じるようになったのかなあ?


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デッドプール2』も見た。前作が全然面白くなかったのに、どうしても気になってみてしまった(自分の感覚が変化しているかどうかを知りたかった)。
まぁ、前作よりは良かったかなぁ。ギャグも80%はただただつまらなかったり・細かいサブカルネタなんて知る由もないから(知る必要も全く感じないから)笑えなかったりしたけど、はっきりと笑ってしまうところもあった。ただ、あの次々と繰り出されるメタ視点ギャグは全部さむかったなぁ。あれがなかったらもう少し面白くなってるんじゃないのかな。別に全てのメタフィクションがつまらないわけじゃないと思うが、今作は別にメタフィクションを活かした物語展開もないんだし、メタギャグはただ単に浮いていて、ただただシラケさせる役割しかなかったように思う。ただ、こういうゆるさ(半端な面白さ)を多くの観客は意外にも求めているのだろうとも思うし、実はそれはそんなに悪いことではないのかもしれない。まず第一に、「映画に過ぎないもの」に、「物語に過ぎないもの」に本気になってしまってはいけないという面は確かにあるからであり、第二に、虚構と現実の入り混じりや語り部の出しゃばりは、現代ではルール違反なだけで、私見だと昔(19世紀以前?)の小説なんかでは当たり前だったんじゃないかと思うからである。最も、昔は当たり前だったのだから、こういうデッドプールみたいなものが「新しい」と言われているとしたら、それは違うと言いたくなる。むしろ古臭い。なんかテレビのバラエティー番組を見ているような気分になってくる。

しかし、どちらの映画も「正しくないことが正しいことであることも(時には)あるのではないか」だったなぁ! 万引き家族はそれを「説明する」のに対して、デッドプールはそれを「示す」方向なのでその点はより好ましいのだが、もう少し面白ければなぁ!

ラブ、リーベ、愛……

君、弱かった君、強くなるためには誰かに愛されねばと思っていた君、しかし結局は愛されず一人で強くならなければならなかった君、その結果今君は誰かから愛されているのかもしれないが、君、こうなったあとで果たしてどれだけその愛に真剣になれるというのだろうか……

『ファントム・スレッド』


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ファントム・スレッド』を見た。うーん、最近は『ランペイジ』のような全くの無意味な映画しか楽しめない、そのような映画こそ楽しめると思っていたが、ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)さすがというべきか、すっかり楽しんでしまった、前に座っていた客の頭が邪魔で字幕が三分の一が常に見えず終始イライラしていたにも関わらず、である。
本作は最後に「意外な展開」が待っている。PTAのような純文学ならぬ純映画作家が「純」であると、高級であるとみなされるのは、まさに今作の「意外な展開」が象徴的だが、王道からのズレ方が絶妙であるからだ。王道(というか、常識的物語展開)に対するアンチテーゼとまではいかないが、王道というわけでもない、その微妙なズレに満ち満ちたお話。そのようなバランス感覚を持った作品こそが現代作られる物語の中ではアート的だとされているのだろう。しかし一度それはただ現行の主流に対するズレに過ぎないではないかと思ってしまったら、そこから「アート」という価値が剥ぎ取られてしまうのは必然なので、私は鑑賞前は今作を楽しめるか心配していたのであった。
それは完全に杞憂だった! ただの娯楽として楽しめたからである!

『タクシー運転手』の感想

『タクシー運転手』を見た。


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 知り合いの韓国人に、『タクシー運転手』を見たが、最後のカーチェイスは流石に笑ってしまった、と言ったら、もちろんエンタメ的に面白く誇張はされているが、しかしもととなった出来事は韓国人にとってはとても悲しいものなのだ、というようなことを言われた。確かにもとの事件もその背景となる韓国の歴史もほとんど知らない私は、なるほど、とは思った。だが、しかし、この映画はその悲惨さを伝えることに成功しているか? 
 全体的にあらゆるジャンルの継ぎ接ぎのように感じた。もちろん実話ものではあるのだが、同時に人情喜劇でありホラーでありカーアクション映画であり……特にホラー的に演出された箇所とカーアクション的箇所が映画から真剣さを奪い去ってはいなかったか? また、細かいところでもシーンとシーンの継ぎ接ぎ感が目立っていたように思う。
 まぁ、主人公が光州に戻ると決意したところでは泣かないわけにはいかなかったが!

(追記)
もちろん、ジャンル映画的であるから不誠実であるわけではないし、深刻な演出のされた映画であるから誠実な映画であるわけではない。深刻な演出をただ「楽しんでいる」に過ぎないとも言えるし、それへのアンチテーゼとしてのジャンル映画というのも当然ありえるからである(結局は映画は楽しむためにあるのさ!)。ただ問題は、その時作られるジャンル映画もまた自分のほうが誠実であると主張する以上、そうなるとそれもまた誠実さを「楽しんでいる」に過ぎないではないかと言いたくなってしまうことだ。それならばと、またストレートに深刻な映画に戻るのであるが……誠実性をめぐる泥沼から抜け出すのは困難である。抜け出るためには「誠実性」なるものを忘れるしかない(ポスト・トゥルース)。もしそうはなれないのであれば、つまり自分はあくまでも誠実であると言い張りたいのであれば、ベタな誠実さへのアンチテーゼとしてのジャンル映画化という一歩は踏み出すべきではないだろう。なぜなら、その一歩は誠実性めぐる泥沼を現出させ、結果そもそも誠実性に価値があるのかが怪しまれるからである。
何が言いたいかというと、『タクシー運転手』は誠実性を振り切ったポストトゥルース的作品ではなく、かといって誠実一辺倒でもない、半端な作品だということである。