しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『反哲学史』の感想

木田元『反哲学史』を読んだ。

 

反哲学史 (講談社学術文庫)

反哲学史 (講談社学術文庫)

 

 正直、読む前に予想していた主旨から一歩も出なかったという印象であまり新しい知見を得られたわけではない。加えてそれまで全然知らなかった箇所(マルクスとか)については依然としてよくわからないままなのだが、まぁ、「〜史」なのだから全ては要約でしかありえずその要約を伝えようとしているのだから、そうであって当然だ。やはり「〜史」的な本は知識等の確認に「使う」のが良いと思う。その分野でいくつかの事柄についてわりと詳しく知ったあとにその分野の歴史を読むと結構頭が整理される。
さて、この『反哲学史』で面白かったのは、やはり哲学の始まりの箇所、ソクラテスについての記述だった。ソクラテスは「おのれ自身いかなる立場にも立たない、いわば無を立場に」しており(ところでこれは、シュティルナー的エゴイストの定義となんと似ていることか!)、「無限否定性」を武器に論敵を破っていった、それが哲学の始まりであった。ここまでは納得なのだが、しかし著者はこのソクラテスの「無限否定性」は「根源的自然」に向けられていたので、以後は「不自然な」形而上学としての哲学が展開していったと主張しているわけだが、これはどうだろう? プラトンイデア論によってその方向が作られたというのはわかるし、まぁ確かにソクラテスがいなかったらプラトンも偉業をなしていなかったであろうからその意味ではわかるが……いや、私は哲学史どころかソクラテスに関してさえほとんど何も知らないので批判は決してできないわけだが、しかしそれでも「無限否定性」が「(それ自体のうちに生成原理を宿す、形而上と形而下とに別れる以前の)根源的自然」に向けられていたとするのには違和感を覚えてしまう。それどころか、私にはいつだって「無限否定性」はまさにその「根源的自然」の表現に思えてしまうのだが。というのは(ソクラテスのことは知らないが)「無限否定性」はもうすでに固定されたある考え方に食らいつき、それには実は根拠なんてないと叫ぶのであるが、それは根拠という名の形而上のものを求めているからではないように思うからだ。次に現れた根拠もまた粉砕してしまう「無限」否定性は、やはりどこまでも形而上のもの、根拠、意味の粉砕であり、根源的自然へと向かっているように見える。しかしそれを遂行するのもまた言葉という名の「意味」である以上、「根源的自然」へは永遠に到達できず、やはり「無限」に(自己)否定を続けていく。決して到達できないものをせめて「表現」するために、それは無限なのである。

この本の位置づけでは、ニーチェニヒリズムの徹底によって根源的自然に至ろうとした哲学者ということだが、ニヒリズムの徹底とは無限否定性にほかならない。もしかしたら、ソクラテス形而上学へと、ニーチェは根源的自然(ときおり単なる形而下)へと傾いていたとはいえるが、両者に共通する「無限否定性」そのものは根源的自然の「表現」だと言えるのではないだろうか? そしてソクラテスのあともニーチェのあとも、結局猛威を奮ったのは形而上学であったことの理由は、無限否定性はやはり根源的自然の「表現」に「すぎなかった」ことにあるのではないか? 根源的自然とは(本書にある通り)形而上・下へと分裂する以前の存在そのものだが、それは表現された瞬間にそれでなくなってしまうような、そんなものなのではないか?

そもそもよく生きるべきなのか、それが重要だ

 永井均がいつか呟いていたシュティルナーの『唯一者とその所有』を引き続きドイツ語で読んでいる。第一部のⅡの2のⅰ(日本語訳にしてわずか40ページほど……! ドイツ語版は電子書籍なのでページ数的にはよくわからない、というか言っても意味がないが、全体の8%ほど……)までしか読んでいない。読み終わるまでにどれぐらいかかるかわからない、途方に暮れる、としか言いようがないが、他に面白い本がドイツ語で見つかるとも最近は思えないので、実は別に問題はないのである。(どんな小説があるかはほとんど知らずに)小説を読むつもりでドイツ語を勉強し始めたのだが、小説そのものへの興味がなくなりつつある。それでなくともドイツ語で書かれた小説でよく知られているものはカフカヘルマン・ヘッセゲーテなどなど(ちょっと手は出したものの)敷居が高い。唯一ホラーは読みたいのだが、ドイツ語で書かれたホラーで面白いものを見つけるのが面倒くさいし、もうちょっとすらすらと読めるようになってからでないと、ああいう馬鹿らしいものが読み切れない気がする。ホラーを「頑張って」読むなんてことがあってはならないと思うからである。

 話が逸れたが、まだ全然読んでいないとはいえ、『唯一者〜』における「精神(der Geist)」についての見解は素晴らしいと思う。特に膝を打ってしまうのが、人は純粋な精神ではないこと事実から「自分は精神以上の存在だ」と言うのではなくて「精神以下だ」と言いがちだというようなことが書かれている箇所だ。シュティルナーによると、キリスト教から脱してもその事情は変わらない。純粋な精神は自分自身ではありえないのでそれは自分の外に置かれて「神」と名付けられた。しかし、神という虚偽が暴かれ、神と呼ばれていたものは自分の精神なのだと言われるようになっても、それが「自分」そのものではないという事実には変わりない。それは自分の「精神」なのであって、「自分」ではないからである。その時、純粋な精神になりきれないことで人は自分を責めさいなむのであるが、やはりおかしな話だ。精神とは違う他の何か(例えば肉体)を持っているのだから、「私は精神以上の存在だ」と言ってもいいはずだからである。どころか、そちらのほうが自然のように思われるのだが。

 そういえば私は昔から、例えば人が「やらなければいけないこと」をやらないで「遊び」にかまけてしまったことを後悔し嘆いているのを聞くと、その嘆きはどうでもいいのではないかと思わずにいられなかった。もちろん気持ちはわからないではない、どころか私もたまにその種の嘆き方をするのだろう。しかし本当のところ、さっきの話で言うと、「やらなければならないこと」は精神が命じるところのものであろうが、それが「遊び」よりも優先されるべき理由が全くないと思ってしまうのだ(ただし、「遊び」が「やらなければならないこと」より優先される理由もまたないのかもしれないが)。

 というわけで、私にとって重要な問いはいつだって「どうやったらよい人生を送れるか」ではなく、「そもそもよい人生を送るべきなのか」ということだった。普通の人が精神的な人間であるとは思えないが、しかし彼らは「精神が命じるところのものは良い」という価値観は疑っていないように思う(実際にその価値観に従うことができているかはともかくとして)。あぁ、しかしどういうことだろう? 私はドイツ語でこんな本を読んでいるぐらいだから精神的(とまで言わなくても、観念的な)人間であると言っていいと思うが、どうやらそういう人間に限って精神というものがまるきり信用できないようなのである。良い人生を送る方法が実践できない、というレベルではなく、そもそも良い人生を生きるべきなのかという水準でつまずいでしまう。

「精神」を「観念」と置き換えてもうちょっと考えてよう。普通の人は観念を扱うことに不慣れであるが、それは彼らが観念的でないからであろうか? 多分そうではない。そうではなく、彼らは観念にどっぷりと浸かっているので、いわば「観念の客観視」ができないのだ、だから観念を「扱う」ことはできないのである。だから普通の人が実は一番観念的なのだとも言えるであろう、だからこそ常識という観念に流されるままなのだ。じゃあ、普通観念的だと思われている人々はどうなるのか? 彼らは「観念」を客観視できるところに立っているのだから、つまり「観念」の外に立っているのだから、観念以上の「私」に(のみ)拠って考えているのだから、実は観念的ではないのだ。だが一方で、彼らが普通の人よりも(少なくともその昔は)観念的であったことは経験的に疑い得ないように思う。そもそもどっぷりと浸からなければ、そこから出られない、というわけだろうか? しかし、本当に出られているのか? (永井均的な意味での)私がただの観念に過ぎなくなったら、やはりその人も観念的人間に過ぎなくなるのだろう。

 

唯一者とその所有 上 (古典文庫)

唯一者とその所有 上 (古典文庫)

 
唯一者とその所有 上

唯一者とその所有 上

 

 

『影をなくした男』

シャミソーの『影をなくした男』を読んだ。

 

影をなくした男 (岩波文庫)

影をなくした男 (岩波文庫)

 

 

もともと、シュティルナーの『唯一者とその所有』の中でほんのちょっと触れられていたのが読んだきっかけだった。シュティルナーのそれを頑張ってドイツ語で読んでいたのだが疲れ、ちょっと寄り道をして『影をなくした男』の原書(これもドイツ語)に手を出したのであった。もっともこれもすぐに疲れて、わずか10ページほどで挫折し、残りの60ページ分は池内紀訳で読んだというわけだ(そう、この作品は短い)。

 

作品の内容を一言で言うと、悪魔との取引で自分の影の代わりに無限に金を引き出せる財布を手にした男(ペーター・シュレミール)の受難劇、といったものである。金はあるのだが影がないので人々から差別され、ちっともいい目を見られない、どころか不幸に不幸が重なる。「悪魔との取引」といい「町娘との悲恋」といいゲーテの『ファウスト』を思い起こさせる(し、同様に胸が詰まるような悲しい展開が待っている)が、ここでは先に述べたシュティルナーの『唯一者とその所有』での紹介のされ方を手がかりに色々と考えるとしよう。

 

シュティルナーは「影をなくした不幸なペーター・シュレミールは、精神と化した人間の肖像画だ。なぜなら、精神の体には、影がないからだ」と言っている。これは一見、影を「金のために」売ったシュレミールを評するのにふさわしくない言葉に思われるが、実際にこの作品を読んでみると結構納得がいく。どういうことか、思いつくままに書いていこう。

1.ペーターは影をなくして人前に出られなくなり、部屋に閉じこもりがちになる。精神的なものを重視する精神的な人間が人との関わりを断つ、まではいいかなくても制限するのは容易に思い浮かべられよう。
2.ペーターは後にまた悪魔に、影を返す代わりに「魂」を寄こせ、という取引を持ちかけられ、そしてそれには(自らの意志からとははっきり言えないとはいえ)応じないのである。「魂」はもちろん「精神」であり、それをペーターは手放さない精神的な人間である。
3.失恋後、ペーターは学問に人生を捧げることになる。精神的な人間らしいのは言うまでもない。ちなみにだが、精神的な人間であったがゆえに恋が駄目だったのだと考えて読むと(現に私はそう読んだのだが)本当に哀しかった。自分は「呪われた」存在ゆえに愛する人と結ばれる資格はないと考えるところも合わせて……

 

とまぁ、シュレミールが「精神と化した人間の肖像」であることの証拠探しはこれぐらいにして、この仮説が正しいとすると、この物語はなんの寓話なのだろうか? 実を言うと、きれいに筋の通ったことを言うのは難しい。というのも、やはり「影」がなんの象徴かがかなり厄介だからである。例えば、シュティルナーの人間の三段階成長の図式(物質的人間→精神的人間→エゴイスト)に当てはめるのなら、影は当然物質性の象徴となり、それを手放してシュレミールは精神的になったと言えるのだろうが、しかし、そうなると影の代わりに金が手に入るというのがどうにも納得できない。金こそ物質的(といって変ならこの世的)なものの象徴に思われるからである。

 

しかし、実はそうとも言い切れない。というのは、お金ほど抽象的(つまりは精神的)なものもないだろうから。金にしたって本当はただの鉱物であり、紙幣に至ってはただの紙、それらを人間たちのルールが価値あるものにしているだけだ。一般的な理解に反して、お金に執着する人とは精神的な人、と言って言い過ぎなら、抽象的なものの愛好者なのではなかろうか? とするとこの物語は、物質的人間→低次の精神的な人間(つまりお金好き)→高次の精神的な人間(つまり学者)という成長物語と言えるかもしれない。影は物質性ないしは「素朴さ」の象徴なのかもしれない。と考えると結構普通の話ではある(もちろんとても面白かったけれど)。

 

シュティルナー的最終進化をしてエゴイストになっていたのなら、シュレミールは「ちゃんと」お金を手放さずに遊びに遊んで、学問もして、最後に再開したヒロインともまたやり直したんじゃないかしらん。こうなった方が痛快だと思うが、多くの人は「他人」がそんなにいい目を見るのに耐えられないのかもしれない。

愛より強く

 

愛より強く スペシャル・エディション [DVD]

愛より強く スペシャル・エディション [DVD]

 

 

 前の記事で、映画を見まくっている人は意味がわからないみたいなことを書いたが、もちろん半分冗談であり、今日もまた映画を見た。ファティ・アキン監督の『愛より強く』だ(随分前の作品だろう)。しかし、あぁ、見なくてもよかった、とやはり思ってしまった。作品の質が低かったからではない。こういう「リアル」な作品をもはや私の胃は受け付けないようなのだ。前にも書いたとおり、映画で「リアル」なんか知らされたくないという気持ちを抑えきれない。

 

愛より強く』のあらすじは簡単に言うと、精神的に不安定な、「ままならない」男女のラブストーリーである。それにドイツにおけるトルコ移民の問題なんかも含んでいるが、まぁここではそのことは脇においておこう。話も二三回予想外の急展開を見せて面白い(のだと思うが、実をいうと「予想外の急展開」自体にもう私は飽きているので……)。だが、それも脇に置いておこう。そういう具体的な話はやめて、ここでは「ままならない」人間について考えてみたいのだ。

 

 この映画の二人の主人公の「ままならなさ」と言ったら、見ればわかるが、半端ではない。特に映画の前半は画面からにじみでる卑小さは尋常でなかったように思う(それで後半のしっかりムードが引き立つ)。しかしもう私にはその「ままならなさ」を味わうだけの体力がないようなのだ。昔なら彼らの無為な生活を眺めながら「人生はままならない」と嘯けたことであろうが、今はできそうにない。というのは、やはりこれは私(や私と同種の人間)の「ままならなさ」ではないからである。そうだ、私達の悩みはこういうめちゃくちゃの生活をしてしまうことではない。むしろ、どんなに打ちのめされてもこういうめちゃくちゃに落ち込むことができないというところに私達の哀しさがなかったか? ぐちゃぐちゃになるにしてもそれは所詮「あえて」の行為ではなかったか? この映画の主人公のように「じかに」生きるから苦しいのではなく、すべてが「あえて」であり、しかも「あえてする」のは苦しくて、しかも「あえて」できたにしても結局全然面白くはない、そのことに私達の哀しさがあったではないか! 私たちはもう自分を偽るのをやめよう……無為な生活をしている登場人物に自分を重ね合わせるのはやめよう……私は、あなたは、無為な生活に「憧れている」人間であり、しかしそうなるには「あえて」そうならなければならないということからして、決してそうはなれないのであるから……

退屈ならば外国語

 映画マニアや海外ドラママニアの人を見ていて不思議なのは、彼らが一向に飽きそうにないことである、いつまでもいつまでも見続けていられるらしいことである、こんなにたくさん見る「べき」ものがあり困っている、と真顔で語ることである。他にやることがないから、しかし退屈が怖いから見続ける、それならわかるし、それもいいだろう。しかし、見る「べき」とは……いやはや、やる「べき」ことなどこの世には何一つないが、それにしても映画や海外ドラマを見るのは一段と「べき」に数えられないであろう。本当に、なぜ飽きないのだろうか? 内容は、とまで言わなくても内容から読み取れる(読み取ってしまう)パターンの数はたかが知れており、おそらくはもうそれら全ては発掘されつくされている。しかも、往々にしてオタクやマニアと言われる人は、個々の映画を嬉々としてそういうパターンに嵌め込んで語る、その個別性をなくして言わば不真面目に語る。虚しくならないのだろうか? まぁ、そこまでいかなくても、繰り返しになるが、飽きないのだろうか? 飽きる「べき」ではないか?


 飽きる「べき」だと感じる人には、ぜひとも外国語の勉強に向かっていただきたい。物語の享受において、内容で新しいものを発見するのはもうかなり難しいであろう。より複雑であったり難解であったりする物語やパターン外しの物語は最初のうちは新鮮かもしれない。しかしそのうち、もっと複雑で難解なものを求めることの虚しさに押しつぶされるに決まっており、パターン外しもまたパターンに過ぎないことに気づくのもまたパターンに過ぎないことに思い悩むに違いないのだ。しかし他方で、確かに(広い意味での)物語の享受以外の娯楽など、あるだろうか? 気楽なものとしてはなかなか見つからないだろう。だから、物語享受の根本の「仕方」を変えてしまえばいいのだ。つまり、「外国語で物語を享受」すればいいのである。「内容」にもはや真新しさを感じられなくなった人間は、「ガワ」を変えてしのいでいかなければならない。ここでいう「ガワ」とはもちろん、物語を享受するときに使用する「言語」のことだ。

 

 実際、外国語で本を読んだことがある人間なら知っている通り、それを完遂したときの達成感はかなりものである。そして、ここが重要なのだが、その達成感は「ガワ」の問題であるにも関わらず、「内容」の評価にも影響する、つまり、物語それ自体がより面白く感じられる、「新鮮に感じられる」のだ。うまく扱えない外国語に我々が触れる時、我々は「子ども同然」であるが、ということはつまり、我々が例えばその外国語で本を読む時、我々は擬似的に子供時代に戻っているのである、「まだ全てが新鮮」なのである。もはや我々は「言語未成熟状態」ないしそれゆえの世界体験を得ることは叶わないわけだが、しかし外国語は少なくともその「シミュレーション」にはなるのである。ちなみに、「言語未成熟状態」は生き生きとした言語的体験を重視するときの物言いだが、ただ単に「生き生きとした体験」ならば、それは「言語以前」とでも言われるべきものだ。その両者は、大人になってからも得られるものだし、それぐらいしか得る「べき」ものなどないとも思うわけだが、成長してしまった我々はそれらを「意識的に」得なければならない、がゆえに「シミュレーション」に過ぎないのかもしれないし、いや本物を体験しているのかもしれない。

今のドイツ語学習法

 英語はそんなに難しい本でなければ読めるようになり、だからこそ退屈になったので(という理由だけでもないのだが)今はドイツ語を勉強中。本当は本を読めるだけでいいのだが、それではあまりにも寂しかろうと思って会話もちょっとできるようにと思ってそっち方面にも力を入れている(そして不思議なことにというべきか、リスニングやスピーキングをやると、しばしば読むほうもスムーズになったと感じるのである。やっぱり言語っていうのは総合なのだなぁ)。

 

 勉強法はもっぱらリスニングやスピーキングの教材の暗記である(そしてほんとに時たまネイティブと話してみる)。つまり、聞く→(テキストを確認する)→自分で覚えるまで言う→また聞く、を繰り返すわけだ。つまらない文章でなかなかモチベーションを保つのが難しいが、難易度と話題のバリエーション(ゆえの単語と人称のバリエーション)を考えれば仕方がない。一度『荒野のおおかみ』の「荒野のおおかみに関する論文」(だったっけ?)の好きな箇所(10ページほど)を暗記したことがあったが、複雑な構文で地獄のようだった(しかし、なんとなくあれのお陰で一つレベルアップできたような気がしているのだが、気がしているだけだろうか?)。

 

 この原始的な暗記勉強法を始めるのは気が重かったが、やってみると今までにない速さでドイツ語が進歩しているような気がしている。もちろん、原書を辞書を使いまくって読むという今までのやり方がありえないほど非効率であったというのもあるが。

 

CD2枚付 耳が喜ぶドイツ語 リスニング体得トレーニング

CD2枚付 耳が喜ぶドイツ語 リスニング体得トレーニング

 

 

 

CD2枚付 改訂版 口が覚えるドイツ語 スピーキング体得トレーニング

CD2枚付 改訂版 口が覚えるドイツ語 スピーキング体得トレーニング

 

 

今はどうか知らないが

 もう半年も前のことだが、池袋の新文芸坐黒沢清のオールナイトに行ったとき仰天したのだが、あの映画館、従業員接客ランキングみたいなものを貼り出していた(確か、客からのアンケートして……)。ああいう残酷なことを映画館がやるとは思わなかった、だってああいう糞すぎることから逃れたいがために映画を見るのではないのか? 私の記憶違いではなく、そして今もまだあんなことをやっているのなら、即刻やめるべきだ。従業員のモチベーションを上げるためだ、モチベーションが上がれば従業員も幸せだ、という「騙されている方が幸せ」方式の論理は最悪としかいいいようがない。モチベーションが持てない仕事なら持てないままでいいに決まっている、どころか、仕事をイキイキとやらなければならない理由など――この世のあらゆるものには究極的に理由がないわけだが、それを遥かに上回る形で――ない。