しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

アベンジャーズ インフィニティ・ウォー

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アベンジャーズ インフィニティ・ウォー』を見た。
 楽しんだが、しかし(もちろん)全く期待していなかったから楽しめたのである。全く期待していなかったというのはつまり、何か新しい感情を体験するとか、何か「身にしみる」ようなことだとかは、期待していなかったという、エンタメに対しては当然の態度も含まれるが、それ以前にストーリーについては何も考えないことにしていた、という意味も含まれる。
 もうずいぶん前からだが、映画、小説、その他何でもいいが、ストーリーの論理的整合性にこだわるということが(よほどひどいものに触れない限り)なくなった。物語というのは多かれ少なかれご都合主義的であらざるを得ないし、もっと言えば、ご都合主義のようにありえない話だからこそ、それは語られるに足るからである。現実をそのまま写し取るなんて、つまらないだけではなく、事実に反してさえいる。
 しかしじゃあ、そういう風に考えるようになった今、物語を以前よりも寛容に受け取るようになれたかといえば、それだけではない。逆に、というべきか、ストーリーなどどうでもいいという気持ちにもなるわけである(そういう意味で寛容である)。ましてや、『アンベンジャーズ』のような他の作品との整合性も考えられている作品の、その整合性について考えるなんていうことは、あまりにも馬鹿らしくて金を貰えてもやりたくはない。というわけで、ストーリーはなんとなく雰囲気で感じ取るだけにとどまって、CGキャラクターによるCGバトルを堪能してきたというわけだ(多くの人は単にそのように楽しんでいるのだろう。やっと私も普通の人レベルになれたわけだ)。
 ところで、この「ストーリーなんてものはどうでもいいという気分」について、「それはあなたが歳をとって、それが「映画」に過ぎないとついに気づいた結果なのだ、これからは映画などからは離れてただ現実を大事に生きればいいのだ」と言われる方もおられるかもしれない。しかし、話はそう単純ではないように思われる。というのも、私は現実世界においても多くの人が物語を(典型的には「自己物語」)を語ったり本気にしていることを嫌悪せずにはいられないからである、それが「物語」に過ぎないと言いたくて仕方がなくなってしまうのである、「現実」もまた「物語」に過ぎないと思ってしまうのである。そしてさらには、物語つまり嘘を現実と勘違いしてしまう「現実世界」よりも、嘘を嘘として享受できる「虚構」のほうがマシなのではと考えてしまうのである。アメコミ映画なんかを(半分馬鹿らしいと思いつつ)未だに見られるのはそのためだ、完全に嘘だからだ。嘘に気づいている時、それを嘘だと知っているということは、その逆の「本当」を知っているということなのだ。そして「本当」を知ることだけが満足を与えてくれるのである。
 もちろん、優れた芸術作品の中には「本当」を語ることなしに(なぜならそれはそもそも語れない種類のものなのだから)、それを「示す」ものが存在する。やはりそれが最も優れた表現であると未だに感じる。しかし、エンタメを享受する際のこちらの態度が変わってしまえば、どうやら(優れた)芸術作品と接する時に得られるものと同じものを感じ取れるようなのだ。

真実の感情

君、理性よりも感情が大事だと息巻く君、にもかかわらず真実の感情などを求めてしまう君、その君の矛盾に付き合うのだとしたら、君、真実の感情とは哀しみではないだろうか、誰であれこうでしかあり得なかった、なぜかこうなってしまった、そう思うときの一筋の、つまりはそれ以上は流されない涙ではないだろうか……

抜粋1

シュティルナーの『唯一者とその所有』からの好きなところ抜粋(拙訳)。

事物の裏側で自身を見つけたように、もっと言えば自身を精神とみなしたように、私は後々には思想の裏側にも私を発見する、すなわち自らを思想の創造者・所有者とみなす。精神的な時期においては思想が頭を超えて育っていった、そもそも思想は頭が産んだものだったのだが。高熱に伴う幻覚のようにそれは私に纏い付いて、私を揺り動かす、ぞっとするような力だ。思想はそれそのものだけでありありと存在するようになり、神や皇帝や教皇や祖国などのような幽体となった。私がそれらの存在感を切り裂く時、私はそれらを私のものの中に引き戻すのであり、そして言うのだ、私だけがありありとあるのだ、と。そして今や私は世界を捉える時、私に現れるものとして、私のものとして、私の所有物としてみるのだ。私はすべてを私に関連付ける。

簡単に言うと、子供は事物の背後に抽象的な・観念的なものを見出し、そっちを重視することで青年となり、その青年が観念的なものの裏側に自分を発見する(つまり、自分がいなければその観念も存在しないと気づく)と大人になる。

ホラー作家Amy Crossを知る者(たち?)

 日本人でホラー作家Amy Crossを知っているのは、いや少なくとも一冊まるまる読んだのは私だけではないかと密かに得意になっているのだが、間違っているだろうか? 何しろ英語だし、それにあちらでも(そこがどこか知らない。英語圏であることは間違いないが)人気爆発というわけではないだろうから。

 最も、私もまるまる読んだのは一冊だけで、しかも短編集である(“Twisted Little Things & Other Stories”)。これはかなり面白い。呪いの人形の話や、自分が苦しみから開放されるために、他人が自分の苦しみを苦しむように悪魔と契約する話など……今は“Stephen”という長編を読んでいる。メイドとして働きに行った家の夫人は、死んだ子供の死体を生きた子供のように扱っていて……まだ半分近くだが、幽霊は出てきていない、しかし、どうやら出てくるようである。これもすごく気味が悪い話だ(から面白い)。

 ともあれ、エイミー・クロスを知っている人、いますか? 

 

Stephen (English Edition)

Stephen (English Edition)

 

 

 

Twisted Little Things and Other Stories (English Edition)

Twisted Little Things and Other Stories (English Edition)

 

 

レディ・プレイヤー1

レディ・プレイヤー1を見た。おそらく、2Dで見たのはかなり失敗だったのだろう。(以下ネタバレ)

 
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言いたいのは二点だけ。

一つは、VR世界と現実世界とのツギハギ感が半端ではなかったということ。それも当たり前で、VRから現実のプレイヤーに与えられる影響といえば、プレイ時に着る特殊なスーツがゲームとリンクしてプレイヤーに与える身体的感覚ぐらいのもの(臨場感を増させる程度である)。一方、現実世界からVR世界のプレイヤーに与える影響は極端に大きいものぐらいしかない。つまり、現実でプレイヤーの邪魔をすれば、当然そいつはゲームをできなくなる(これ以上の影響があろうか!)。VRは中途半端な(?)技術だから現実とのリンクが弱いので、ゲームと現実が互いに影響を及ぼすとしたら微小か極大になってしまう。ゲームの中でどうなっても結局のところ安全なので現実の危険を持ち出してくるわけだが、もちろんその危機とはゲームプレイ「そのもの」の邪魔である。大雑把すぎるのだ、0か1なのだ、プレイできるかできないかでは駆け引きは生まれない……。

二点目は、にも関わらず終盤で泣いてしまったこと。この「オアシス」というゲームの製作者の心情の吐露には(わかりきったことだったとはいえ)やられた。現実との付き合い方がわからなかったからこのゲームを作った……しかも、さらりと、というべきか、片手間に、というべきか、諦観すらもうない、ただ事実を告げる感じでそう告白するあの様は、他の映画では見たことがなかったように思った(もちろん、あるのかもしれないが、覚えていない)。

ただ、「なんにも考えず」系の面白さでいったら、パシフィック・リム2のほうが上ではあるので、そちらにまず行かれると良いと思う。

 

 

 

人付き合い

 君、かつて人付き合いが苦手だと自認していた君、得意だったとしたらどんなに日々が楽しかろうと考えていた君、そして努力のすえ今や自然に他人と戯れることができるようになった君、その君は他人との関係を楽しく感じているのだろうか、それとも苦しみが引き算されただけで、ただ全てが億劫になっただけではないだろうか……

青年から大人へ

 マックス・スティルナーによれば(今ちゃんと『唯一者とその所有』を確認しいたわけではないので心許ないが)、青年から大人への移行はエゴイストになることである。青年は自分を精神とみなしているが、精神含め全ては「私」がなければそもそも存在しないではないかという事実に気づき、それに基づいて生きる者が大人である。私が全てである。

 自分を精神と見なしている者はエゴイストにはなれない、なぜなら精神というお話においては「完璧な精神」が存在してしまい、そして彼はそれになれないことに悩むからである。「完璧な精神」つまりは「神」のような「自分の外」を設定して、それを基準に自分を考えているのだからエゴイスト=大人ではない。

 しかし、「そもそも」世界が自分のものであるとき、わざわざエゴイスティックになる必要があるのだろうか、言い換えると、「さらに」世界を自分のものにしようとする必要があるだろうか? 

 『唯一者〜』を読み進めればそこらへんがわかるのかな?

 

唯一者とその所有 上 (古典文庫)

唯一者とその所有 上 (古典文庫)

 
唯一者とその所有 (下) (古典文庫 (21))

唯一者とその所有 (下) (古典文庫 (21))