であ・あいんつぃげ

単独者のみなさんへ……

退屈ならば外国語

 映画マニアや海外ドラママニアの人を見ていて不思議なのは、彼らが一向に飽きそうにないことである、いつまでもいつまでも見続けていられるらしいことである、こんなにたくさん見る「べき」ものがあり困っている、と真顔で語ることである。他にやることがないから、しかし退屈が怖いから見続ける、それならわかるし、それもいいだろう。しかし、見る「べき」とは……いやはや、やる「べき」ことなどこの世には何一つないが、それにしても映画や海外ドラマを見るのは一段と「べき」に数えられないであろう。本当に、なぜ飽きないのだろうか? 内容は、とまで言わなくても内容から読み取れる(読み取ってしまう)パターンの数はたかが知れており、おそらくはもうそれら全ては発掘されつくされている。しかも、往々にしてオタクやマニアと言われる人は、個々の映画を嬉々としてそういうパターンに嵌め込んで語る、その個別性をなくして言わば不真面目に語る。虚しくならないのだろうか? まぁ、そこまでいかなくても、繰り返しになるが、飽きないのだろうか? 飽きる「べき」ではないか?


 飽きる「べき」だと感じる人には、ぜひとも外国語の勉強に向かっていただきたい。物語の享受において、内容で新しいものを発見するのはもうかなり難しいであろう。より複雑であったり難解であったりする物語やパターン外しの物語は最初のうちは新鮮かもしれない。しかしそのうち、もっと複雑で難解なものを求めることの虚しさに押しつぶされるに決まっており、パターン外しもまたパターンに過ぎないことに気づくのもまたパターンに過ぎないことに思い悩むに違いないのだ。しかし他方で、確かに(広い意味での)物語の享受以外の娯楽など、あるだろうか? 気楽なものとしてはなかなか見つからないだろう。だから、物語享受の根本の「仕方」を変えてしまえばいいのだ。つまり、「外国語で物語を享受」すればいいのである。「内容」にもはや真新しさを感じられなくなった人間は、「ガワ」を変えてしのいでいかなければならない。ここでいう「ガワ」とはもちろん、物語を享受するときに使用する「言語」のことだ。

 

 実際、外国語で本を読んだことがある人間なら知っている通り、それを完遂したときの達成感はかなりものである。そして、ここが重要なのだが、その達成感は「ガワ」の問題であるにも関わらず、「内容」の評価にも影響する、つまり、物語それ自体がより面白く感じられる、「新鮮に感じられる」のだ。うまく扱えない外国語に我々が触れる時、我々は「子ども同然」であるが、ということはつまり、我々が例えばその外国語で本を読む時、我々は擬似的に子供時代に戻っているのである、「まだ全てが新鮮」なのである。もはや我々は「言語未成熟状態」ないしそれゆえの世界体験を得ることは叶わないわけだが、しかし外国語は少なくともその「シミュレーション」にはなるのである。ちなみに、「言語未成熟状態」は生き生きとした言語的体験を重視するときの物言いだが、ただ単に「生き生きとした体験」ならば、それは「言語以前」とでも言われるべきものだ。その両者は、大人になってからも得られるものだし、それぐらいしか得る「べき」ものなどないとも思うわけだが、成長してしまった我々はそれらを「意識的に」得なければならない、がゆえに「シミュレーション」に過ぎないのかもしれないし、いや本物を体験しているのかもしれない。