しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『パラサイト 半地下の家族』

ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』を見てきた。ほんのちょっと感想。


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コメディとしては結構笑ったし話の意外性などを考えれば、確かにかなりの良作であったのは間違いない。しかし、これは完全に趣味の領域だが、私としてはどうせやるんなら『キングスマン』一作目ぐらいまで突き抜けて欲しかった(というか、途中そうなると思ったのだが、ならなかった)。まあ、それが粋っていうことなのかもしれないが、『キングスマン』のやぶれかぶれの方が私は好きだなあ。

『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』

スター・ウォーズ』のエピソード9を見てきたので、ちょっとだけ感想。
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はっきり言ってつまらなかった。3部作の最後として言えば言わずもがな出来が悪いが(ほかとの一貫性に欠けるが)、それを置いといても、つまりこの映画単体で見てもつまらない。話は単純極まりなく、簡単に言えば突如現れた(復活した)悪の親玉の場所にどうにかたどり行くために地図みたいなものを探すというもので、道中で起こる展開は結局は全てどうでもよく、そのどうでもいい話の間に唐突に種明かし的展開が入ってきて観客を飽きさせまいとするが、その頃にはすでになんでもあり展開で飽きてしまっているから時すでに遅し、すべてがどうでもよくなっている。映像はきれいだったり迫力があったりするが、アクションが面白いわけでは決してない、特にライトセーバー戦の単調さは目に余った。

根本的な問題は、スター・ウォーズという世界観は見た目は広大だが、そこでやれることはバリエーションが実は少ない、ということだろう。だから、すでにあるものを膨らませることしかできず、膨らませすぎてなんでもありになってしまう。

もしもまだ本が偉いと言えるなら……

私は「本だからこそ(あるいは映画だからこそ、あるいはゲームだからこそ)できることがある」といったような言説にはあまり惹かれない、もっと言うと面白くないと感じる。いや、もちろんメディアごとに出来ることと出来ないことが(大きく)異なっていることは認めるし、それを研究することは創作物のクオリティを向上させる上で有意義なことなのだろう。だから私が面白くないと思う言説をもっと正確に言えば、「本だからこそ(あるいは映画だからこそ、ゲームだからこそ)こんなに素晴らしいことができ、だから他のメディアと比べて偉い」といったような感じになる。これは、大抵の場合、何かのメディアに肩入れしている人はそのメディアを特別視している、ということの現れに過ぎず、だからつまらない。

本であれ映画であれゲームであれ、あるメディアだからこそ出来る「表現」は無数にあるだろうが、(その表現によって)「表現されるもの」があるメディアだけに限定されるということはないように思われる。例えば、「文学的な感じ」(という「表現されるもの」)は小説という形によって表現されることがスタンダードだとは思うが、だからといって「文学的な感じ」が映画やゲームで表現出来ないということはないし、現に表現できている映画やゲームはある(出来ないという人は、「文学的な感じ」を「文学的な感じを小説という形によって表現するときに生じる感じ」と一緒にしている。もちろん、後者の感じは小説でしか味わえないが、前者は他のメディアでも味わえる)。なぜかと言えば、「表現されるもの」は我々人間の側が(概念などとして)持っているものであって、「表現」の側には属していないからである。だから、ある「表現(形式)」そのものを崇めるのでない限り、ある「表現されるもの」が崇高な理由がその「表現」だからこそだ、というのは間違いだ(もっともある「表現」こそが初めてある「表現されるもの」を表現した、いうことはありえるが、一度表現されれば、それは概念として我々に吸収され、我々はそれをどの「表現」を使ってでも表現できるようになる)。

と、ここまではある意味当たり前の話だが、しかしここからはあえて、「それでも本は(他のメディアと比べて)偉い」という話をしたい。もっとも、上の話とはかなり違う観点からだが。

ここ半年以上、私はビデオゲームの実況プレイ動画とビデオゲームをすることに嵌まり込んでいたのであるが、最近ようやく本に戻ってくることができた。そして本と映像とゲームのそれぞれの特質を体験の観点から考えてみたのだが、私の結論としては、本を読むとき私達が「受け取る」情報(文字情報)と私達がそこから「頭の中で構成しなければならない」情報(例えばある静止画像や動画、あるいは抽象的構造物など)が食い違っていて、ゆえに読み手である私達に負荷がかかりやすいが、映画やゲームの場合はそういうことは少ない(少なくとも映像については、そのまま映像として受け取ればいい)、というのが一番大きな違いであるようだ。そしてそのような負荷のために我々は本とは適切な距離が置きやすく、そのような負荷が少ない映像作品などには嵌まり込みやすい。私としては何かに「嵌まり込む」のは快楽でもあるがそれ以上に苦痛なので、嵌まり込まずとも楽しめる(余地のある)本の方が偉いという単純な話でした。

『ファイナルファンタジー10』

外国語の勉強のためにゲーム実況を見始めて、しまいには再び自分でもゲームをやるようになってしまった。『ファンタジーファンタジー10』を(英語で)やったので、ちょっとその感想。

 

ファイナルファンタジーX/X-2 HD Remaster - Switch

ファイナルファンタジーX/X-2 HD Remaster - Switch

 

 

最初は日本語でやっていたのだが、FF10はこれで何回目かのプレーで、そのためかかなり序盤で続ける気がなくなってしまい、しかしswitch版を5000円以上出して買ったものだから、どうにか新鮮な気分にしようと思って言語を英語に変更したら楽しくなってラストダンジョンまでは進めることができた(しかし再び、敵が強くなったりして面倒になって、残りはプレイ動画を見て済ませて、ソフトは売ってしまった)。

システム面について言うと、戦闘システムはかなり楽しいのだが、ランダムエンカウントはやはりめんどい。スフィア盤も面倒だった。装備品やら召喚獣やらの強化もほとんどやらなかった(やらなくてもクリアは出来るぐらいの難易度なのだろうが)。今回再プレイしてみて意外に思ったのが、システム面は全体的に玄人好みする感じで、キャラの育成を本気になって、時間をかけてしたい人にとってはかなり面白いのだろうが、カジュアルなプレーヤーには結構重いであろうことだった。

そしてもっと意外だったのが、今やるとストーリーが大して面白く感じないこと。いや、プロットはまだしもなのだが、演出がかなりダサかったり、そもそもカットシーンが多すぎるように感じた。そしてプロット(ストーリーの展開)もあまり良くできているとは言えないのでは?一番気になったのが、どいつもこいつも(大した理由なく)色々なことを秘密にしていること。究極召喚をするとユウナも同時に死ぬことや究極召喚にはさらにもう一人の犠牲が必要なことなど……もちろん、我々の現実世界では何となく言いにくいからずっと言えずに何十年も経った、なんてことさえざらにあるだろうが、フィクションの世界だとどうも大した理由なく秘密にしてるのは違和感がある。もっと言うと、秘密主義のキャラクターたちが普通に嫌いなってしまった。もちろん、何となくの恐れから何かをためらうというこういう態度を乗り越えるというテーマもあるにはあったのだが。

それにしても、FFのファンタジー設定の荒唐無稽ぶりは(皮肉ではなく)素晴らしい。ファンタジーの設定というのは、ともすると何かのメタファーとして読みとられたりと、真面目になってしまいがちだか、FFではちゃんと「妄想」レベルに留まっている感じがする。それもかなりこねくり回された妄想で、話の筋は「夢の住人が夢の外に出て、その夢を見ている何者かを倒して自身も消えてしまう」(あるいはジェクトの場合は「夢の住人が夢の外に出て、その夢を守っている強大な魔物になってしまう」という永久機関ぶり!)というややこしいものでありながら、しかし何か高尚な、例えばメタフィクション論のようなものを跳ね飛ばすバカバカしさがある。こういうバカバカしさをすごい規模で実現しているのがFFのいいところだ(再び言うと、皮肉ではない)。

『アイリッシュマン』

アイリッシュマン』をみたのでちょっと感想。
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最近は映画はあまりみていないが、スコセッシの新作なのでこれは見なければと思って、しかしネットフリックスには入ってないので、劇場で見たのだった。4時間近い映画を休憩なしにぶっ続きでみるのは流石にしんどかった。

内容は、基本スコセッシのマフィアもの(『グッドフェローズ』『カジノ』など)と大差ないと思ったが(とはいえ、過去作はどれも最近見返していないので絶対とは言えないが)、今作の特徴を挙げるとしたら、登場人物の平均年齢が高いことと、「すべてが終わったあと」の主人公らの行く末もかなり長い尺をとって描かれていることだろう。そのため全体的な印象としては、情報量の多さはいつもと同様ながら落ち着いた(大人しい)テイストに仕上がっていたように思う。

スコセッシのマフィアものだからおもしくないわけがないが、しかし「すべてが終わったあと」をあんなに長く描写するなら、そしてスコセッシは『沈黙』のような相当よくできた宗教ものを撮ったあとなんだから、もう少し深みのあるエンディングでもよかったのではないか、とも思ってしまった。あれでは、(いつもの彼のマフィアものと同じように?)「あぁ、すべて虚しいなあ」という感じしか残らない。とはいえ、これまでろくに人生について考えてこず、火葬ではすべて終わった気がし、土葬ではまだ残ってる感じがするぐらいのことしか言えない主人公なのだから、あまり深みを期待してもしょうがないのだが。

ちなみに映画館で見る必要はないと思う。面白いが長すぎるし、大画面だからこそ強烈なインパクトを残すようなシーンがあるわけでもないから。

『エターナル・アルカディア』

『エターナル・アルカディア(Skies of Arcadia)』の実況(英語)を見た。


[Vinesauce] Vinny - Skies of Arcadia Legends - YouTube

英語(外国語)の勉強として(RPGの)ゲーム実況を見る際に、そのゲームが自分が知らないものだと結構きつい。ストーリーがわからないから台詞の意味の推測が難しかったり、ノスタルジーを刺激されないから見続けるのが難しくなったりするからである。

『エターナル・アルカディア』は私にとってそんな未プレイのゲームなのだが、私の好きな配信者VinesauceのVinnyのお気に入りのRPGということなので彼の実況プレイを見てみると、これが思いの外楽しめ、(めちゃくちゃ長いのに)最後まで見てしまった。

未プレイのゲームなのにどうして楽しめたのかと言えば、英語がわかりやすくストーリーをちゃんと追えたからである(そしてプロットは少なくとも悪くなかったからである)。わかりやすいとは、つまりキャラクターの台詞等がありきたりで予測可能なので英語でも瞬時に理解できた、ということだから、日本語でプレイしたり見たりしていたらすごく陳腐に感じた可能性はある。しかしともあれ、外国語を学ぶときには、意味が容易に予測可能な文を大量に「浴びる」ことが重要であるのは間違いないよう思われる。

(私もその一人だが)コミュニケーション欲求からではなく知的好奇心から外国語を学ぶ者は、一通り文法を終えた後すぐに本格的な文芸作品やら専門書やらに手を出してしまいがちだと思うが、これはやはりあまり(効率が)良くない。永井均の『翔太と猫のインサイトの夏休み』の第三章に言葉を学ぶことについて少し書いてあるのだが、短く引用すると「相手がこちらの予想がつくようなことをしてくれなけりゃ、言葉は永遠に学べない」のである。例えば、糞尿を見て嫌な顔をしながら「きれいだ」と言う外国語話者、あるはバラの花の色を「緑」と言う外国語話者がいたとして、私たちはその彼から彼の使う言葉を学ぶことはできないだろう。もっとひどい例でいうなら、転んで痛がった顔をして「地球は太陽の周りを回っている」などと言う人から、その人からその人の使う言葉を学ぶことはできない。再び『翔太〜』から引用すると「まともでありふれたやつら」からしか我々は言葉を学べないのだ。

もちろんこれは原理論で、我々がその外国語についての多少の知識や文法書・辞書等を持っている現実的な場面ではその限りではないだろう。(とはいえ、その文法書やら辞書やらは「まとも」でなければならないが)。ある人が言った予測不能なことを書き留めて、その意味を辞書等を使って確定することはできれば、それもそれで学習になるだろうから。とはいえ、原理論に逆らわないほうが(効率のためには少なくとも)賢明であるのは言うまでもない。

前置きが長くなってしまったが、つまり何が言いたかったかと言うと、外国語学習のために文芸作品や(新たな知見を得られるであろう)専門書などを使うのは効率が悪いということだった。なぜかといえば、文芸作品でいえば、その世界では予測可能な文章やストーリーはクリシェとして蔑まされているので予測可能な文章に行き当たることが難しいからであり、専門書は新しい知識を私達に授けてくれるだろうが、それは「新しい」のであるからもちろん予測可能とは言い難いからである。

だから、外国語学習目的だったら、もっとクリシェを浴びるべきだ。『エターナル・アルカディア』はそのためにかなりいい教材である(皮肉ではなく)。

 

加えて、外国語学習のためにいいゲーム実況者というのもまた、文脈的に予測可能な・ありきたりなことしか言わない人である、とだけ付け加えておくが、Vinnyはそうでもない(チャットと色んな話題について話しているので)。

『ファイナルファンタジー7』

相変わらずVinesauceのゲーム実況動画(主にRPG)を見まくって英語の勉強(?)をしている。本も読みたいしそろそろやめようと思うのだが、中毒になってしまってなかなか他のことができない。というわけで、どうせだからVinesauceを通して再体験した懐かしいゲームについて感想を書いておきたい。今回は『ファイナルファンタジー7』。


[Vinesauce] Vinny - Final Fantasy VII - YouTube

作品内容以前にまず先に言っておきたいのは、ファイナルファンタジーシリーズの英語テキストを実況プレイで理解するのは他のゲームと比べると容易だということがわかった。少なくとも『7』『8』『9』はそうだ。基本的にはテキストは単純な会話であるし、そのテキストもキャラクターのモーション(演技)に合わせて少しずつ表示されることが多いので、読むスピードはさほど要求されないからだ。逆に、昔のドット絵のゲームなんかは、演出みたいなことは考えていないから重要な情報がたくさん入ったテキストを一度にドバっと表示したりするので、集中を強いられることがあり、少なくとも最初はおすすめできない。

という一般論はさておいて、さてFF7だが、改めてストーリーを追ってみると(意外なことに?)相当粗が目立つ。私が一番気になったのは、登場人物のどいつもこいつも何かあることについて誤解していて、その特に必然性のない誤解がストーリーを進ませていることである。例えば、セフィロスは自分をジェノバから作られた人造モンスターであると知ってアイデンティティ・クライシスに陥って悪魔となるが、神羅ジェノバを古代種だと誤解しておらず、従ってセフィロスもそう誤解していなければ、セフィロスは自分の非道な行為に正当性をあたえることはできず、全ての発端となるあの出来事は起こさなかっただろう。また、セフィロスや北条はクラウドがあたかも完全な作り物であるかのような発言を繰り返していたと思うが、それもまた後のクラウド復活展開のために必要な彼らの誤解(ミスリード)に過ぎなかった(もっともこれについては、クラウドを完全に狂わせるための方便だった、というような反論も考えられるが)。

と、あまり良くない点を書いたが、アイディアの奇異さ(バカバカしさ)にも関わらずこのスケールでゲームを成立させてしまったこと、その一点においてだけでもなんだか満足してしまう作品というのが、私のファイナルファンタジー観である。