しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『ファースト・マン』

デイミアン・チャゼル監督の『ファースト・マン』を堪能した。
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世界の外を目指す男の話なのに、その彼こそがもう決定的に世界の外などないと観念していて、にもかかわらず月に行くのだがやはりそこもまた世界のうちに過ぎなかったと確認する、そんな物語だと私は解釈した。

詳しくは宮台真司の最高傑作『サイファ 覚醒せよ!』を読めばいいと思うのだが、世界に外側はない。ありとしあるものすべてという風に定義される世界に外側はない。というのも、世界の外側が「ある」としたら、それもまた世界の内側になってしまうからである(こういう類のわけわからなさに驚け、というのが『サイファ』のキモである)。

さて、当たり前の話だが、月は地球の外ではあっても、世界のうちに過ぎないのだった。ニールは最初からそのことを知っていたように思う。しかし、それでも月を世界の外と見立てて、いまや(世界に)亡き娘との本当のお別れの場にしなければならなかったのだろうと思う。

ラ・ラ・ランド』もとてもよかったが、デイミアン・チャゼル監督、今作での円熟味は、ちょっとすごいと思う。

 

サイファ覚醒せよ!―世界の新解読バイブル (ちくま文庫)

サイファ覚醒せよ!―世界の新解読バイブル (ちくま文庫)

 

 

ドイツ語学習者+哲学好きには朗報だ。


Hitoshi Nagai: Penetre und ich (1), 11. Januar 2019 - YouTube

ネルケ無方師が永井均氏の『子どものための哲学対話』をドイツ語に訳して安泰寺のホームページに載せ、また、1〜3対話訳すごとにYoutubeにそれについてのコメントをあげている。私なんかはドイツ語は読むのはまだしも、聞くのは全然だめだが、ネルケ師はゆっくりと話すので、このスクリプトと動画はかなりいい「教材」である。ドイツ語をやる人の中には哲学好きも多そうだから、そういう人はチェックするといいと思う。

にしても、永井均の本はもっと翻訳されるべきだろうに!

『生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪』誤訳報告

 

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

 

 

『生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪』の誤訳を報告する。というのも、訳者の方が後書きで、誤訳を見つけたらメールで報告してください、と書いていたので私は報告したのだが、もう出版から1年以上経ってるからそのメアドをチェックしていないのだろうか、ともあれ何の音沙汰もない。というわけで、もったいないからここにメール書いたものをほとんどそのまま転記する。なお、私が英語で読んだのは2章と3章だけで、3章については部分的にしか英語で読んでいない。また、途中から面倒になってかなり雑な指摘の仕方になっている。

p.36,1-4,「 酷い障碍のある人のケースで彼が考えているのは、 決して存在しないことの方が良いという判断は充分に道理にかなっ ているわけではないということだ。 その判断は道理に押し付けられている(道理に必要とされている) に違いない」の「〜は充分に道理にかなっているわけではない」 と「道理に押し付けられているに違いない」 というのは誤訳だと思います。前者はit is insufficient that the judgement of the preferability of never existing be consistent with reason.なので、that以下だけでは充分ではない( insufficient)という意味になるはずで、つまり、「 〜は道理にかなっているだけでは充分ではない」となるはずです。 充分でないのですから、(後者の話に移りますが)「 道理に押し付けられ(あるいは必要とされ)なければならない」 のです。原文はit must be dictated (or required) by reasonで、 mustの意味の取り違えが起きていると思われます。


p.41,21-23,「 私たちには子作りをする義務があるという見解を他の方法で説明す ることによる反論も退けられるかもしれないーーそうした説明はひ とつも、(3)(4) の間にある非対称性に関する私の主張に訴えてこないのだ」 は誤訳だと思います。原文はit might be  objected that there is an alternnative explanation for the view about our procreational duties--one that does not appeal to my claim about the asymmetry.ですが、ダッシュの直後の「one」は「 an alternative explanation」と同格であることと、 objectには「〜を反論として挙げる」 という意味があることを考慮すれば、訳は「 私たちの子作りにおける義務についてのこの見方に対しては他の説明 が――非対称性に関する私の考えを必要としない説明が――ある、 という反論が出てくるかもしれない」 というような感じになります。

 


p.42,16-18,「けれども、 存在するかもしれないがまだ存在していない人々の利害が、 場合によっては無効化できる、 その人々を存在させる義務を根拠付けることなどできるはずがない 」→「けれども、存在するかもしれないがまだ存在していない( possible)人々の利害は、 場合によっては取り消しにできるような義務さえも根拠付けられな い」


p.50,19の「ある可能性」はダッシュ前の「 シナリオBにおける〜扱われている点」と同格であって、 そのようなものとしてここらへんの文は変える必要があるのではな いでしょうか?


p.52,24-28,「というのも〜常に考えられるだろう」→ 「というのも、 なぜ存在する人々のみを含むたとえ話においては不在の内在的善は 常に悪とされ得るのか、 ということについてはもっと深い説明があるからだ。 それらの人々が存在しているという条件なら、 どんな内在的善の不在だろうがそれは、 いつだって彼らにとっての剥奪だとされうるのである、 というのがその説明である。」(最後の「 というのがその説明である」という箇所は蛇足かもしれません)


p.54-55を跨ぐ箇所「 シナリオAは勿論シナリオBを考える場合も」→「 シナリオAだけでなくシナリオBも考慮する人は」(主眼は、「 両方を」考えることにあると思います)


p.59,下から4行目「ある人が大きな害悪を望んでいる証拠」 →「ある人が反対のことを望んでいる証拠」(こちらの方が、 誤解を招かないと思います)


p.68,下から2行目の太字「現に」→「今現在( currently)」


p.95,16-17「勿論私は〜実際には反対だ」→「 勿論私は、 12歳がやった課題はその年齢に適した基準で評価するべきだとい うことを否定しない」


p.96,1-2「想像可能な範囲で幸福な人生」→「 想像できる限り幸福な人生」(つまり、とても幸せな人生)


p.96,11-12「 自分には最高に優れた特性が何もないと自認している人物」→「 自分が最高に優れた特性を持っていることに気づかない人物」


p,102、下から10,9行目「子どもに命を宿す」→「 子どもを誕生させる」

おしい!!どうして!!『サスペリア』

リメイク版『サスペリア』を見た。元のは見ていない。
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欠点は大きすぎるほど大きく、「おしい」作品であるが、にもかかわらず良いところが良すぎるので傑作であると言わざるを得ない、その意味でもこちらの心を「引き裂く」ような作品であった。

よい点は説明できない、というかしても意味がないが、もっぱらホラー・ゴア・カオス描写が凄まじかった、とだけ言っておこう。つまり、ホラー映画を見たくてサスペリアを見に行った者にとってはかなり満足できるのではないかと思う。怖いかどうかはわからないが、少なくとも私は、久しぶりに映画を見て目眩を感じた。ここだけ取れば、この作品は大傑作と言ってもいいのだが、しかし「ホラー映画を見たくてサスペリアを見に行った者」はまた、この作品のもう一つの側面(それもかなり大きい側面)に躓くだろう。ナチだのドイツ赤軍だのベルリンの壁だの……余計な政治的な事柄を絡め、物語に政治的含意を持たせようとする「魂胆」がそれである。たぶん、政治的なことこそが映画のメッセージとして高級なのだという考えに囚われた人(実はこういう人は権威に反抗しているようにみえて、自身こそが権威的である)が作ったのだろうが、そこからして完全な間違い、ただの迷信だ。

いや、そこまで言わなくとも、その「魂胆」が成功していればまだよかったのだが、完全に失敗している。ホラー部分と政治的部分の接合が無理矢理であり、端的に言って政治的部分は全てなくしたほうが良かっただろう(そうすれば2時間ぐらいの超傑作になったはずだ。そういうバージョンを出してほしい!)。いや、これは一種のアート映画なのだからその無理矢理さ加減から来る難解さを解くことも含めて楽しいのだ、と言われるかもしれないが、そのようにアート映画をゲーム感覚で扱う水準からものを言ってしまっている時点で、アート映画というものが必要ないと言ってしまっているようなものだろう(だから、「謎解き」アート映画などいらないのだ。アートであることが「よくできていなさ」の免罪符になってしまうからだ。ただし、アート映画そのものがダメだと、私は主張したいわけではないが)。

ともあれ、必見であることは間違いないが、でかすぎる欠点があることもまた疑いようがない。

瞑想本紹介

マインドフルネス瞑想についての中々おすすめの「参考書」、それがこれ↓

〈目覚め〉への3つのステップ: マインドフルネスを生活に生かす実践

〈目覚め〉への3つのステップ: マインドフルネスを生活に生かす実践

 

この同じ著者(ラリー・ローゼンバーグ)の前作、『呼吸による癒やし』にも実はほとんど特定の瞑想メソッドへの強制がなかったが、本書はそちらの方向を更に強化した一冊である。「そちらの方向」とは、呼吸を見る、そして使うというのを別にすれば、メソッドは自分に合うものなら何でもよく、とにかく空(くう)だとか無我状態に至ることが奨励される、という方向のことである。ほとんどメソッド抜きだから初心者向きの本ではないとの向きもあるようだが、私はそうは思わなかった。前作『呼吸〜』ではまだはっきりしていなかった「細かいことなどどうでもいい」という点がクリアに提示されていて、むしろ瞑想するときに要らぬ心配、例えばこれは「正しい方法なのだろうか」などと思わなくて済む。そういう方法も自らが探求していけばいいのだ。大事なのは「呼吸を見る、使う、そして最後にはそれすら手放す」という点に尽きている。

ところで、以上の説明が正しいのだとすれば、本書は結果のためなら手法は何でもよいという点で「結果主義」と言えそうだ。しかし普通の結果主義と違うのはその目指される結果の内容が「結果などを求めず、ただその時を味わう」ことだという点である。つまり本書は、結果などを求めない状態(結果)を得るためには手段を選ばない結果主義的本、ということになる。しかし、この本は本当に結果主義なのだろうか。二つの考え方が考えられる。

(1)いくら求めていることが「求めない」ことであっても、全体の構造としては依然として「求めている」のだから、結果主義である、という主張。

(2)確かに「求めている」が、それが手に入ったとしたら求めていることが消えているということだから、結果的には「求めていない」ので、結果主義ではない、という主張。

この捻れは、本書においては(本書で使われている通りの言葉ではないが)「本当の自己を見つける」ことと「無我に至る」ことの両方が称賛されているところに現れているのだろうと思う。当然、「本当の自己を見つける」ことは求めることなのだからその称賛の背景には(1)のような考え方があり、「無我に至る(我を消す)」ことは今は実現できていようはずもないのだから(出来ていたらどうして思考している?)その称賛の背景には(2)のような結果先取りの考え方がある。前者は経験があるときはそれを経験する主体は絶対にあるという考え方であり、後者は、にしても、どういうわけか結果的には主体は消せるという考え方である。主体が消えたとしても消えたことを経験しているのなら、そこにはなおそれを経験している主体があるということだから、(1)の方が分がいいように思われるが、真相は(a)「消えずに残り、経験する(だけの)主体」と(b)「消すことができる主体」とでは指しているものが違う、ということだろう。ここでの議論では(b)は(2)から派生した主体概念なわけだが、そもそも(2)は結果先取り的な、言い換えれば(まだ、実現していない)空想的なお話であった。であるならば、(b)を消すことができるのは、ある意味当然かもしれない。しかしもちろん、実際は最初に(b)があり、それが(2)のような考えを生み、それがさらに(b)を強化し……という円環があるのかもしれない。

ところで、瞑想の果てに(a)さえなくなってもいいのでは、との声もあるかもしれないが、それはつまり経験の主体が何もないということだから、(夢のないときの)眠りのようなものだろう。それは考えても想像できるものではないが、ともあれ寝ているときにいつも起こっていることなのだから、他の手段で殊更求めることでもないだろう、というのが一応の回答になりそうである。

色々書いてしまったが、結局『仏教3.0を哲学する』(の永井均の発言箇所)を読むのが、この辺りのことをすっきりさせる上では一番なのだが……

 

〈仏教3.0〉を哲学する

〈仏教3.0〉を哲学する

 

 

呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想

呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想

 

 

『ミスター・ガラス』は一線を超えて……

シャマランは結構好きだが、『ミスター・ガラス』は微妙だった。
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今作を見るにあたって『アンブレイカブル』と『スプリット』を見たのだが、初見だった『スプリット』にはやられた。(世評に反して?)『ヴィジット』がつまらなかったこともあり『スプリット』は見ていなかったのだが、なかなかどうして、(傑作とは言わないが)良作であった。もっと言うと、要は泣いてしまったのである。徹底的に傷つき、自分の存在意義がわからなくなってしまった男が、必要にかられて自分の存在意義を「捏造」し、その「嘘」を無理矢理「実現」してしまう哀しさ、そうまでしないと生きられない哀しさに胸を打たれた。彼が、同じく傷を負った少女を「傷を負っているからこそよい」とするのは、端的に間違いであろうが、しかしそんな風に歪まなければ彼は生きられなかったのである。こう書いてみると傑作とさえ言えるような気がしてくる。本当に超人的になってしまったことに賛否はあるだろう。というのも、「捏造」が「捏造」にすぎないままだからこそ、彼の間違いは際立ち、それ故に「哀しい」のだから。とはいえ、そこはエンタメ的サービスだと思えば(少なくとも『スプリット』に関しては)よいと思う。のだが、この辺の甘さが前面に出たのが『ミスター・ガラス』であるのは間違いない。

『ミスター・ガラス』の問題点は、1)ミスター・ガラスの「哀しさ」が描かれていないことと、2)「捏造」が完全に正当化されてしまうことにある。一つずつ見ていく。

1)については、前作で充分、歪まなくては生きられなかった人間(ミスター・ガラス)の「哀しさ」が描かれているという反論があるかもしれないが、それにしてももう少し彼の切実さを本作で描いてもらわなければ、最後のあれカタルシスにならない。また、彼はめちゃくちゃ頭がいいという「スーパーパワー」を持っていることになっていたが、『アンブレイカブル』でもそう説明されていただろうか? これは後付ではないだろうか? そうでないにしても、そもそもこれは必要だったのだろうか? 明らかに必要がない。というのも、彼はおよそスーパーパワーとは真逆の人間であり、それゆえにスーパーヒーローの存在を夢想し(て、本当に見つけ)て、自分の存在の「位置」を決めることができたというのが「哀しさ」のポイントだったからである。

しかし、さて、ミスター・ガラス周りのこれらの問題点が片付けられたとしても、最後のあれに感動できたかどうかは微妙である。それこそが2)が示している問題点だ。

アンブレイカブル』と『スプリット』においては(特に後者はそうだ)、スーパーパワーは「捏造」か、それとも「実在」かという点に関してギリギリのバランスが保たれていた(そもそも、彼らの能力はショボい)。つまり、スーパーパワーが傷ゆえの「捏造」であると我々観客は半分は思っているからこそ、その「哀しさ」に胸を打たれ、その「実現」にカタルシスを感じたのだった(ちなみに『アンブレイカブル』に関しては、ガラスの方はこの話に当てはまるが、不死身男の方はもともとはこの話に当てはまっていなかったはずだ。しかし、『ミスター・ガラス』において、不死身男も過去のプールでのイジメにより「捏造」し始めたのでは、という設定が追加されている)。さて、今作『ミスター・ガラス』はこの「捏造」がラストに「真実」として人々に受け入れられるという展開になっているのだが、これは私としては、(悪い意味で)一線を超えてしまったように思われた。

(ある種の)人間は捏造された物語にしがみつくことでしか生きられないという事実には、私は深く心動かされる。しかし、その捏造された物語は真実なのだと吹き込まれるなら、私は全力で抵抗しなければならない。なぜなら、そうではないからである、それだけだ。スーパーパワーがあると言い張っている姿には、祈る姿に似て、時に何か心動かされるものがある。しかしその時、本当にスーパーパワーがあると私は説得されているわけではない(たとえ劇中でパワーを見せられても)。『ミスター・ガラス』はこの二つ、つまり「心動かされる」と「説得される」をごっちゃにしてしまって、(あえて言おう)失敗した。

ちなみに、いずれにしても、客観的にわかる仕方で自分が特別であると実感すれば救われると考えるのはよくないと思う。そんなもの(客観的にわかるなにか)がなくても、どうしたって、何をしても、何もしなくとも、そもそも自分は特別であると実感するしか楽になる道はないのではないか。どうしたって、何をしても、何もしなくとも、そもそも特別であることと、客観的にわかる仕方で特別であることの混合・混乱が、スーパーヒーロー妄想のようなものを生むのだろう(それは哀しい)。

 

スプリット (字幕版)

スプリット (字幕版)

 
アンブレイカブル(字幕版)

アンブレイカブル(字幕版)

 

 

『クリード 炎の宿敵』

クリード 炎の宿敵』(『クリード2』)を見た。泣き濡れてしまった。
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しかしまぁ、欠点から言うと、前作から感じていたことだが、ロッキー(シリーズ)にはあったストーリー・テリングのタイトさとシンプルさは失われ、冗長に感じた部分もあるにはあった。しかし、その印象もまたときに来るエモーションの爆発で掻き消されるのだが。ともあれ、いわゆる「完璧な」作品ではないことはまず言っておかなければならない。

にもかかわらず、である。にもかかわず、本作がサイコーの一本であることに疑う余地はない。ロッキー4と関連付けてもなお真面目な雰囲気の映画を成立させ得たことが、まずは驚きであった。途中のトレーニングシーンは前作より盛り上がったように感じたし、最後の試合の勝敗における「ひねり」が物語的にとても大きな効果を持っていて、意外なだけでなく感動的だったのには唸らされた。「たとえ負けても、そのことが目に入らないぐらい大事なことがあるだろ!」といういつものテーマが、予想外(少なくとも私にとってはそうであった)の形でスクリーンに映し出されたのである。

確かにロッキー4の直系だと思える場面もなきにしはあらずで、トレーニング・シーンの(いい意味での)馬鹿さ加減はとてもいい。

その一方で、奥さんの難聴が子どもにも遺伝してしまうという人生の厳しさ・苦さも描かれていて、ロッキーシリーズらしい。(ただし、私はほとんど反出生主義者なので、これは映画なのだということを度外視にして「子どもに障害が遺伝するかもしれないのに子どもを作り産んだ」ことを考えると複雑な気分だが、今はそのことを書いて感動に水をさしたくない。ちなみに、それに少し関連していることを前にロッキーと絡めて書いたことがある→『ロッキー ザ・ファイナル』に違和感(など覚えたくないが……) - しゅばいん・げはぷと

キャラクターの魅力は言うに及ばず。ロッキーとクリードの仲直り場面の爽やかさと自然さは、あぁ、お前らホントいいやつだな! と思わざるを得なかった。この映画のベストシーンかもしれない。

とにかく、ロッキーは最高ということに尽きる。個人的には、ロッキー4よりもロッキー・ザ・ファイナルを予習しておくことを勧める。