しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『ロッキー ザ・ファイナル』に違和感(など覚えたくないが……)

クリードの新作に備えて、最近『ロッキー』シリーズを見返した。と言っても、3,4,5,ファイナル、だけで、1,2は(特に1は昔見過ぎたので)見なかった。3,4は昔よりも面白く感じ、5,ファイナルは昔ほど楽しめなかった(もちろん楽しんだが)。

前に『THIS IS US』や『スカイスクレイパー』の感想のときに書いたが、「生きること」やら「愛」やら「家族」やらの価値が疑われず、問うことさえせず、考えなしに前提にされている(世の95%の)作品に付き合うことが、どうやらますます耐え難くなっているようである(そのせいか、ただのアクション娯楽の方が最近は好きになった)。『ロッキー ザ・ファイナル』を見て、(そんなことを思いたくはなかったのに)そのことを思い起こしてしまった。

具体的に言うと、ロッキーが息子に説教する場面である。昔はえらく感動したものだが、今は「この世界はバラ色じゃない」と息子に説教するロッキーに一抹の違和感を覚えずにはいられない。つまりは、じゃあロッキーよ、それならなぜあなたはそんな世界に息子を、新たな命を送り込むようなことをそもそもしたのか、という疑問が、私の中で湧いてきてしまうのだ。おそらくそれに対してのロッキーの答えは、「酸いも甘いも経験したが、ともあれ充実した人生はすばらしいのだから、息子がそれを味わうのはいいことだ」というようなものだろう。それはわかる、一理あるのは認めるがしかし、(善人たちに非人扱いされることを承知で言うなら)そもそもはロッキー、「息子の」ではなく「あなたの」人生を充実させるために子どもを作ったのではなかったか、人生が生きるに値すると「自分が」思いたいがために子どもを作ったのではなかったか、それは果たしていいことと言えるのであろうか、もしかしたら何も考えずに言わば動物的に子どもを作ったときよりもそれはよくないことなのではないか、と思ってしまう。

とはいえ、もちろん『ロッキー』も『クリード』も大好きだ。このシリーズには、上のような疑問を消化した上で作られていると感じる瞬間さえある(例えば『クリード』の「何を証明したいんだ」「俺は過ちなんかじゃない」など、涙なしでは見られなかった)。

上と全く関係のない余談:『クリード』は名作だったと思うが、あえて言うと「ポーリー的キャラ」がいなかったのが、若干の食い足りなさの原因だったと思うので、『クリード2』ではポーリーのように「本当に駄目なやつは駄目なんだ」と思わせてくれるキャラが登場することを願う。