しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『海を駆ける』

海を駆ける』を見た。素晴らしかったが、あまり言うことはない。
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インドネシアが舞台の話で、海から人間(日本人)の形をした神様(でいいんだと思う)がやってきて良いも悪いも様々な奇跡を起こし、そしてまた海に帰って行く、というもの。それに四人の若い男女の物語が絡む。彼らによる青春劇は微笑ましいが、この映画は特にプロットで魅せるようなものでもない。

が、最後はやられたなぁ。最後、この若い男女らは海へと帰っていく日本人の形をした神様を追いかけて文字通り「海を駆ける」のであるが、「若さ爆発」とはこのことだろう。観客は目が眩むほどの青春のきらめきを見せつけれる(本当に!)が、もちろんそれ(青春)は長くは続かず、間もなく彼らは海の中にドボン。直前に日本人の形をした神様がもしかしたらヤバい奴かもしれないという描写があるので、四人が沖から海岸へと泳いで戻ろうとしているエンドロールの映像が私には不気味に思えて仕方なかった(私の考え過ぎだろうが、私には彼らが海岸へと戻れるような気がしなかった)。黒沢清映画並みの不気味さだったが、あまり賛同は得られないかもしれない。

 

 

『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』

全く期待していなかった『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』を見たので少し感想。事前に予想していた通り、全く内容のない映画だった。
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今までにないことに挑戦して完全に失敗し退屈な作品になったエピソード8からは打って変わって、今作『ハン・ソロ』は全く新しみのない退屈な作品へと逆戻りした。オタクにはよくわかるのであろう旧作にあった小ネタの種明かし展開の数々、古臭い未来描写への懐古趣味、ど派手だがどうでもいいアクションシーンの数々を怒涛の(説明不足、というかそもそも語るべきものなどなかったことが明らかな)スピードで駆け抜けていく。『ローグ・ワン』とほぼ同じだが、スピード感があっただけマシか。
巷間では「スター・ウォーズ疲れ」などと言われているようだが、それも当然だろう。こういう厳密なルール設定のないSFというかファンタジー世界でのアクションは当然大味にならざるを得ず、そして数年前から始まったスター・ウォーズのこの新シリーズは(旧三部作のように)どうやら活劇映画にしようとしているみたいなのだから、観客は毎回毎回同じ世界観の同じように単純なストーリーを同じように荒唐無稽なアクションを通じて見ることになる。飽きないわけがない。プリクエルが政治劇化したのは、その意味で圧倒的に正しかった。
いや、そこまで言わなくとも、今作にもその片鱗はわずかに認められたが、何か他スターウォーズとのテイストの違いがあればまだマシだったのだが、それもどうやらフィル・ロード&クリス・ミラーを降板させたことで駄目になってしまったようだ。今作に見られる「圧倒的に半端な」コメディ要素は彼らの名残だろう。彼らが最後まで監督していたら、ドタバタアクションの最高峰が見られたことだろうが、そういう極端さが嫌われたのだろう、『ローグ・ワン』同様のゴミができてしまった。にも関わらず『エピソード8』方向の出来の悪さを許したディズニーおよびルーカスフィルムは、多分あまり頭が良くないのだろうと思う。

「ひとりごと」BUMP OF CHICKEN

最近またBUMP OF CHICKENを聴き直しているが、なかなかいい。今のところ一番新しいアルバムの『butterflies』もなかなかいいが、やっぱり思春期(だったっけかな?)の頃に聴いていたものは格別。特に『orbital period』の(藤原基央の)思考の煮詰まり感は半端ではなく、こんな曲を聴いていなければ私ももう少し軽やかに生きられたのではないかと疑うほど(こんなややこしいバンドが日本の超人気バンドだなんて!)。特に「ひとりごと」がやばい。

「ひとりごと」は(大げさに言うと)倫理というのは果たして成立しているのか、という疑問を投げかける。2番のAメロの歌詞前半部がこの曲のテーマをわかりやすく伝えている。

ねぇ/心の中にないよ/僕ためのものしかないよ/そうじゃないものを渡したいけど渡したい僕がいる

そう、どう考えたって、いやむしろ一度考えてしまったら「全て自分のすることは自分のためにしている」という理屈が絶対の真理のように思われてくる。この曲に沿って言えば「私があなたに優しくするのも結局は私の益になるからなのだ」ということを否定するのは難しい、ということだ。優しさによって直接的に「あなた」から自分の利益になるものを引き出すことももちろん「私のため」だが、それはまだ甘っちょろくわかりやすい話で、本当の問題はそれじゃない。「わたし」にはなんの利益にならず「あなた」にだけ利益になることを「わたし」がしても、結局「わたし」のためになってしまう、なぜならそうなることを「わたし」が望み実現したのだから。そしてそれは本当の優しさではない……それがこの曲で嘆かれている問題なのだった。

バンプの他の多くの曲同様、「ひとりごと」もまた提起された問題に対してある解答を与えている。ここではその解答とは「優しさは人の心の中にはないが、人と人との間にある」といったもの。つまり、動機はどこまでも利己的かもしれないが、事後的に「優しさ」と(相手から)みなされる行動を我々は取るのであり、そういう関係性ぐるみで眺めれば、人間という存在もそう悪くはない、といった感じである。エゴから脱するために、自分をもっと大きな関係性の中の一部とみなすという点で、仏教の縁起説なんかと近いのかもしれない。

昔この曲を聴いたときは「うまい展開だなぁ!」と感心したものだが承服しきれなかった。その時は「人と人との関係の中に優しさがあるって言ったって、結局わたしがわたしの内部でそう思っているに過ぎないじゃないか」という点で引っかかっていたのだが、今はむしろ「究極的には人間は利己的存在であったとして、そもそもそれが悪いとなぜ言えるのか? 〈本当の優しさ〉なるもの、ありもしないものを想定したことが、そしてそれにたどり着けないと嘆いていたことが、そもそも間違っていたのではないか。エゴイスティックで当たり前なのではないか」という思いが強い。そして実は、最近のバンプの曲、例えば「Hello, world!」のような「自分=世界」という曲を聴くにつけ、明らかに藤原基央の中にも「ひとりごと」で示された方向とは真逆のベクトルが潜んでいると私は踏んでいるのだが、それはまた別の話。

 

高橋ヨシキさんについて

今、シュティルナーの『唯一者とその所有』の原書読みをまた再開した。といって、ケストナーの“Der 35. Mai”が届くまでの短い期間だが(間違えて変な業者に頼んだせいでなかなか届かない)。ともあれ、『唯一者〜』は電子書籍で読んでいるのだが、そのkindleによるとまだ11%しか読めていない。内容はといえば、宗教をボロクソに言う人間もまた(宗教の代わりとして)結局は崇高なものを崇めているに過ぎないと断じているところ。例えば次のような調子で批判している、久しぶりにちょっと翻訳してみよう(原文も載せたいが、ドイツ語の入力の仕方がわからない!)。


国家の基礎としてのキリスト教、つまりはいわゆるキリスト教国家に反対する当の人々が、道徳は社会生活と国家の支柱である、と繰り返して飽くことを知らない。まるで、道徳の支配が神聖なるものによる完全なる支配・一つの「ヒエラルキー」ではないかのような言い草だ。


つまり、このような人々は宗教(あるいは神)の代わりに道徳を崇高なるものとして掲げているだけであって、「崇高なるものを掲げる」という抽象的な構造自体は宗教の信者たちとまるで変わらない、というある意味では当たり前のことを言っている。ここらへんのことを読んでいて思い出すのは、映画評論家の高橋ヨシキさんだ。


はじめに断っておくと、私はかなりの高橋ヨシキファンである。毎週NHKラジオの「高橋ヨシキのシネマストリップ」は欠かさず聞いているし、ご著書も(買ってはいないが立ち読みで)結構読んだ。彼の主張に共感することは多々ある。しかし、やはり自分とはまるで違うタイプの人間を眺める感じでファンなのである。さっき「抽象的な構造」という言葉を使ったが、言ってみれば私は高橋ヨシキさんとは違う抽象レベルを生きているのだと思う。


ヨシキさんは自身をサタニストだとして宗教を否定するわけだが、サタニズムの教義がどんなに宗教に対して否定的であろうが、あるいは「自分の頭を使って考えろ」的な教えであろうが、サタニズムを「掲げている」時点で宗教を「掲げている」人間と同じ穴のムジナである。現に、さっきの『唯一者〜』からの引用じゃないが、ヨシキさんはなんと道徳的なことだろう! ヨシキさんはあんなに頭が良さそうなのに、こういう視点のとり方が圧倒的に欠けているように見える。ヨシキさんは科学に絶大な価値を置いているが、それだって同じである。宗教の代わりに科学を掲げているに過ぎない、崇高なものの内容が変わっただけで、「崇高なもの」は残り続けている。本当に宗教を否定したいのなら、「自分の頭を使って考えろ」的な非宗教的な教えさえ、それが教えであるがゆえにやはり宗教的なのだとして退けなければならないはずだ、決して「掲げて」はならないはずだ。宗教の否定とはそこまで、つまり「信じること」一般の否定にまでいかなければ達成できないことであるはずだ、それぐらい途方もないことであるはずだ。おそらくヨシキさんにとってキリスト教の否定は個人史的・具体的に大きなことであったのだろうから、否定した先でもまだ自分がキリスト教的な構造のうちにあることに気づきにくいのだろう。しかし、熱狂的なアンチ・キリスト教徒がキリスト教徒の変形に過ぎないことは、もう一つの宗教に過ぎないことは、かなり当たり前のことのように思われるのだが。

 

高橋ヨシキのシネマストリップ

高橋ヨシキのシネマストリップ

 

 

 

新悪魔が憐れむ歌

新悪魔が憐れむ歌

 

 

 

Amy Cross "Stephen"

Amy Crossの"Stephen"を読んだ。英語である、ホラーである。前回の記事(ホラー作家Amy Crossを知る者(たち?) - であ・あいんつぃげ)が4月24日だから、ちょびちょび読んだ結果読み終わるのに少なくとも2ヶ月以上はかかったことになる(どう考えたってそんなに長い期間付き合う類の本じゃない)!

 

Stephen (English Edition)

Stephen (English Edition)

 

 

あらすじを簡単に:修道院を出たばかりの世間知らずの少女がとある屋敷の子守として職を得る。が、なんと世話すべき赤ん坊というのは死体以外のなにものでもなかった(その死体の赤ん坊がStephenである)。子どもの母親は赤ん坊の死のショックから立ち直れずに死んだ子どもを生きたものとして扱っていたのだ! 主人公の少女は世間知らずなので雇い主(子どもの母親の夫)になんだかんだ言いくるめられて、死んだ赤ん坊の「世話」をして同時に母親の正気を取り戻そうと奮闘するのだが……。

まず言っておかなければならないが、私はこんな話だとは知らずに読み始めたのだった。私が期待していたのもっと上品(?)なゴーストストーリーだったのであるが、あぁこれはもう幽霊は(少なくとも本格的には)出てこないな、と悟った頃にはもう半分以上読んでいた(この本、紙の本でいうと300ページもあるから、150ページも!)ので引き返せなくなったのである。

それにしても、悪趣味にも程がある話だった……。死んだ赤ん坊の世話とは、つまり死体をお風呂に入れたり、死体をベビーカーに入れて散歩したり、ものを食べさせるふりをしたり……そして後半になってくると赤ん坊の腐り具合がひどくなっていって……あぁ、悪趣味すぎる! こんなグロテスクなものを読むつもりじゃなかったんだ! 途中何度も読むのをやめようと思ったが、しかしこの著者、やっぱりホラー、サスペンス描写が破格にうまく、先が気になるように書くのもお手の物なので、嫌悪感を抱きながらもついつい読み進めてしまった。それでもやはり、私はグロテスクなものが駄目になったのは確かなようだ。途中、ご丁寧にも「次の章はグロすぎるので読み飛ばしても構わない」と読者は書き手である(という設定である)主人公に忠告されるのだが、本気で読み飛ばそうかと思った。まぁ、読んだが。そして、たしかに最悪だった。

不満点を上げるとしたら(上記はもちろん「不満」ではない)、まず第一に「言い訳描写」。この本は大部分主人公が後年になって書いた手記という形式をとっているのだが、その後年の主人公が過去の自分の行動の愚かさを説明するのに、私はその頃ナイーブ過ぎたのだ、と説明するのは萎える。普通に考えて主人公はさっさとあの屋敷から立ち去ればよかったのであるが、そうなるともちろん物語を展開できないので、あの頃は私はナイーブだったのだ、馬鹿だったのだ、だからあの状況に甘んじていたのだと書いて物語に正当性を持たせようとするのはいかにも拙いし、だから正当性も結局与えられていない。

第二の不満点は主人公の変態設定。この主人公、自分を鞭打ちして(つまり痛みから)快感を得るというちょっと変わった趣味を持っているのだが、これは完全に蛇足だと思った。痛みから快感を得ている時の描写がなんだかギャグのようだったし、しかも後半になってくるとこの変態設定が真面目な顔をして物語的に大きな意味を持ってきてしまうので、当惑(というかバカらしさ)を禁じ得なかった。

ともあれ、Amy Crossは本当に才能があると思う。しかし、日本人で私の他にこの本を読んだ人はいるかな? いたら教えてください。

つぎは上品なものがいいので、カート・ヴォネガットの『猫のゆりかご』を原書で読もうかな。

ドイツ語de.『点子ちゃんとアントン』!

ケストナーの『点子ちゃんとアントン』を原書で読んだ(原題“Pünktchen und Anton”)。もちろんドイツ語の勉強のためである。

 

点子ちゃんとアントン (岩波少年文庫)

点子ちゃんとアントン (岩波少年文庫)

 

 

読んでいて、だいぶ自分の中でドイツ語の基本単語が定着している感じがあって心地よかった。分離動詞(英語で言うと、動詞と副詞の組合せで独自の意味になるような単位だが)の意味の推測もどんどん精度が上がっていってると感じた。といって、大体10ページ弱ある各章を読むのに2時間かそれ以上かかってしまったのだが。全部で16章であり、時間のある日はだいたい一日一章読んでいたので、多分3週間ぐらいで読み終えたのだろう。主にドイツ語の勉強のために読んだから、わからない単語は全て調べ、どころか名詞の意味はわかっても性がわからない場合も調べ、極めつけは大体一段落読み終えたらまた全ての単語がわかっている状態でその段落を読み直した。

昔同じケストナーの『飛ぶ教室』を原書で挑戦したが、途中でやめた。ドイツ語力がおいつていなかったからつまらなく感じたのか、それとも単純に(読んだ限りの箇所は)つまらなかったからか、それはよくわからない。ただ『飛ぶ教室』のほうが若干難しいっぽいのは確かなように思われる。『点子〜』の方が面白く思ったが、ただ簡単だったのをそう錯覚しただけかもしれない。

内容的なことをいうと、『点子〜』は児童書だから他愛のない話だ。もちろん、点子という「天使のような変な子」の描写や犬を擬人化したユーモラスな描写などは読んでいて楽しい。だがもちろん私は大人だから、「ドイツ語で読む」という付加価値がなければ、到底本書を手にすることはなかっただろう。逆に言うと、外国語で読むという付加価値を与えればありきたりな(失礼!)話も楽しんで読めるのである。そして、今や多くの人にとって(児童書に限らず)あらゆる物語はありきたりになってしまった(見知ったパターンの一つ)であろうから、またその輝きを取り戻すためにも外国語で読むというのはなかなかいいことだと思う(退屈ならば外国語 - であ・あいんつぃげ)。

もちろん、自分の見知ったパターンに当てはまらない物語、というかもっと広く「言説」はまだまだ無数にあると思っている。特に哲学において。というのも例えば、哲学はそういうパターンの成立そのものを問題にしたりするからである(パターンの上にパターンを重ねるような類の芸は私は好きではない)。全てがわかりきっていると自惚れてはならない。むしろある意味で全くわかっていないはずであり、それは救いでさえある。

 

『ビューティフル・デイ』と(映画的)教養について

ビューティフル・デイ』を見たのでちょっと感想。


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いやぁ、久々に映像に見惚れてしまったなぁ。それと(いやそれ以上に)音楽のカッコよさと言ったら!


ところで、こういう「説明不足」の物語を楽しむ際には当然(最低限)映画の「文法」は一通り理解していなければならないが、どうやら多くの人はそのための「訓練」をしてきていないようで、本作を見ても意味がわからないらしい。そして、ちょっとネットの感想を覗いてみると、いつもの通り知性のない人間が知性がないことを誇って、わからなかった僕でいいんだ、洗練された映画の方こそが悪いんだという始末。もちろん、洗練されすぎた映画=ハイコンテキストな映画の是非を問うことは可能なのだが、私としてはやはり批判するにしても批判対象を楽しめる能力・知識を有しているのは大前提だと感じる。


しかし、一般に批判するなら批判対象を理解した上で批判するのがよいと感じるこの「趣味」に本当のところ正当性があるのかと聞かれたら、別にないと言わざるを言えないだろう(バカが考えなしに何か言ったことと頭のいい人間が考えに考えて言ったことと、結局中身は変わらないということは往々にしてある)。しかしここで「別に正当性はない」と言うとき、それは一度「正当性がある」という可能性を考慮したあとの否定であるから、やはり「批判対象を理解した上での批判」という構造を保っていることになる。つまり何が言いたいかというと、人は普通バカ(何も知らない状態)には戻れないということである(戻りたがっている人をよく見るので)。