しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

ファスビンダー作品を「楽しむ」

最近、たまたまファスビンダーの『ベルリン・アレクサンダー広場』をたまたま見返しており、これまたたまたま同監督の『13回の新月のある年に』『第三世代』がユーロスペースでやっているというので見に行った。
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といって、私は特にファスビンダーのファンというわけではない。そもそもは、ドイツ語の勉強をしているのでドイツ語に少しでも慣れたいと思って映画を探していて、(映画ではなくテレビドラマだが)『ベルリン・アレクサンダー広場』に出会ったのだった。計二回見ているが、そんなに面白くない(でも、なんとなく気になるから二回も見てしまったのだろう)。どころか、(色々な面で)難易度が高すぎるので、ドイツ語の勉強にもほとんどならない。

ファスビンダー作品で最も特徴的だと私が思うことを一言で言うと、「重層(奏)性」ということになるだろう。つまり、一見無関係に思える台詞やらモノローグやら音楽やらが画面に被さっていたりする「音−画面」の重層性と、そして、私にとってはこちらのほうがより印象的なのだが、台詞とモノローグが被っていたり、音楽と音楽が被さっていたりする「音−音」の重奏性が、私が見た限りのファスビンダー作品の特徴であると感じる。

「重層(奏)性」と感じるからには、何か異質のものが重なっているのでなければならない(でなければ、それは「調和」してしまうだろう)。では、異質なものが重なるとどうなるか。大抵は(「調和」ならぬ)「不協和音」が生じることになる。それをより強く感じるのは(「不協和音」という呼び名からして明らかと言えば明らかだが)「音−音」の「重奏性」の方である。ファスビンダーによる重奏は不協和音的で、はっきり言って多くの場合、不快だ。そして人間の情報処理には限界があるから(ましてや外国語の映画だからなおさら)、多くの場合意味不明でもある。

さて、『第3世代』『13回の新月のある年に』はかなり意味不明な作品、いわゆる「難解な作品」であったと思うが、こういった作品を楽しむとき、「読み解く」ことが唯一の方法だと言えるのであろうか。

そんなことはない、どころか、所詮は作り物である作品の中に設けられた謎を解くという不毛さ、虚しさを鑑みれば、(精神分析などの理論を使って)「作品を読み解く」などということは屁みたいものだ。それじゃあ、この種の難解な作品群は意味がわからないとして切り捨てられるだけかと言えば、そうではない。不協和音をそのまま不協和音として、意味不明をそのまま意味不明として味わうという道が残されているからである。もっと言うと、ファスビンダーのような作家の場合、観客にはそのことが望まれてさえいるのではないか。

しかし、それじゃあやはり「意味がない」ではないかと思う人がいるかもしれない。確かにそうだがしかし、「意味がない」ということで言えば、調和の取れた「意味がある」作品(いわゆる「娯楽」)を楽しんでいるときも、楽しめていること自体には「意味がない」。娯楽作品からは「意味がある」と感じるにしても、なぜ「意味がある」から楽しいのかということには「意味がない」(「理由がない」)。であるのだから、「意味がない」から楽しい、という回路が作られてもいいはずである。見るものを拒絶することがほとんど目的であるようなファスビンダー作品を見ていて感じるのはそのことである。あまりにも不快であったり意味不明であったりして、観客は作品を読み解く余裕がなくなっていく、そしてそのこと自体を(うまくいけば)味わい始めるのだ。これは言ってみれば「裏の娯楽」と言えよう。「表の娯楽映画」においては「意味がわかること」によって観客がドライヴされるのに対して、「裏の娯楽」においては「意味不明なこと」にドライヴされる。この「ドライヴ」という点が「娯楽」の本義であり、意味がわかるかどうかはどうでもいいのだ。

 

ベルリン・アレクサンダー広場 Blu-ray BOX

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ベルリン・アレクサンダー広場 DVD-BOX <新装・新価格版>

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『ロッキー ザ・ファイナル』に違和感(など覚えたくないが……)

クリードの新作に備えて、最近『ロッキー』シリーズを見返した。と言っても、3,4,5,ファイナル、だけで、1,2は(特に1は昔見過ぎたので)見なかった。3,4は昔よりも面白く感じ、5,ファイナルは昔ほど楽しめなかった(もちろん楽しんだが)。

前に『THIS IS US』や『スカイスクレイパー』の感想のときに書いたが、「生きること」やら「愛」やら「家族」やらの価値が疑われず、問うことさえせず、考えなしに前提にされている(世の95%の)作品に付き合うことが、どうやらますます耐え難くなっているようである(そのせいか、ただのアクション娯楽の方が最近は好きになった)。『ロッキー ザ・ファイナル』を見て、(そんなことを思いたくはなかったのに)そのことを思い起こしてしまった。

具体的に言うと、ロッキーが息子に説教する場面である。昔はえらく感動したものだが、今は「この世界はバラ色じゃない」と息子に説教するロッキーに一抹の違和感を覚えずにはいられない。つまりは、じゃあロッキーよ、それならなぜあなたはそんな世界に息子を、新たな命を送り込むようなことをそもそもしたのか、という疑問が、私の中で湧いてきてしまうのだ。おそらくそれに対してのロッキーの答えは、「酸いも甘いも経験したが、ともあれ充実した人生はすばらしいのだから、息子がそれを味わうのはいいことだ」というようなものだろう。それはわかる、一理あるのは認めるがしかし、(善人たちに非人扱いされることを承知で言うなら)そもそもはロッキー、「息子の」ではなく「あなたの」人生を充実させるために子どもを作ったのではなかったか、人生が生きるに値すると「自分が」思いたいがために子どもを作ったのではなかったか、それは果たしていいことと言えるのであろうか、もしかしたら何も考えずに言わば動物的に子どもを作ったときよりもそれはよくないことなのではないか、と思ってしまう。

とはいえ、もちろん『ロッキー』も『クリード』も大好きだ。このシリーズには、上のような疑問を消化した上で作られていると感じる瞬間さえある(例えば『クリード』の「何を証明したいんだ」「俺は過ちなんかじゃない」など、涙なしでは見られなかった)。

上と全く関係のない余談:『クリード』は名作だったと思うが、あえて言うと「ポーリー的キャラ」がいなかったのが、若干の食い足りなさの原因だったと思うので、『クリード2』ではポーリーのように「本当に駄目なやつは駄目なんだ」と思わせてくれるキャラが登場することを願う。

 

 

ドイツ語マラソン(ミステリー篇)

『法人類学者デイヴィッド・ハンター』をドイツ語で読み終えた(ドイツ語題は“DIE CHEMIE DES TODES”だが、そもそもこの本はもともと英語で書かれたもので、英題は“THE CHEMISTRY OF DEATH”である)。ミステリーである。

 

法人類学者デイヴィッド・ハンター (ヴィレッジブックス)

法人類学者デイヴィッド・ハンター (ヴィレッジブックス)

 

 

法人類学者、というのは聞き慣れない肩書だが、要は警察の捜査などにおいて、死体やその周りを(生理学的な手法ではなく)観察して、死因は何か、凶器は何か、いつ死んだか、などなどを推測する仕事らしい。とはいえ、この設定は本書においては大して役に立ってはいないように思われる。が、別に気になるほどでもなかった。

しかしまぁ、ドイツ語の勉強のため、という付加価値がなければもはや絶対に読まないタイプの小説だった。いや、私はもはやほとんど小説は英語とドイツ語の勉強のためにしか読まなくなってしまったのだが(小説単独の価値にもはやあまり惹かれることがなく、外国語の勉強、という付加価値が必要になってしまったのだが)、それにしてもこういう先が気になって仕方がない系のミステリーは日本語で読み通すのは逆に困難であっただろうと思う。というのも、先に書いたように本書は法人類学者による緻密な現場検証などが主題ではなく、あくまで伏線に次ぐ伏線、そして回収、クリフハンガーに次ぐクリフハンガー、そして「驚きの」展開によって魅せるミステリー(というか海外ドラマ的なにか)なので、面白いのだがだんだん馬鹿らしくなってくる。まるで永遠と欲望を一つ一つ叶えていくがいつまでも不満足のまま、という仏教的人間理解のメタファーでもあるかのように、あまり中身のない話が過剰に面白く語られており、虚しい。

とはいえ、こういう娯楽小説はしばしば苦痛を伴う語学の勉強として読んでも飽きないし、難易度的にちょうどよく、(おそらく)文芸作品なんかよりは一般的な表現に触れることもできるから、もっと早くに読んでおくべきだった(調子に乗って異様に難しい本から始めてしまうたちなので…)。

 

Die Chemie des Todes: Ungekuerzt

Die Chemie des Todes: Ungekuerzt

 

 

The Chemistry of Death: (David Hunter 1)

The Chemistry of Death: (David Hunter 1)

 

 

一人称と三人称

最近は相変わらず『法人類学者デイヴィッド・ハンター』のドイツ語版(“DIE CHEMIE DES TODES”)にかかりきりだ。知らなかったのだが日本語訳でどうやら500ページ近くあるようで、わりとすぐに読み終えられるだろうと思っていた私は、甘く見ていたと言わざるを得ない。そろそろ半分が読み終わりそうだが、もうこの本に一ヶ月以上付き合っている……まぁ、結構面白いのでいいっちゃいいのだが、やはりこれだけ付き合っているのならば、この本を手がかりにして何か考えてみよう。

さて、この本、基本的に主人公のデイヴィッドの一人称視点で語られるわけだが、時折客観視点から三人称で語られる場面もある。デイヴィッドが事件を究明しようとしているパートは一人称、犯人についての仄めかしや被害者が被害に遭ったりするところなどは三人称だ。

私は別に、こういう書き方自体が真新しいとか興味深いと言いたいわけではない。いや、私の読書遍歴的にあまりこういう書き方の本は読んでこなかったが、別に普通の書き方と言っても間違いではないだろうと思う。現に、読んでいて違和感を覚えることはない。私が言いたいのはむしろ、こういう書き方が別に普通だということのほうが興味深いのではないか、ということだ。小説の技術的な面ばっかりに気を取られてしまう頭でっかちな人にとっては、もしかしたら本作のような一人称と三人称との混在は統一感ないものとして斥けるべきものなのかもしれない。しかし普通に読む限りでは、(少なくとも人称の問題によっては)統一感の欠如を感じることはない。だが再び頭で考えると、「私視点」と「客観視点」が混在しているのだから不統一の印象を受けるのもまた当然ではないか、という疑問が湧いてくる。

小説に限らず(特にテレビゲームなどでは)「私視点」で描かれた物語には没入感を得やすく、「客観視点」で描かれる物語にはどこか他人事感、とまでは言わなくとも、外側から舞台を見ている感覚が伴う、というような見解が一般的だろうと思う。しかし、これは誤解ではないだろうか。なぜなら、物語中の「私」は(当たり前のことながら)私ではないからである。「私視点」はどこまでいっても所詮、本当の私の視野の中の対象物(私の視野の模造、枠そのものではなく枠の中の枠)に過ぎない、という意味においては、一個の舞台を作り出す「客観視点」と等価である(「私視点」も一個の舞台を作り出すに過ぎない)。そう考えると、頭で考えると統一感の欠如のように感じられる「私視点」と「客観視点」の混在が、なんの問題にもならないのにも合点がいく。「私視点」の世界も「客観視点」の世界と同じように、本当の私の世界の中の対象物(外から眺める舞台)に過ぎないとして一括できるからである。

さてここで、上のことを前提として1つの疑問が湧いてくる――「私視点」と「客観視点」とどちらの方が没入感が得られやすいか、という疑問である。いや、「没入感」という言葉は「私視点」びいきの言葉のように思われるから、どちらの方により夢中になれるか、という形に疑問を変えたほうがいいだろう。

しかしもちろん、この疑問に答えるのは簡単ではない。人によって違うとしか言いようのない面もあろうし、その他無限の要素が絡んできてしまうのでおそらく解答は得られない。だが、少なくとも次のようなことは言えるのではないだろうか。「私視点」は本当のところは私ではないのだから、私が「私視点」と一体化していると言う時その言明にはある種の「騙し」があって(騙しているのか騙されているかはここでは問題ではない)、その「騙し」は場合によっては、あるいは人によっては夢中になることを妨げる要因となるのではないか。ゲームの例で言うと、モニターに映るFPSゲームの一人称はやはり私の視野自体ではなく、どこまでいってもそれは私の視野の中のモニターに過ぎず、これを私の視野と同一視できる能力というのはかなり個人差がありそうである。また逆に「客観視点」およびそれが作り出す世界というのは、端から私の世界の中の対象物・ある種の舞台として受け取られ、そして事実そうなのであるから、そこに「騙し」が介在する余地はない。ゲームの例を続けるならば、TPSゲームの世界というのはそれがヴァーチャルであるというだけで、例えばおもちゃの家などと同じように、それは私という世界の中の対象物・ある種の舞台であり、それだけである。私が私のままで舞台を観察したりいじれるのである。ただし、舞台の中の登場人物に「感情移入」するとか、言い出すと話がややこしくなるのであるが……

 

Die Chemie des Todes (David Hunter 1) (German Edition)

Die Chemie des Todes (David Hunter 1) (German Edition)

 

 

 

『クワイエット・プレイス』

クワイエット・プレイス』を見た。傑作だろう。最近は映画に限れば面白いものばかりにあたっている。
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アイディアやストーリーや演出の妙などは一見すれば自明なので、ここでは触れない(というより、そういうことについて語る気にならないだけか)。例のごとく、この映画の土台となっている「思想」についてちょっと一言。

先に私はこの映画が「傑作」であると書いたが、しかしこと「思想」面においてはモヤモヤしたものがないでもなかった。そのモヤモヤとは(たぶん結構多くの人が感じたであろうが)「こんな世界で子どもを作るのはどうなの?」ということである。私の場合、あんな絶望的な世界でなくともこの現実世界においてさえ同様の疑問を持たざるを得ないものだから、なおさら違和感は強かった。世界がああなった後に妊娠したという計算であったと思うが、ちゃんと覚えていない。とはいえ、そうであってもなくとも、あの世界で子どもを産むということの正しさは実は全く自明なことではなくて、1つの決断・価値観・「思想」である(にすぎない)と考えていいだろう。もちろん「あの世界」ではなく「この世界」であっても「子どもを産むことは無条件にいいこと」などということはありえないはずだが、今作が楽しめる程度にはやはり(私も含め)多くの人にとって「無条件にいいこと」のように思われている(思われてしまう)のだろう。「なにはともあれ子どもは作るべきではない」という思想を表明するのは、確かに憚られる(しかしまぁ、子どもを作ることはいいことであると素朴に考えている人はやっぱり理解できないなぁ。少なくとも、自分たちが子どもを作る動機を反省してみたならば、そこにきれいなものだけが見つかるなどということは有り得そうにないが。まぁただ、どういうわけか多くの人は自分の欲求は「自分」の欲求であるがゆえに正しいと「自動的に思っている」みたいだから……)。

とはいえ、この映画は上のモヤモヤは主に2つのことによって乗り越えていると思う。1つ目はこれがホラー映画だから、というもので、2つ目はストーリーによって、ということになる。1つ目については、つまり、これはただのエンタメで、楽しめばいいんだよ、そして現にただ楽しいでしょ、ということを意味しているにすぎないから、説明は不要だろう(ラストシーンのバカさ加減を見よ!)。2つ目について言うと、この映画は愛についての物語で、物語の終盤で父親が娘に贈る愛の大きさが観客に「それでも世界は生きるに値する」と思わせることに成功している、ということだ。もちろん、ここでもなおこの愛の価値を否定することは大いに可能だと思うが。例えば仏教風に「愛など煩悩の一種に過ぎない」などと嘯いてみれば、なるほど確かに、そもそも愛などなければこんな悲劇全体が生まれないではないか、という視点を獲得する。とはいえ、どちらの立場に立つかは、結局は個人の(究極的には「正しい・正しくない」などと言った問題とは全く無関係な)選択の問題であると思うが。

最近考えた外国語勉強法

最近のドイツ語の勉強。どれが面白いドイツ語の本かを調べるのがめんどくさかったので、省略のされていない(ungekürztと検索)オーディオブックがある本を選んだ。たしか、アマゾンの検索結果の一番上に出てきたのが“DIE CHEMIE DES TODES”で、問題なさそうだったからそれを買ったのだが、後になってこの本、英語で書かれた“THE CHEMISTRY OF DEATH”のドイツ語訳だと知った……多分、洋書読みが趣味の人間にも二通りいると思うが、その外国語で書かれているのならそれが違う言語からの翻訳でもなんでも構わないと思う人と、原書がその外国語で書かれていないと意味がない考える人である。私は明らかに後者で、例えばハリー・ポッターをわざわざドイツ語で読もうなどとは夢にも思わないわけだが(もちろん、ここではハリー・ポッターはよく知られている英語の本の一例として出しているだけで、ハリー・ポッターがつまらないから読まない、と言いたいわけではない。つまらないとは思うが)、まぁ買ってしまったので仕方なく読んでいる。とはいえ“DIE CHEMIE DES TODES”は面白い。レベルの低い外国語学習者のうちは、やはりこういった先が気になって仕方がないものがちょうどいいのだろう。そのうち歯応えを求めて「文学」に向かうわけだが。

それはさておいて、オーディオブックを使うと、日本語の字幕を見ながら外国語の映画を見るという楽しみが本でもできてしまうと最近発見した(多くの外国語学習者にとっては既知?)。どういうことかと言うと、なんてことはない、日本語訳の本を見ながら外国語のオーディオブックを聞く、ということである。これは映像がないだけで、映画を字幕ありで見るのと同じで、しかも映画より単純に言語量が多いから、ドイツ語の映画でいいのが見つからないなあと思っていた私には良い発見であった。英語は(もちろん勉強のためではないが)映画を見まくったおかげでリスニング力はまぁまぁついたと思うので、同じ原理でドイツ語が勉強できるのは嬉しい。このリスニングの勉強法がいいのは、意味は日本語で瞬時に入ってくるので、聞き取る方に意識を集中できることにある(意味を考えているうちに次の文が始まってしまって、なんにも聞き取れなくなるということに身の覚えのない人などいるだろうか?)。私の場合は予め本の当該箇所(主に気に入ったチャプター)をドイツ語で読んだ後にこのリスニング法に入るが、もっと簡単な読み物ならいきなりリスニングしてもいいかもしれない。

 

法人類学者デイヴィッド・ハンター (ヴィレッジブックス)

法人類学者デイヴィッド・ハンター (ヴィレッジブックス)

 

 

『スカイスクレイパー』という僥倖


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最近、映画を見すぎている。疲れているのだろう。『アントマン&ワスプ』に『ザ・プレデター』……2つとも見なくていい映画だった(つまらなかった)。ドウェイン・ジョンソンが好きなので『スカイスクレイパー』もそうであったら嫌だなぁと心配していたのだが……杞憂であった。最初の過去のシーンからして、これは少なくともつまらない映画にはならないだろうと確信した。最近の実写アクションだったらこれで決まりだろう。客があまり入っていなくて腹立たしくなったほどだった(とはいえ、題材が古臭いのは否めないが、それがよくもある)。

この映画、結構アクションの見せ方がうまいし、ダイ・ハードに出てきそうなあのただのチンピラっぽい敵のボスも含め登場人物たちはみな存在感があるし、それでいてなんだか全編バカらしさが漂っていたりと、結構バランスが良かったと思う。面白かったものだから、見終わった後に監督が誰か調べてみたら、あの『なんちゃって家族』の監督だったなんて! そりゃあ、面白くなるよなぁ!

ところで前回の記事(『THIS IS US 36歳、これから』 - であ・あいんつぃげ)で私は、「家族ないし愛こそ全て」という価値観の内部における「内輪もめ」に過ぎないものを永遠と見せ続ける『THIS IS US』という海外ドラマを批判した。さて、今作『スカイスクレイパー』はどうであろうか? ザ・ロックは永遠と家族のために、家族のために、家族のために……頑張り、そして勝利を手にするわけだが。

いや、今作は「内輪もめ」ではない。理由は2つある。第一に、悪役の活躍が目覚ましく(かなり残虐非道な奴らである)、観客に結構なインパクトを与えると思うが、彼らは明らかに「家族ないし愛こそ全て」という価値観の内部にはいないから。第二に(こちらの方が重要だが)、「家族のために」の過剰さが「家族のために」を逆に相対化してしまって、ほとんどギャグとも言っていい感触を観客に与えるから。この映画を見て別に「感動」する人はいないだろう。ロッキーがエイドリアンを探すように、ラストでザ・ロックが観衆の中から家族を見つけ出そうとも、そこにあるのは「やりすぎ感」だけだから。

良作とされるのは当然『THIS IS US』のような作品なのだろうが、良作が自明として疑わない価値観を(図らずも)『スカイスクレイパー』のようなどうしようもない作品が暴き出してしまう。それにしても『スカイスクレイパー(摩天楼)』って、ダサい題名だ!