しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『小さい魔女』を(原書で)読んだ

またドイツ語で(児童書だが)本を読んだ。オトフリート・プロイスラーの『小さい魔女』(“Die Kliene Hexe”)である。ドイツ語のレベルとしては、おそらくケストナーの児童書よりも簡単だと思われる。が、ケストナーのほとんどの児童書が「大人も読める」(というか、実は大人じゃないとよくわからないのではと思われるところが多々ある)本なのに対して、プロイスラーの少なくともこの『小さい魔女』は本当に子供向けといった感じなので、実のところ途中でお話に対する興味が薄れてしまい、読み進めるのが若干面倒になった(が、短い本なので読めた)。

それでも、初めてドイツ語の本に挑戦する人とかには、ケストナーよりもこっちかな。私も昔、いきなり『飛ぶ教室』に挑戦して挫折した口だからである(最近再挑戦して読み終えることができたが)。

 

小さい魔女 (新しい世界の童話シリーズ)

小さい魔女 (新しい世界の童話シリーズ)

 

 

Die kleine Hexe. Jubilaeumsausgabe

Die kleine Hexe. Jubilaeumsausgabe

 

 

永井均の新刊を(頑張って)読んだ!

 

世界の独在論的存在構造: 哲学探究2 (哲学探究 2)

世界の独在論的存在構造: 哲学探究2 (哲学探究 2)

 

 

永井均の新刊の『世界の独在論的存在構造 哲学探求2』を読んだ(それにしても、冗談みたいに哲学っぽい書名だ)。まるで〈私〉を忘れないために、それを忘れさせようと働く構造(例の累進構造だが)の説明を何回も何回も(しつこいと言っていいぐらい)しているようであった。説明するというのはもちろん言葉を使ってだが、言葉そのものが累進構造の原因でもあり結果でもあるらしいから、それも致し方ないのだろう。「現実の〈私〉」は私だけのはずなのに、次の瞬間には「現実の〈私〉」という概念にすぎないもの(=《私》)なって「誰にでも」当てはまるという事態になる。しかし、やはり現実にはこの私しか〈私〉ではない! ということを確認することでただの概念にすぎない《私》を振り切ることができるのだが、しかしそうやって振り切るような事態もまた「誰にでも」起こり得て、ここでもまた概念にすぎないものに追いつかれてしまう。つまり中身(本質)は変わらないのだが、「現実に」それであるということ(実存)の点でだけ〈私〉は《私》と違う。現実に私だけが〈私〉であると主張しても客観的に認められる可能性はないであろうから(みんながみんな自分が〈私〉であると言うだろうから)、私が〈私〉であるという事実は世界には、客観的には(本質としては)決して存在しないのである。という意味で〈私〉は無であるのだが、しかし現実にはもちろん私しか〈私〉はいないのであり、それが全てで世界そのものなのだ(が、もちろんそんな事実は客観的にはない、と再び追いつかれてしまう)。その〈私〉(や〈今〉)が(無理矢理)世界内存在に仕立てられる時どのようなことになるのか、それが本書の主題だろうと思う。そういう観点から「自己意識」や「自由意志」などという概念の成立が説明されている。

途中、「唯物論独我論者」という思考実験が出てくる。〈私〉であることの原因が世界内に、客観的に(例えば自分の身体的構造に)あるのではないかと思ってそれを探し求める者がそれである。本質としては皆同じなのだが、どういうわけか現実にはこれだけしか与えられていないというのが〈私〉ということのポイントだったのだから、もちろん唯物論独我論者の試みはうまくいかない、いったと思ってもそいつが思っただけである。

この思考実験を読んだ時、客観的な世界内に自分が〈私〉であることの原因を「探し求める」のではなく、最初からそんなものはないと悟ってはいるが、それでは諦められず自分が〈私〉であることの理由を客観的世界に「作り出そう」とする者もいるのではないか、と思ったが、よく考えたらそれは思考実験どころか、かなり当たり前に日々起こっていることだろう。つまり、「野望」やら「自己実現願望」やらがそれである。要するにそれらは客観的な世界(の一部分)に自分が〈私〉であるという客観的には存在しない「事実」を反映させたいという欲望なのではないだろうか。

しかし面白いことに、永井均は本書の最後に収められた付論において〈私〉と真我=無我を同じものとみなした上で、次のように言っている。

……仏教において否定的に見られている、「気づき(サティ、マインドフルネス)」が欠けている放逸状態(いわゆるモンキーマインドの状態)とは、だれでもない(いかなる属性を持たない)真我=無我が(仏教用語で言えば「五蘊」によって蓋をされて)発動せず、代わりに諸々の属性によって条件付けられた不純な自発性が勝手に発動している不透明な状態である、といえるだろう。諸々の執着と、それに基づく貪欲は、このことから生じる。……(p.293)

つまり、「透明な」〈私〉状態が発動すれば「諸々の執着と、それに基づく貪欲」は生じないことになる。「野望」などは生じないのだ! それでは、「野望」は「客観的な世界(の一部分)に自分が〈私〉であるという客観的には存在しない「事実」を反映させたいという欲望」ではないのだろうか? いやそんなことはないだろう。執着を生じさせないためには「透明な」〈私〉状態でなければならないのであった。言い換えれば、累進構造が発動されていない状態の〈私〉でなければならないということだろう。「野望」を持つ者もまた「そもそも」〈私〉であるはずであり、ということは「私=全て=世界」であるはずなのだが、しかしそれならばなぜ「わざわざ」「さらに」世界を自分のものにするような真似をするのかといえば、それはやはり彼が「透明な」〈私〉ではないから、というか、そういう「私理解」をしていないからであろう。つまり、例えば、彼の「私理解」は累進構造の最上段の〈私〉には至っていないか、至っても時々だけであって、もっぱら《私》の段階に留まっている、というようなことなのではないだろうか。私が例えば《私》に過ぎないのだとしたら、私は結局他人と同じであり、だから「わざわざ」「さらに」世界を自分のものにしようと努力しなければならないのである。というのも、私=世界という〈私〉の実感も消えているわけがなく、《私》によって曇らされたその実感を取り戻したいと思うのは当然だろうから。しかし、実際は野望する者の理解は《私》段階なのだから、それと親和性の高い客観的世界に働きかけることになる。しかし、客観的世界を作り変えることで私だけが〈私〉であるという事実を実感することはできない。そもそも客観的世界から〈私〉に至る道はなく、本書で言われている通り、〈私〉から客観的世界への「一方通行」しかないからである。もしかしたらこれが、一般に「野望」などが虚しい結末に終わる(と思われている)ことの理由かもしれない。

この点から、(本書における文脈を無視して)「東洋の専制君主」に思いはせると、彼が暴君になるのかどうなのか、むしろ民に優しい王になったりはしないか、あるいは仏陀のように宮殿を出てしまうか、などと気になってしまう。永井均の倫理についての諸著作は「東洋の専制君主」が暴君になることを前提にして書かれているような印象を持っているが、そうだとしたら永井均の瞑想理論と矛盾しそうだが、そう単純な話でもないのだろう。というのも、第一に永井均の倫理本についての私の記憶が曖昧だからであり、第二に人が透明な〈私〉でいるのは(瞑想などをしなければ)困難であろうから、倫理本でそんな〈私〉を採用しても仕方ないのかもしれないこと、などなど色々考えられるが、ともあれ第一の理由によって、今はそのことを考えてもあまり意味がないだろう……

それと、上の「野望」の発生原因の説明自体は結局かなりありきたりなもので、今まで散々人々によって言葉は違えど言われてきたのだろうと思う(とはいえ、面白いと思う。他にも例えば「人は結局わかりあえない」といったような主張も〈私〉についての誤解から来ているのでは、というように考えるのは楽しい)。永井均の主たる主張はそういう類のものではなく、言ってみれば、たとえ「野望」の発生原因が上のようなものであるとしても、現に感じられる(?)「野望」はこれだけであり、他人のそれと現に感じられるそれの間には無限の隔たりがあるはずだが、その隔たりは常にすでにないものとされている、というようなものだと理解している。

 

倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦 (ちくま学芸文庫)

倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦 (ちくま学芸文庫)

 

 

『ファービアン』を読了

大体二週間を使ってケストナーの『ファービアン』(原題“DER GANG VOR DIE HUNDE”)を読んだ。ドイツ語の原書である。かなり厳しい戦いだったが、一日20ページぐらい読み、どうにか気が狂う前に読み終えることができた。

ドイツ語でケストナーによる児童書を数冊読み終えていたからであろうか、この大人向けの小説も割とスムーズに読み通すことができた。使われている語彙などは児童書と比べて段違いに多かったのだろうが、文法的な難しさ、というか文章の複雑にやられることはあまりなかった。という意味で、ドイツ語学習者にとって結構おすすめできる一冊だ。私のようにまずは数冊児童書の方を読み通すといいかもしれない。そうすると(少なくとも読む力における)基礎的なドイツ語力が身に付だろうから。

内容は(ネタバレになるが)結構暗い話ではある。戦間期のドイツが舞台であり、(たぶん)書かれたのもその時期だが、人々の虚飾にまみれた乱れた風俗が盛んに描かれ、そのことによって人生の虚しさが強調されている。話の筋はエンタメ的とすらいえ、しかも間違いなくどの場面も面白く、退屈するところは少ない(もちろんあるにはある。現代人にはスローペースだと感じられるかも)。しかし話の内容といえば、親友が自殺したり恋人が映画出演のためにプロデューサーと寝たりと、これまたきついことの連続である。ともあれ、この小説は間違いなく傑作である。虚無感や絶望といった、およそエンタメにはふさわしくないものを、(文芸的、ではなく)エンタメ的に語っているような感じだ。内容ではなく技巧がエンタメ的である、ということで、私の好みである。ただ、悪い奴は悪い、下卑た奴は下卑た奴、という単純な描き方を大人向けの小説でもしていたことには驚いたが(児童書だからそう描いていたのだと思っていた)。

同じ著者の子供向けの本と比べても、基本的にはケストナーのスタンスは変わっていないように思う。要は「立派に(道徳的に?)生きる」ことがよいことだ、というスタンスだ。しかし、『ファービアン』では更に自己批判する視線が加わり、そもそもそんな風によく生きることができるのか、ということと、よく生きたところでそれが何かを変える力になるのか、ということが疑問に付されている。そして、現にファービアンのやっていることは他の人間がやっている(汚い)ことと変わらないし、彼は無力極まりなく(それどころか虚無的で)、象徴的なことに、彼は泳げないのに子ども助けようとして川に飛び込み、溺れ死ぬ。

 

Der Gang vor die Hunde

Der Gang vor die Hunde

 

 

 

ファービアン―あるモラリストの物語 (ちくま文庫)

ファービアン―あるモラリストの物語 (ちくま文庫)

 
ファビアン――あるモラリストの物語

ファビアン――あるモラリストの物語

 

 

 

今夏一番『インクレディブル・ファミリー』


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インクレディブル・ファミリー』を見た。今夏一番の面白さであるのは間違いないだろう(もっとも、今年の夏は映画は不作だと思うが……)。ヒーロー子育てが楽しい、バトルが楽しい、とにかく楽しい。
唯一残念に思ったのは、悪役の動機の部分。それも、あるどんでん返しが起こるまでは最高だったのだが。(途中までの)悪役曰く、お前らは自分では何にもしないでテレビ(あるいは何かのモニター)ばっかり見て、その中でなにかしている人を見ることでなにかした気になっているけど、本当は何もやっていない、そんなお前らは操られて当然だぜ……大体こんな内容のスピーチを長々と、まさに我々観客に向かって聞かせてきたあたり、かなりしびれた(あそこはかなりの人がなんだか気まずくなったのではないだろうか)。おそらくここらへんはブラッド・バード監督の本音、というか吐き出したい毒の部分だったように思われる。

しかし、後半になって悪役の正体と「真の」動機が語られると、途端に全てがどうでもよくなってしまう。曰く、助けてもらいたかった時にヒーローは来てくれなかった云々かんぬん……まるで説得力がないし、どこか聞いたような話だし……。おそらくこちらの「真の」動機こそが監督の本音を隠すための「嘘」であろう。

ところで、今作で見られた監督の本音ないし毒のような主張、例えばエヴァンゲリオン庵野秀明監督もまた持っている(少なくとも持っていた)であろう主張、すなわち「作り物にばかりかまけているやつは豚野郎」的な主張は、誰もが即座に思い至るとおり、自己否定の一形態である。なぜなら(これも誰もがすぐに思いつくように)「じゃあ、そういう作り物を作っているあんたはなんなんだ」という批判がすぐさまこの種の主張には向けられざるを得ないし、当然作り手はこの種の批判を見越してなおやはりああ主張をするからである。

ただし、今作では一応悪役に次のように言わせている。曰く、人々はよいものを使わず、すぐに易きに流れる、楽をしようとするためだけに道具を使う、と。つまり、作り物自体は悪いことではないが、よいものを使え、自分が怠けるためのものなどに触れるな、と。しかし、だからといってじゃあ、先の主張が作り手にとって自己否定的じゃなくなるかと言うと、否、と言わざるを得ないであろう。というのも、今作は本当に面白いから、人々は安楽に楽しめるから、その分人々を怠けさせてしまうから……。あらゆる分野において、この種の矛盾は永遠に解かれることはないだろう。ある人々によって成し遂げられた努力の産物が、他の人々の怠惰へとつながる。しかし、そのあることを成し遂げた人間は得てして、他の人々にも自分と同じように努力して充実した人生を送ってほしいと願っている。そんな願いこそが馬鹿げていると簡単に言えればよいのだが……。

『ファービアン』または“DER GANG VOR DIE HUNDE”の途中経過

ケストナーの『ファービアン』を読んでいる。いや正確に言うと、『ファービアン』の完全版である“DER GANG VOR DIE HUNDE”を原書で読んでいる。完全版というのは、『ファービアン』は(ケストナーの意に反して)けっこう文章を修正・削除されている版らしく、それを題名と共にもとの形に戻したのが“DER GANG VOR DIE HUNDE”(『破滅』とでも訳せようか)だという。

今、一日20ページ(大体2章分)のペースで頑張って150ページぐらいまで読み、しかもオーディオブックも買って一日の終わりにその日に読んだ分を聞いているが、そろそろ脳のキャパシティ・オーバーだ。ドイツ語を見るだけでなんだか気持ち悪くなってくる。

しかしこの本、ドイツ語の勉強をしたい人にも単純に本を楽しみたい人にもおすすめできる。同じ著者の児童書群と比べても文法的にはそこまで難しくないし、オーディオブックも省略なしのものが手に入る。まだ最後まで読んでいないが、これまでのところ物語はすこぶる面白い。戦間期のベルリン(だったっけな?)が舞台なので風俗が乱れに乱れ、明るい話とは言い難いがポンポン話が進むし、一場面一場面が面白く描かれているので飽きない。

全て読み終わったらまたちゃんと感想を書きたいが(しかし書くかわからないが)、今なんとなく思っているのは、ケストナーと私が敬愛するスタインベックを比べるのは価値有ることなのでは、ということだ。二人が生きた時代は大体重なるし、「文学にしては面白すぎる」点も共通している。ただ、二人の道徳観はかなり違うのではないだろうか。ケストナーといえば、猥雑なものは結局救い難いとして切り捨てて清い者たちの物語を書くが、スタインベックはというと逆に、猥雑なものに聖なるものを見る。いや、これはちょっと単純化しすぎかもしれない。特に『ファービアン』に関して言うと、主人公も汚れから逃れられていない。だが、やはり汚い(とされている)ものを汚いものと見ていることに変わりはないであろう。昔はスタインベックのような態度に圧倒的に共感したものだが、今はどうだろう? ちょっとわからない、というか、どうでもよくなったのかもしれない。

さぁ、残りを読まなければ。

 

Der Gang vor die Hunde

Der Gang vor die Hunde

 
Der Gang vor die Hunde/CD

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ファビアン――あるモラリストの物語

ファビアン――あるモラリストの物語

 

 

『ウインド・リバー』『BLEACH』『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』感想

最近立て続けに『ウインド・リバー』、実写版『BLEACH』、『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』を見たが、どれもパッとしなかった。今またドイツ語でケストナーの小説(今回は大人向けの本)を一日20ページぐらい読んで急速にドイツ語慣れしようとしているのだが、もしかしたらそのせいで疲れていたのが原因でどれも面白く感じられなかったのかもしれない。
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という自分の状態についてはひとまず脇に置いて言わせてもらうと、この三作は総じて(少なくともアクションの)クオリティは高かったものの別に面白くはなかった。完全に個人的な印象としては、いずれの作品からも〈こうやっとけばちゃんとできてるように見えるっしょ〉という臭みを感じてしまった。『ウインド・リバー』では中身があるようで大したことのない台詞と高級そうな演出が、『BLEACH』では手堅いが手堅いだけのアクションと、漫画的描写が臭くなりすぎないようにはするがしかし映画的にはしない中途半端な配慮が、『ミッション〜』ではひねりにひねってるっぽいがおそらくちゃんと考えたら意味がわからないストーリーが、映画を純粋に楽しむことを阻害していた。率直に言えば、『ウインド・リバー』には語るべき内容など実はほとんどなかったように思え、『BLEACH』を見て改めて少年漫画は映画にしてはいけないと確信し、『ミッション〜』はスタントなしアクションしたことを知った上でだとハラハラする!と言いたかったところだが、そう言いたいと思って映画を見てしまった時点でハラハラしないことは目に見えていた。

どれもすきがないように作ろうとして面白くなくなった例ではないだろうか。もっとも、実際はすきだらけだが、それを隠している感じが気に入らない、という意味で。最近シュワちゃんの『コマンドー』を初めて(!)見たが、あまりにも雑な作りなのにあまりにも面白くてのけぞった。ザ・ロックにはああいうのをやってほしいんだけど、なんかちょっと真面目な雰囲気にしちゃうんだよなぁ。

『ジュラシック・ワールド/炎の王国』

ジュラシック・ワールド/炎の王国』を見た。感想:つまらなかった。
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 久々に〈何もない〉映画を見たなぁ。もちろんストーリーはあった、アクションはあった、恐竜はいた、しかし、依然として何もなかったのだ……。いわば、存在はあった、しかし中身がなかった。

というわけでこの映画について語れることはないわけだが、しかし、この〈全てあるのに何もない〉という感覚について一言述べておきたい。

唐突に、そしてこの映画とは何の繋がりもないことを告白するが、つまり、私もずいぶん長い間〈全てがあるのに何もない〉という感覚に悩まされていた人間の一人であった、いや正確に言うと、そういう悩み方が正当であると思い込んでいた人間の一人であった。こういう〈虚しい〉映画を見ると、昔の自分に一瞬戻ってしまう。

〈全てがあるのに何もない〉を〈全ては意味がない〉に言い換えてもいいだろう。当然、その気分は鬱々としたものだった。鬱々とすることさえもまた意味がないのだから、鬱々とすることもやめよう、そう思えたのがその状態から抜け出すきっかけであった。普通の人は何かしらに意味を見出して最悪の状態を抜け出すのだろうが、私にはそれが出来なかったし、したくなかったから、意味がない(かあるかは絶対にわからない)という行き止まりの考え方をさらに徹底する方向に進んでいったのだった。

それからもかなり長い間つらかったのは事実だが、今ではすっかり抑鬱感も消え失せたように思う。というのも私の根本態度が、〈全ては意味がない〉から〈全ては意味がないにしても、ともあれ全てはある〉というものに変わったから、つまり「ない」で終わっていた文章が「ある」で終わる文章に変わったからである。実際、〈全ては意味がない〉よりも〈全ては意味がないにしても、ともあれ全てはある〉の方が実感に近いのではないかな? だって「意味がない」と思っていることは自体はどうしたって「ある」んだから! 

もっとも、こう理屈で考えたから〈全てはあるのに何もない〉という鬱々とした気分から抜け出せたのではない。あくまでもそこから抜け出せたからこそ、「ある」で終わる文章を真に実感できたという、結果論である。方法論はまた別に考えなければならないから、ご注意を。

ともあれ映画に話を戻す:上のように語ってきたにも関わらず、もちろん、人生と映画は違うから、今作のような映画を〈つまらないがとにかくそこにある〉と肯定的に捉えられるわけもない。普通につまらない、それで終わりだ。そして、「ない」で終わる気分にまたしても、僅かな間とはいえ襲われてしまう……。