しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『未来のミライ』感想

未来のミライ』を見た。全体としてみると、なかなか面白かった。
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しかし最初に言っておかなければならないが、主人公の男の子(くんちゃん)の声、ひどかった……。最初から最後まで大人の女の声にしか聞こえず(くんちゃんと未来のミライ、同世代の女の声にしか聞こえないから、二人が話している時が特にきつかった)、そのことがノイズになって映画に入り込めなかった。それにいつもの細田守っぽい「見ていてなんだか恥ずかしくなる感じ」や上辺だけのコミュニケーションしかとれない人々も健在であった。あと、キャラクターがテーマを「声を大にして」言う下品さも前作にして失敗作『バケモノの子』から継承している。

それでもこの作品が面白かったのは(多くの人はまさにそこが嫌いなのだろうが)実験映画的であったから。わかりやすい説明も筋もなく、イメージの羅列のような展開は映像として単純に楽しかった。だからストーリーが何となく飲み込めなくても(例えば、「雛人形を片付けて」とただお父さんに言えばいいだけじゃ……)、実験映画だし、まぁいっか! と言った具合。

そうそう、これも「実験映画だし、まぁいっか!」案件ではあるのだが、「未来のミライ」というわりには今作において大事なのは過去だし(ひいジイサンが一番存在感があった)、ミライは特に中身のないキャラクターだし、しかしなぜか全部知っているし……でも実験映画だし、全部誰かの妄想ってことでしょ、まぁいっか! と思えるぐらいには面白い。

テーマは「声を大にして」言われているので観客は皆承知するわけだが、ずばり「過去の無数の(些細な)出来事のつながりによって、奇跡的に今がある、私がいる」である。ところで、こういう教えはよく説かれると思うが、これが救いになる人というのはどれほどいるのだろうか? そもそもこれは奇跡なのであろうか? 全ては偶然の積み重ねだから、確かに今の状態は確率的に見たら奇跡的だろう。しかし実際は「その」偶然の積み重ねしかなかったのであるから、他はそもそもなかったのだから、ただ単に全てはそうであったに過ぎないのではないか?(もっとも、「ただ単にそうであった」こと自体に奇跡を感じることは可能だが。) また、仮に今が確率的に奇跡だと認めるにしても、例えば不幸のどん底にある人は、そこが確率的に奇跡であったと知らされて救われるだろうか? むしろ絶望するのではないか。不幸ではない場合があったと想定されるからである(もっとも、それこそ未来は変えていけるとは思えるかもしれないが)。

それに、根本的にこの教えが救いにつながらないのと私が思うは、この教えは結局のところ、自分は全体の中の一部分に過ぎないと言っているからである。本作で主人公家族の系統樹のようなものが出てくるが、自分がその巨大な流れの一部なのだと知らされて救われる人間の気持ちが、もはや私にはよくわからない。

ともあれ、何回も涙ぐみ、数回泣いてしまった。映画の内容というより、そこから連想された自分のことについて、堪らない気持ちになった。自転車に乗る練習のエピソードが1番よかったのではないかな。

ケストナー『五月三十五日』感想

ケストナーの『五月三十五日』を原書("Der 35. Mai")で読んだ。ケストナーの児童書はこれで3冊目。どうやら日本語版は絶版らしいが、結構よかった。

5月35日という実際にはない日に、主人公の少年とその叔父が南太平洋へと馬に乗って旅をする。目的地に至るまでにたくさん不思議なところを通って……というようなあらすじ。

 

五月三十五日 ケストナー少年文学全集(5)

五月三十五日 ケストナー少年文学全集(5)

 

 

150ページぐらいだが、実際はかわいらしい挿絵が大量にあるのでその半分くらいかもしれない。語彙は簡単だろうと踏んでいたが、色々な「不思議の国」のバリエーションがあって、その分語彙も幅広く、若干調べるのが面倒なくらいの時があった(ま、外国語だから当然っちゃ当然だが)。

内容の感想としては、子ども向けなのに結構容赦ない描写、ブラックユーモアがあって、もちろん好感を持った。虐待されている子どもが、逆に親を虐待して躾けている「逆さまの世界」や、全てがオートマチックに動く都市の工場では、牛が穴に入ったら自動的に肉製品、乳製品、革製品になって出てくる……

上のブラックユーモアもそうだが、多分大人じゃないとわからないのは、主人公の叔父さんの悲しさだろう。彼は未婚で、妻も子供もいない。甥の父親(つまり兄弟)からは、お前はまだ子供だ、と言われる始末。ラスト、彼は寝ている甥に「おやすみ、息子よ」と言うが、しかし、「それでもこの子は彼の甥でしかなかった」という一文で本書は締めくくられている。

 

Der 35. Mai Oder Konrad Reitet in Die Sudsee.

Der 35. Mai Oder Konrad Reitet in Die Sudsee.

 

 

 

独検2級合格!

今まで語学は好きだったものの、テストの類はホントに嫌いであまり受けてこなかった。並々ならぬ時間を語学に注いでいるので(主に読書)、テストで点が悪かったりすると気分が悪いからだ。toeicは5,6年前に受けたが(そんなに悪い点ではなかった)、ドイツ語についてはテストは絶対受けないと決めていた。しかし最近気が変わって、というのはつまり、テスト(の結果)など本当にどうでもいいのだと心底思えるようになったから逆に、ドイツ語の勉強のモチベーションアップに少しでも役立てばと思って独検2級を受けた。何か実益になることは端から期待していない(実際役に立たないだろう)。問題集は買ったが、結局ほとんどやらず、テスト前日にリスニングの形式を確認した程度だった。

合格した。100点満点で88点で、合格最低点が55点ぐらいだったから、楽勝だったということでいいだろう。やっぱり、普段からドイツ語で本を読んでいればテストはどうにでもなるらしい(もっとも、リスニングはキツかったが。失点は主にそこと、アクセントの位置とかを問う重箱の隅をつつく系の問題だろう)。

次は準一級を受けるか。しかし、スピーキングのテストは気が重い……

 

追記(2019/07/27)

ちなみに、今年の初めに準一級に合格していたのだった。面接の試験は合格最低点だったが(笑)、まあいいだろう。ああいう試験はやっぱり対策の取りようがないな。当たって砕けるか持ちこたえるかだけだ。もちろん、数週間前からドイツ人と話す機会を設けるなどしてドイツ語を慣らしておくべきだが、結局は実力以上は何もできない。

『ザ・リング リバース』

ザ・リング リバース』を見た。感想。

 

 もちろん(!)出来は良くなかったが、まぁ『リング』大好き人間としては楽しめないこともなかった。しかし、後半の『ドント・ブリーズ』の真似事展開には流石に失笑したし、終始意味もなく、ただ観客を気持ち悪い思いをさせるためだけに虫が蠢くのもどうにかならなかったのか。そして一番の問題点は呪いのビデオの内容で勝負しなかったところだ。前作(ハリウッド版『ザ・リング』)の呪いのビデオをさらっと見せるのはいいにしても、今作で新たに「付け加わった」ビデオもワンカットで見せず見ている人間のカットを割り込ませてしまっている辺り、相当ビデオの内容に自信がなかったのだろう、本当に全く怖くないビデオだった! 前作のビデオも日本版の完成度とは比べるべくもないものだったとはいえ、それでも今作と比べたらなんと頑張っていたことだろうか!

今時は日本版の1作目を見ていない人もいるようだから、もちろんまずはそれを薦める。あれが史上最も怖いホラー映画であることに疑う余地はない(いわゆるJホラー表現はもう飽きられたと思われがちだが、今でも『リング』が怖いことからして、それは間違いである。ただ製作者が飽きてやらなくなったか、やっても不出来なことが最近は多い、それだけだろう)。

 

リング

リング

 

 

『エイリアン:コヴェナント』の不可能性

結構前の映画だがリドリー・スコット監督の『エイリアン:コヴェナント』をDVDで見た。感想、というか、ちょっとこれに関連して考えた(考えられる)ことを。

 

 

ラッパーであり映画評論家でもある宇多丸さんが、前作『プロメテウス』のテーマを「創造主(神)はクソ野郎だった」としていて、私はその評は的を得た、かなり鋭いものだと思ったが、しかしそうであればこそ、『プロメテウス』(と今作『コヴェナント』)は凡庸な作品であると感じた(少なくともテーマの面では)。というのも、人間の「創造主はクソ野郎だった」とわかったとしても、更に「それではその創造主は誰によって作られたのか」と問うことができるし、当然問われるはずであり、しかしこのエイリアン前日譚ではその点が(少なくとも今のところ)問われていないからである。人間の創造主が「クソ野郎」であったことは、確かに「良いやつ」であった場合(つまりありがちな話)と比べれば意外ではあるかも知れない。しかし、「じゃあそのクソ野郎の創造主は誰なんだ? そしてクソ野郎の創造主の創造主は? さらにその創造主は?」という風に無限に問いが後退していくこと、この問いは絶対に答えられないように「どういうわけだか」なっていること、それに対する驚きに比べれば、人間の創造主が「クソ野郎」だったことなど些末な問題に過ぎない。「人間の創造主を見つけたら、そいつはクソ野郎だった」というレベルに留まったままで神殺しが完了した気になっているとしたら、それ自体がマヌケという他ない。「人間の創造主を見つけたら、そいつは良い奴だった」という普通の話とは正反対だからといって、「クソ野郎」は別に一歩も進んでいやしない。なぜなら、良いやつ(神)だったにしろ悪いやつ(クソ野郎)だったにしろ、「創造主は見つけた。はい、以上」という段階で留まっていることは共通しているからである。本当の次の一歩ではもちろん「で、その創造主の創造主は?」という終わらない問いが始まっていなければならないはずなのに。この終わらない問いを封じるものこそが、底なし沼の底を塞ぐ栓のようなものこそが、神と呼ばれるにふさわしいであろう。だから、この問いが出ない世界で神殺しの如きことをされても、そういう世界に留まっている時点でやはり「神はいる」のである。

以上のことを証しするかの如く、『コヴェナント』では人類の創造主は早くも不問に付され(葬り去られ)、加えてマイケル・ファスベンダーによる新たな創造主への成り上がりという表面的な目くらましもあり、例の問い、つまり「しかし、その創造主の創造主は?」には栓がされたままである。ちなみに、根源的なものを求める営み自体が無駄である、という価値観を表明されても事態は何ら好転しない。つまり、その価値観にもまたなんの根拠も与えることができないし、むしろどんな意見であれ根拠を(究極的には)与えることができないことが重要だということにここでも気付かされてしまうのだから。

とまぁ、テーマに関しては微妙な作品だが、実は『コヴェナント』は結構好きな映画だった。クリーチャーがキモすぎて、最高だったからである。

タバコについて

3ヶ月ほど禁煙していたが、先週あたりからまたちょこちょこタバコを吸い始めてしまっている。もっとも、2日に1本ぐらいのペースで、しかも1箱(400円)買って1本吸い、残りは全部水につけて捨てているのだが。それでも、もう喫煙体質に戻ってしまっているのかもしれない。普通、3ヶ月もやめていればタバコはまずく感じられるだろうと思って1本吸ったのがよくなかった。つまり、旨かったのである。

心から思うが、タバコを1日1本程度に制限できたらどんなに幸せ(健康)なことだろう。やはり快楽があるのは事実だし、我慢しすぎるのはどんなものにしろ(心の)健康によくない。しかし、ちょうどいいところにとどまれないのもまたタバコであるから、難しい。世間のタバコバッシングに逆らいたい気持ちもあるから尚更である。私は酒が飲めないから、そして酒の方がどう考えても人を直接的に死に追いやるから、酒を非難せずタバコだけバッシングする人の群れには世界からご退場願いたいが、他人を貶めることでどうにか生きていけるだけの彼らが多数派なのだから、仕方がないのだろう。

『ゲット・アウト』から『ブラックパンサー』へ

ゲット・アウト』をDVDで見た。くだらなかったが、けっこう面白かった。
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この映画でなにか考えさせるところがあるとすれば、それはあの一家、というかあの地域の人間らがなぜ黒人を選んだのか、その理由であろう。劇中で主人公の体を乗っ取ろうとする盲目の老人は確か、それは黒人(の身体)に憧れているからだ、というようなことを言う(もっともこの老人自身はもう少し「高尚な」理由なのだが)。さて、これをどう考えればいいのだろうか?

まず思い浮かぶのは、この映画の話は黒人が今や憧れられる対象になり得るからこそ成立する物語だということ、もしくはそうなり得ると主張する物語なのだということである。この観点から見てみると、この映画は(黒人たちがひどい目にあっているからわかりづらいが)黒人差別を描いているように見えて、実は黒人であることへの圧倒的な肯定感を前提にして成り立っているか、もしくはそのような肯定感を持つべきだと主張しているように思えてくる。これは事態を逆にして考えてみるとそう奇異な考え方ではないはずである。つまり、例えば、白人と黒人が結婚することを望まない差別的な白人は「私たちの血に混じってくるな」というような被害妄想的なことを言うが、これなんかはまさに自分たちが優れていると思っているからこそ被害者になるという物語である(そう、そういう「物語」に過ぎない)。

とはいえ、やはり今作は黒人差別の物語だとも(当然のことだが)言われるべきなのであろう。第一に、白人による黒人(の身体)への価値評価がネガティブなものではなくポジティブなものであるとはいえ、やはりまだ黒人をモノのようにひとまとめにして「区別」しているから。第二に、仮に今は違うにしても、やはり黒人がネガティブなレッテルを貼られていたという過去は現にあり、今のポジティブな評価(レッテル)はただ過去の評価(レッテル)を反転させただけなのではないか、という疑いが消えないから。第一点目よりも第二点目のほうが深刻である。というのも、白人、黒人、黄色人種、その他「なんであれ」区別はされうるのだから「区別」というのは普遍的であり、ゆえにみんなに「区別」の呪いがかけられている(のだから、実は呪いなどないと言える)のに対して、過去こそがあるもの(ここでは黒人)の個別性を形作るのであるから、黒人が黒人という個別性を生きる限り苛烈に差別されてきた過去から逃れるのは難しい(過去は普遍化できないがゆえに呪いであり続ける)。差別問題が難しいのは、被差別者がたとえ今現在は(自他共に)ポジティブに捉えられているにしても、それは過去のネガティブな評価に対する相対的なものに過ぎないのではないか、この肯定は絶対的ではないのではないか、という疑念が消えないことに由来するのだろうと思う。

さて、この点に関連して、先日dvdで3回目の鑑賞をした『ブラックパンサー』を手がかりにして考えてみる(ところで私は、政治的理由を抜きにしても、この映画は今まで見たスーパーヒーローもので一番だと言いたい。とにかくエリック・キルモンガーの涙を誘うキャラクター造形が最高である。が、今はその話ではない)。
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この映画の画期性は、上に書いた「第二点目」、つまり過去という呪いのことだが、それから完全に自由な黒人たちを描いたことにある。つまり、ワカンダの連中がそれである。彼らは「そもそも」豊かだし「そもそも」クールだし「そもそも」自信にあふれている。そして私は思うのだが(そして言いにくいことだが)、本当に被差別者が救われる世界とはこっちの方向、つまり「過去を忘れる」という方向なのではなかろうか。もちろんワカンダなんかないわけだが、それでも例えばそういうのをスクリーンで見て「そもそも」感を身に着けて忘却する方向……しかし、それ(忘却)はなんとなく不誠実なように思ってしまうからこそのキルモンガーのあの説得力でもあるのだろうから……うーん、悩ましい。が、やはり「個人が」幸せになるためには忘却しかなかろうよ(キルモンガーの末路を見よ!)。