しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

(いわゆる正式な)瞑想はやめてもいい、場合によってはやめた「ほうがいい」

最近、瞑想についての考え方を改めた。長いこと隣近所の(些細な)騒音のせいで座ってする瞑想が困難になっていて、そのせいでどんどん怒りっぽくなったことが原因だ。瞑想をすると(私の場合)感覚が鋭くなるので余計騒音が気になり、そして気になる自分や気にさせる他人に腹が立ったりと心が乱れまくっていたので、(ずっと前から気づいていたのだが)これはそもそも「瞑想をしなければ」という固定観念がよくないと確信した。その固定観念の効力をなくすためには当然瞑想しなければいいわけで、よって瞑想をやめた。すると、途端に気持ちがより自由でイライラの少ない日々に様変わりした、という次第。

「瞑想をやめた」とはいえ、いわゆる「瞑想」という言葉でイメージされる、座る瞑想をやめたという意味だ。依然として日常暮らしていて湧き上がる雑念に気づいて消す(勝手に消える)という習慣や、何か単純な日々の行い、例えば歯磨きやシャワーの時に歯磨きやシャワーにだけ意識を集中し、離れたらまた戻るというようなことも続けている。疲れたら横になって、座る瞑想の時にしていたことをより短い時間だけやることもある。するとどういうことだろう、このような日常生活における瞑想の質は、座る瞑想を「ちゃんと」やっていた頃に比べると良くなったように思える。何故かといえば、「瞑想」という特別な行為をある時間していればそれで万事オッケーなのだ、という考えが消えて、生活の中でチャンスのあるときにはできるだけ瞑想しようという心構えに変わったからであろう。

というわけで、私の今のところの結論は、瞑想のやり方を覚えるまでは正式な瞑想(例えば座禅のような)をやるのは効果的だが、一度やり方がわかったなら、日常生活の中でできる瞑想だけで良い、むしろ出家者など出ない限り理想的な瞑想環境などないのだから、仕事等の日常生活とバッティングしないためにも、正式な瞑想はしない方がいいかもしれない、というものだ。