しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

もしもまだ本が偉いと言えるなら……

私は「本だからこそ(あるいは映画だからこそ、あるいはゲームだからこそ)できることがある」といったような言説にはあまり惹かれない、もっと言うと面白くないと感じる。いや、もちろんメディアごとに出来ることと出来ないことが(大きく)異なっていることは認めるし、それを研究することは創作物のクオリティを向上させる上で有意義なことなのだろう。だから私が面白くないと思う言説をもっと正確に言えば、「本だからこそ(あるいは映画だからこそ、ゲームだからこそ)こんなに素晴らしいことができ、だから他のメディアと比べて偉い」といったような感じになる。これは、大抵の場合、何かのメディアに肩入れしている人はそのメディアを特別視している、ということの現れに過ぎず、だからつまらない。

本であれ映画であれゲームであれ、あるメディアだからこそ出来る「表現」は無数にあるだろうが、(その表現によって)「表現されるもの」があるメディアだけに限定されるということはないように思われる。例えば、「文学的な感じ」(という「表現されるもの」)は小説という形によって表現されることがスタンダードだとは思うが、だからといって「文学的な感じ」が映画やゲームで表現出来ないということはないし、現に表現できている映画やゲームはある(出来ないという人は、「文学的な感じ」を「文学的な感じを小説という形によって表現するときに生じる感じ」と一緒にしている。もちろん、後者の感じは小説でしか味わえないが、前者は他のメディアでも味わえる)。なぜかと言えば、「表現されるもの」は我々人間の側が(概念などとして)持っているものであって、「表現」の側には属していないからである。だから、ある「表現(形式)」そのものを崇めるのでない限り、ある「表現されるもの」が崇高な理由がその「表現」だからこそだ、というのは間違いだ(もっともある「表現」こそが初めてある「表現されるもの」を表現した、いうことはありえるが、一度表現されれば、それは概念として我々に吸収され、我々はそれをどの「表現」を使ってでも表現できるようになる)。

と、ここまではある意味当たり前の話だが、しかしここからはあえて、「それでも本は(他のメディアと比べて)偉い」という話をしたい。もっとも、上の話とはかなり違う観点からだが。

ここ半年以上、私はビデオゲームの実況プレイ動画とビデオゲームをすることに嵌まり込んでいたのであるが、最近ようやく本に戻ってくることができた。そして本と映像とゲームのそれぞれの特質を体験の観点から考えてみたのだが、私の結論としては、本を読むとき私達が「受け取る」情報(文字情報)と私達がそこから「頭の中で構成しなければならない」情報(例えばある静止画像や動画、あるいは抽象的構造物など)が食い違っていて、ゆえに読み手である私達に負荷がかかりやすいが、映画やゲームの場合はそういうことは少ない(少なくとも映像については、そのまま映像として受け取ればいい)、というのが一番大きな違いであるようだ。そしてそのような負荷のために我々は本とは適切な距離が置きやすく、そのような負荷が少ない映像作品などには嵌まり込みやすい。私としては何かに「嵌まり込む」のは快楽でもあるがそれ以上に苦痛なので、嵌まり込まずとも楽しめる(余地のある)本の方が偉いという単純な話でした。