しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

「無」の種類(『生まれてこない方が良かったーー存在してしまうことの害悪』について)

『生まれてこない方が良かったーー存在してしまうことの害悪』は結局、すべて読みきれなかった。確かに、苦痛と快楽が非対称だという主張には、著者も書いている通り絶対的な根拠は与えられないだろうが、曲がりなりにもそのことを主張しているのだから、もう少しそこのところを詰めてもよかったように思う。特に、「存在」(というか、その反対の「存在しない」ということ)についてもうちょっと議論があってもよかったのでは。これについて私がちょっと考えたこと、本書を読んでいる間にずっと頭にちらついていたことをここに書いていきたいと思う。

まず、苦痛と快楽の非対称性を引用する。


(1)苦痛が存在しているのは悪い。
(2)快楽が存在しているのは良い。
(3)苦痛が存在していないことは良い。それは、たとえその良さを享受している人がいなくとも良いのだ。
(4)快楽が存在していないことは、こうした不在がその人にとって剥奪を意味する人がいない場合に限り、悪くない。


さて、(3)の意味するところは、(3a)もともとあった苦痛がなくなることはいいことだ。(3b)そもそも苦痛が存在していないこともいいことだ。ということだと、ここでは言い換えたい(厳密ではないかもしれないが、厳密にできない理由が、徐々に明らかになってくるだろう)。

次に(4)だが、それが意味するところは(4a)もともとあった快楽がなくなることは悪いことだ。(4b)そもそも快楽がないことは悪いことではない。ということになるだろう。そして本書では、(3b)と(4b)を考慮して、そもそも存在などしない方がいい、と主張するのである。

しかし、「存在しない方がいい」と言うが、誰が、あるいは何が存在しないということなのか? そこのところがはっきりしないのが、本書の歯がゆさであったのではないだろうか。「存在しない」ということ、つまり「無」はまず、何が存在しないかによって分類しなければならないと思う。というのも、そのことによって無の性質が全然違ったものになってしまうからである。すなわち、私(=全体、という意味での)が存在しない場合に言われる無と、その全体内で何かが存在しない場合に言われる無である。

まずは私の無から。自分が存在しないという状態は、絶対想像できないし、どういうものか理解することさえ不可能だろう。というのも、私が存在しないとはすべて(=全体)が存在しないということだが、しかし例えばその状態を想像や理解をしていたとしても、少なくともその想像や理解はあるということになり、つまりそれは「すべてが存在しない」ということと矛盾してしまい、やはりその想像や理解は不可能なのである。私の無とは「完全な無」である、がゆえに、全くわけのわからないものである。

しかしながら、『存在してしまうことの害悪』で「存在しない」という言葉が使われているとき、それは上の意味での「完全な無」を指しているわけではないようだ。というのも、本書は反出生主義の本なのだから、まずは私=全体がいて(あって)、その上でそこに新たに命を創造してよいものかを考えるべきだからである。というわけで、以下で見る「全体内で何かが存在しない場合に言われる無」が本書に直接関係があることのようだ。まず、それについて軽く見通しを立てておきたい。

私=全体がないことを「完全な無」と読んだことに対応して、「全体内で何かが存在しない場合に言われる無」を「部分的な無」と呼ぼう。そして、私が見たところ、言わばその強度に応じて「部分的な無」はさらに三種類の分けられる。すなわち「時空間関係での不在」と「概念関係での不在」と「私関係での不在」である。すべてが「無」ではなく「不在」に過ぎないことがまずは重要だ、と言っておこう。「不在」とは「なにかがあると前提された上で、それがない」ぐらいの意味だ。


無→完全な無
 ↘ 
  部分的な無→時空間関係での不在
       ↘
        概念関係での不在
       ↘
        私関係での不在


 まずは一番無の強度が弱いと思われる、あるものが「時空間関係での不在」であることの意味を説明したい。といっても、これはかなり単純である。要は、あるものがあそこにはあるがここにはないという意味での不在(空間関係)、あるものが以前はあったが今はないという意味での不在(時間関係)がそれである。このような意味で「無」あるいは「ない」という言葉が使われるとき、その意味するところは直ちに、容易に理解される。苦痛と快楽の非対称性でいうと、
(3a)もともとあった苦痛がなくなるのはいいことだ、
(4a)もともとあった快楽がなくなるのは悪いことだ
が「時空間関係での不在」と関連する。(3a)も(4a)も価値判断の正否は別にして、言っていることは容易に理解できる。

次は「概念関係での不在」である。これはいってみれば、次のような意味での不在だ。例えば「リンゴが(そもそも)ない」という言明があり、そして実際にリンゴがなかったとする。しかしそれでも、これは「リンゴの完全な無」を言い当ててはいないだろう。というのも、「リンゴ」という概念がまずは前提とされて、その上で「それが」ない、とされているだけだからである。これは以前として無ではなく不在である。「概念関係での不在」である。苦痛と快楽の非対称性でいうと、
(3b)そもそも苦痛が存在しないのはよいことだ
(4b)そもそも快楽が存在しないのは悪いことではない
と関係する話だ。たとえ「そもそも」ないと強調したところで、なにかがないのだから、その「なにか」はまず前提されなければならない。そうでなければ、なにがないかがわからない。しかし、それを前提としてしまえば、「そもそも存在していない」ということの(少なくとも完璧な)理解には達していないと言わざるを得ない。というわけで(3b)も(4b)も、価値判断部分もさることながら、実は起こっている事態(そもそも存在しないということ)からして我々に理解できるかどうかが怪しい。理解できている場合は、暗黙のうちに苦痛あるいは快楽(がある状態)がすでに前提されてしまっているだろう。そしてそれは「無」ではなく「(苦痛あるいは快楽の)不在」である。「概念関係での不在」にすぎないだろう。

しかし理解できない(思考できない)にしても、「なにかがそもそもない」という事態は「ある」のではないか、という気がしてくる。もちろんここでも思考の上では「ない」が「ある」に吸収されてしまっているのであるが、思考の外には、「なにかがそもそもない」ということが常に起きているような気がしないでもない(ここでもやはり、「思考の外」といいながらも、「ない」が「起きている」=「ある」に吸収されてしまっているのだが)。だから、「なにかがそもそもない」という事態をありうるのだ、と一応仮定してみる。すると、仮定としてではあるが実現されたその事態は「不在」ではなく「(完全な)無」だろうか。そうではないだろう。なぜなら「なにかがそもそもない」ということは私=全体という存在の内部でのことだからである。確かにそのなにかは完全にないのだが、それもまた私=全体の内部のことにすぎない、という意味で、それは「不在」にすぎない、よってこのことを「私関係での不在」と呼ぶ。(3b)や(4b)で言われていることをちゃんと考えたければ、実はこの「私関係での不在」との関連で思考しなければならないのだったが、しかし「私関係での不在」は思考不可能であることはすでに述べた。なので、(3b)や(4b)が思考可能な「概念関係での不在」のレベルにまで落ちて議論されることとなるが、それは妥当なことなのだろうか? 本書ではつまるところ、妥協して(?)そのレベルでの議論がされていたのだが、私が知りたかったのはそんなところではなかった。

ともあれ、まとめるとこうなるだろうーーなにかを存在させることがいいことか悪いことかという疑問以前に、なにかが存在しないこととすることを比べるということが出来るのかがまずよくわからない。出来ている時の「なにかが存在しない」は実は「概念関係での不在」レベルにすぎず、それは「なにかが存在しない」ということについて不徹底であって、徹底すると「なにかが存在しない」を「私関係での不在」レベルで思考しなければならないが、しかしそれは思考不可能なのであった。だから「概念関係での不在」レベルで満足しその水準で議論するか、それとも考えるのは無理だとして諦めるか、どちらかしかないのではないだろうか?

 

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪