しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『SUNNY 強い気持ち・強い愛』

SUNNY 強い気持ち・強い愛』を見た。傑作。面白かった。原作の韓国映画は昔に見たはずだが、覚えていない(楽しかったというのは覚えているが)。
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大根仁の前作『SCOOP』もかなり面白かったが、しかし今回はあのミソジニーじみたハードボイルドとは打って変わって、女性の活躍(?)しかない。バランスを取ったのかな、という気がしたが、もっと根本的な問題があるように思う。それは後に述べよう。

さて、開始早々10分ぐらいであろうか、あぁなんで俺はこんな映画見に来ちゃったんだろう、と私は一度後悔した。大量のコギャルがダサいJ-POPに合わせてギャーギャーギャーギャー……私の感性が求める心地よさと真っ向から対立するものが続々と画面に登場し、とどまることをしらない。おそらく、私のように序盤頭を抱え続けた人は少なくなかったはずである。

が、この映画、やっぱりとても面白いので結局は途中何回も泣き濡れてしまったほどだった、が、だからといって見終わった後に90年代的風物が好きになったかといえば、(最後にみんながダンスを踊るあの曲を含め)そんなことは全くない。そういう人もまた、私と同様に多かったのではないだろうか。そしてそのことが味噌である、と私は思う。どういうことか。

つまり、「中身など重要ではない」ということだ。ある人の青春時代が90年代だろうが2000年代だろうが戦中だろうが鎌倉時代だろうがゲームの中にしかなかろうが……そういう「中身」とは関係なく、人が老い、昔を懐かしみ、そして死んでいくという普遍的な「形式」にはやはり心動かされるものがあるということだ。この映画はほとんど形式において「のみ」美しく、感動的である。これは皮肉ではなく、完全な褒め言葉だ。キャラクターたちの青春時代を90年代に選んだのは、むしろあんなにやかましくて病的で空疎な時代「でも」振り返るとどうしても美しい、ということを強調するための、つまり「中身」ではなく「形式」を際立たせるための手法ではなかったか、と思われるほど、私はあの時代の「中身」と関係なしに、人が昔を懐かしむという「形式」に心を動かされていた。だから、登場人物が途中ちょっと非難を込めて「今の子たちはおとなしいよね、スマホばっかり見て」と言っていたのは完全な蛇足であった。なぜなら、自分たちもまた劣悪であった「にもかかわらず」やはり思い出すと儚く美しい、そのことがこの映画の肝でなければならないのだから(監督を含め、制作陣がどう思っているかは知らないが)。

この「中身よりも形式」というテーマはこの映画周りのあらゆるところで見られる。まず、この映画がリメイクであることが、つまり韓国でも日本でも時代や風俗が違っても、ほら、こんなに面白くなるということが「中身よりも形式」である(以前から感じていたことだが、そもそも韓国映画全般からして「中身よりも形式」性が強いように思う)。また、余命幾ばくもないSUNNYのメンバーがどうやら金持ちらしいが、彼女が何であんなに稼いだかはまるでわからないというのも「中身よりも形式」。二人の役者を異なる年齢の同一人物とみなすという映画的お決まりも観客に「中身よりも形式」を重んじるよう促す。監督の大根仁が「中身よりも形式」であるのは『SCOOP』から『SUNNY』という一見はちゃめちゃな価値観の変化を見れば明らかだ。つまり、端から価値観など(「なかった」とまでは言わないが)重要じゃなかったのであり、それよりもエンタメ(演出)という「形式」こそがこの監督にとって保たれるべきものであるらしい。そして、それは価値観という名の固定観念に支配されることに比べればよほど良いことなのだと私は言いたい(もっとも、価値観がない、という状態で固定されて、新たな固定観念に過ぎなくなるということは往々にしてあるわけで、それがエンタメ至上主義者のような人を生むのであろう)。

ちなみに、エンタメだから「中身がどうでもいい」というわけではない。むしろ逆である。一般にアートと呼ばれるものこそ、「形式」だけで成り立ちうるし、そういう純抽象的なものの方が「偉い」とされやすいことは周知のことだろうと思う。

 

SCOOP!

SCOOP!