しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

ドイツ語原書マラソン『はてしない物語』篇・途中経過

コロナで仕事がなく金がないこともあって、ゲームからは距離を置き(「見る」ことはあっても「やら」ない)、またドイツ語で読書を始めた。ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』である。ゲームから離れてファンタジー不足気味だったので、面白く読んでいる。

 

はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー)
 

 

Die unendliche Geschichte (German Edition)

Die unendliche Geschichte (German Edition)

 

 

ドイツ語のレベルに関して言えば、構文レベルでの難しさはないものの、情景描写や人物描写における語彙がかなり豊富なので、その点で結構骨が折れる。

内容については今の時点(約500ページ中180ページぐらい読んだ)で言えることはあまりないが、気になることが2つほど。

まず一つに、この話は現実世界と本の中の世界とが並列に語られ、おそらくこれからその2つが本格的に交わるという展開になるのであろうが、その劇中の本と読者が現実に手にしている本の装填が同じものになっている。つまり劇中の主人公の少年が読んでいる本と我々が読んでいる本が同じであるかのような工夫なのだが、これは(最後まで読んでいないから断言できないが)うまくいっていないのではないか(うまくいきようがないのではないか)。というのも、劇中の少年が読んでいる本には、我々が現に読んでいる方の本のようには「少年が本を読んでいる」等々の描写が描かれているはずがなく、ということはやはりどこまでいっても劇中の少年と我々読者が読む本は違うということになるからである。もし仮に少年自身が自身の行動をも本の中で読んでいたとしたら、これは大変なことになる。というのも、自身の行動がちゃんと本で書かれるためには、自身の行動が書かれるだけではだめで、「自身の行動が本の中に書かれているのを読んだ」という行動も書かれなけれならないが、しかし今度は、「「自身の行動が本の中に書かれているのを読んだ」を読んだ」と付け加えていかなければならなくなる、という意味で「はてしない物語」になってしまう。この知見が物語に上手く応用されていたら本作はとんでもない傑作だと認めざるを得なくなるわけだが、さて。先が楽しみだ。もっとも、ただ単に全てが終わったあとに(少年の冒険が終わったあとに)、なぜか本に少年の話が付け加わっていた、という展開すればいいだけかもしれない。そうすれば少年の本と我々の本は同じものになる。(しかし、事後的の場合はなぜ矛盾しないのだろうか?)

もう一つ気になったのは、作者のエンデはどうやら「嘘」と「物語」の2つを区別したいようだ、という点である。それがわかるのは、本の中の世界(ファンタージエン)の危機(消失)が、現実世界で人々が吐きまくる嘘や現実世界の人々のファンタージエンの忘却に関連している、という設定である。しかし、これは私には無理筋のように思われる。もし人々が嘘をつけなくなれば、物語もまた消えるであろうから。

とはいえ、きっと残りの300ページをドイツ語で読めると思えるくらいには楽しんでいる。ちなみに、英語ではアイザック・アシモフの『ファウンデーション』マラソンに挑戦するつもりだ。