しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

「女のくせにゲームなんかやって……」は差別か

最近、「女のくせにゲームなんかやって」と言われて傷ついた、的なことを色々なところで読んだり聞いたりした。傷つく気持ちもわかるが、これが差別だと言われると、なんか違和感があった。もちろん、「女のくせにゲームなんかやって」が一般的に差別的発言だと思われる理由はわかっている。その発言が女性の自由を制限するようなものだからだ。それぐらいわかっているのだが、しかし私がどうして「女のくせにゲームなんかやって」を差別発言として取りにくいと考えているかといえば、それはゲームを「よいもの」と(必ずしも)考えていないからだろう。

「女のくせにゲームなんかやって」という発言が前提にしているのは、「女性は普通ゲームをやらない」という固定観念である。そしてもしゲームが「よいもの」ではないのだとしたら、女性に対するその固定観念(イメージ)はネガティブなものではなくポジティブなものであり、「差別的」ではないと言っていいはずだ。なぜなら、「よくないもの」をやらないことは「よいこと」なのだから(少なくともそう言って間違いじゃないだろう)。ということは、固定観念それ自体が悪いものと見なされず、なおかつゲームが「よいもの」と見なされないのなら、「女のくせにゲームなんかやって」は差別発言ではない。例えば「女のくせに殺人なんかして」という文について考えればこのことがはっきりするのではないだろうか。この文は「女性は殺人をあまりしない」という固定観念を前提にしており、「女性は殺人をあまりしない」は明らかにいいイメージである。

もちろん「男のくせに……」の場合も事情は同じだ。例えば「男のくせにダラダラとショッピングして」という文は、「男性はダラダラとショッピングしない」という固定観念を前提にしており、それは男性に対してのいいイメージを語っているのだから、男性に対する差別発言と考えるのは(一面では)変だと言えるはずだ。

まとめると、「AのくせにB」と言われるとき、Bが「よくないこと」であるのなら、「AのくせにB」は差別発言とは言い難い、ということになる。逆にBが「よいこと」ならほぼ確実に差別発言だ。例えば「女なのに頭がいい」は間違いなく差別だろう。

とはいえ、「AのくせにB」全てを差別発言と見なすことももちろん可能だ。すでに上に示唆されていたように、固定観念それ自体を悪とするか、あるいは同じことだが、「AのくせにB」はAの自由を侵害すると訴えればいいのである。とはいえ、実はこれは途方もない話だと思う。固定観念なしに何かについて語るなんてとてつもなく面倒なことを、差別廃止論者が望んでいるとは思えないし、可能だとも思えない。