しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『AI崩壊』

入江悠監督なので『AI崩壊』見てきた。タイトルがダサ過ぎるけど(『新幹線大爆破』的なノリなのだろうが。。)、結構良かったと思う。


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とはいえ、この手の「スーパーIT技術飽和映画」の宿命としてのバカっぽさから逃れることは出来ていなかったが。つまり、パソコンでハッキングしたとか何とか言えば何でも出来てしまう世界観では、真面目に見る気が失せるということである。そして、そうだからといって、例えばそのハッキングの仕組みなんかを仮に説明されたとしても、大抵の観客は知識不足なのでやはり意味がわからないということになる。だから、映画の作劇においては情報技術・端末は取扱超危険なのだ(にもかかわらず、現代が舞台のエンタメ映画では扱わざるを得ない!)。この点でうまく行ってる映画を見たことがない。

その他、色々とAI周りで言いたいことが結構あったのだが、まぁあんまり真剣に考えずにロボット反乱ものだと思って楽しめばいいし、それができるぐらいのクオリティはある。それよりも私が(良くも悪くも)気になったのは、入江悠監督のベタな演出やストーリーテリングである。『22年目の告白』でも気になったのだが(いや、彼の作品全てで気になるのだが)、わかりやすい回想シーンをふんだんに放り込んでくるあたりなどからわかるように、洗練された映画にする気はないらしい。大予算映画だからそうするよう横槍が入ったとも考えられるし、洗練されていないところの一部は確かにそのせいだったりするのだろうが、それよりも「泥臭い」ことが好きな監督の資質によるところが大きいのだと思われる。

別に「泥臭い」ことが悪いわけではないが、私がシーンごとにちょこちょこ気になってしまったのは「あえて」泥臭くしているようには見えないことであった。つまり、直球で泥臭いのである。しかし、だからと言って、「監督が意識的に泥臭くしているのではなく、無意識的にそうしてしまっている」ということにもならないことに注意されたい。なぜなら、「「あえて泥臭くしている」感じをあえて出さない」ということが考えられるのだから。そして入江監督はそっちを「(あえて)選んでいる」と私は思うし、その選択は結構素晴らしいと思うのだが、ここで問題が浮上する。なぜなら、ともあれ映画からは「あえて」感が消えてしまっているのだから、入江監督の「あえて」の存在を私が推定できる余地が実は映画内にはないからである。監督の「あえて」を私が推定したのは、彼が「サイタマノラッパー」という素晴らしい作品を撮った人だということや彼の諸々の発言などを私が知っていたからに過ぎず、この映画外にあるそれらの情報を知らない人にとっては、『AI崩壊』はただ泥臭く見えてしまう危険性があるし、そう思ってしまう人を批判することはできない。それでもじゃあ、例えば「バカ映画をバカ映画だと知ってて作っている監督の視線が透けて見えるからこそ面白いバカ映画」というようなものの方が偉いのかと言えば、そういうわけでもあるまい。