しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『ハウス・ジャック・ビルト』

ラース・フォン・トリアー監督最新作『ハウス・ジャック・ビルト』を見た。なんと、途中退席してしまった(ある意味、とてもいい客)!
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たぶん、映画を見る前にしこたまご飯を食べたのと、最前列で見たために常に顔をあげていなければならなかったからだろうと思うが、画面上で繰り広げられるひどい事態をずっと見ていたら気持ち悪くなってきてしまい、本当に吐きそうだったので途中退席。具体的に言うと、主人公が子どもとその母親を殺す場面がかなりきつく、そしてその後に主人公が愛する女と一緒にいる場面で、おそらくその女も殺されるであろうということが、具体的な殺し方も含めて想像されてしまって画面を正視できなくなってしまった。

ちょっと前までだったら、私はこの手の露悪的な映画を見てもここまで気分が悪くなることもなかったし、むしろ「私もまたこの映画の主人公と似たようなものなのだ。人間とは底知れないのだ。自分の中の悪に気づかない者こそが、このような映画の存在そのものを否定するという愚行に走る」といったようなことを嘯いていたに違いないが、今はそんなことは思わないので、ただ単に気持ち悪くなったいう次第。正義感というか倫理観の強い人は一般的に共感力が強い人だと思うが、この手の露悪的な芸術映画を称賛する人というのも、そのような人々だろうと思う(少なくとも、一部の人はそうだろう)。どうしてそのような皮肉な事態になるのかといえば、そのような人々は悪人に対して過剰に共感・同情し、自分も彼と同じなのだ、ほら、だって現に俺はこんな醜悪な映画を笑いながら楽しんでいるじゃないか、といったようなことを言い出したがるからだろう。私も昔はそのように考えていたが、今は正義や倫理を対してはどうでもいいという気持ちが強く、ゆえに他人と自分が同じなのだなどとわざわざ考えなくなったので、逆にこのような露悪的な映画を「楽しめ」なくなってしまったらしい。これもなんだが皮肉なことのように思われる。私は端的にこの殺人鬼とは違うのである。

とはいえ私には、このような映画が作られるべきではない、とかいうことを主張するつもり毛頭ない。私にとってはこのような映画はもう必要ないようだが、映画は、というか芸術は、自分がそれを作ったのだ、という事実に最大の意味がある(というか、実はそこにしか意味がない)ように思われるので、本当はラース・フォン・トリアーがよければそれでよいのだろう。観客を楽しませなきゃ、とか、観客に認められなきゃ、みたいなことは、現実的な観点から見れば確かにかなり重要だろうが、「本当のところは」どうでもいいのではないだろうか。最後まで見ることはできなかったが、『ハウス・ジャック・ビルト』はそのようなメッセージの作品ではなかったのではないか、と疑っているのだが、さて……。