しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『存在してしまうことの害悪』について、その2

前回の記事(「無」の種類(『生まれてこない方が良かったーー存在してしまうことの害悪』について) - しゅばいん・げはぷと)で私は、存在と無の比較というものは、実はできるようでできないのではないか、あるいは、できるかできないのかもよくわからないのではないか、という結論に達したわけだが、しかしそもそも子どもを生むということと生まないということは、存在と無の対立なのだろうか?

つまり、こういうことだ。物理主義的に考えると、子どもが存在するようになるとは無から子どもが存在するようになるということではない(質量保存の法則に反する)。そうではなくて、すでに世界に存在する諸々の物質が分解なり再結合なりして子どもになる、ということだろう。そのとき、物質は形を変えたとはいえ、この変化は有→有という流れに過ぎない。ちなみにこれは、前回の記事で私が設定した「私関係での不在」における有からの逃れ難さとは異なる。「私関係の不在」というのを簡単に説明すると次のようになる。なにかが(絶対的に)存在しない状態というのは思考も想像も不可能だが、しかしまぁともあれ「なにかが(絶対的に)存在しない」ということがあると仮定しても、それでもその「なにかが存在しない」は「無」ではない。というのも、その「なにかが存在しない」は私(=全体、という意味での)という存在の内部のことにすぎないのだから、それは「無」というよりか(「有」を前提としているという意味で)「不在」と呼ばれるに相応しい。そのような「不在」のことを私は「私関係での不在」と呼んだのだった。これもまたある意味で「有でしかあり得ない」ということなので、上の物理主義的な子どもの生誕に関する見解と同じであるといえそうだが、そうではない。「私関係の不在」レベルで子どもが存在していないことを考えるとき、その子どもは本当に、絶対的に存在していないのであるが、にもかかわらず、そのこと自体は私という存在(有)の内部で起こっている過ぎないので無ではないという筋道になろう。一方物理主義的な考え方では、「子どもが存在しない」という状態そのものが否定されている。少なくとも子どもの構成要素はずっとあったのであるから、子どもは「存在しない」から「存在する」に移ったわけではない、という話になる。そしてこの話は(ある意味で)正しいだろう。とすると、「子どもを生むのは道徳的にどうなのか」という問いは、「子どもを存在させるのは道徳的にどうなのか」という問いではなく、「非意識的物質郡を(苦痛、快楽等を感じる)意識的物質集合体に作り替えるのは道徳的にどうなのか」といったような問いへと変換させるのが妥当だということなるのだろうか。しかし、そう単純に行かない。なぜなら、ここに「意識」というワードが入ってきてしまっったからである。意識はどこから来たのか?

私はこれまで、「私=全体」などと書いてきたが、これはもちろん永井均の〈私〉の一側面を(ここでの話に都合のいいところを、恐る恐る)すくいとった表現だった(少なくともそのつもりだった)。その一側面とは「これが実はすべてで、これしかなく、これがなければすべてがないのと同じで、他に並び立つものがない」という意味での私のことだ。現実には私とはこの私しかなく、それがすべてである。しかし、「現実には私とはこの私しかなく、それがすべてである」ならば、他にそのような〈私〉はあり得ないわけだが、しかしそのような〈私〉自体が概念化されて(現実が「現実という概念」に過ぎないものにされて、〈私〉が《私》にされて)他者に《私》が振り分けられるようになる。いや、というよりも、《私》のない他者というものを理解することは無理(?)なので、他者というものの理解のうちに《私》がすでに入っていないといけないというべきか。ともあれ、この《私》というものが(他者の)「意識」という概念の由来なのだとここでは考えたい。(このことについてもっと精緻に考えたいなら、永井均の諸著作(例えば『なぜ意識は実在しないのか』や『世界の独在論的存在構造』)辺りを読むしかないだろう。)

というわけで、話をもとに戻すと、「子どもを生むのは道徳的にどうなのか」という問いを「非意識的物質郡を(苦痛、快楽等を感じる)意識的物質集合体に作り替えるのは道徳的にどうなのか」という一見「有→有」の図式に見える問いへと置き換えたとしても、実は「無→有」の構図は崩すことはできない。なぜなら、意識は無から有になったからである。そして、その「意識」の由来は《私》で、そして《私》の意味内容は〈私〉と同じで「私=全体」ということだから、「意識がない」ということを考えるためには「全体(すべて)がない」ということを考えなければならず、そして「全体(すべて)がない」ということは考えられない。だから、「非意識的物質郡を(苦痛、快楽等を感じる)意識的物質集合体に作り替えるのは道徳的にどうなのか」といってみたところで、なんにも解決しないのである

 

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪