しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『アベンジャーズ/エンドゲーム』

アベンジャーズ/エンドゲーム』を見た。うん、面白い!
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とはいえ、私のアメコミ映画に対するスタンスがちょっと歪んでいるのは否定できない。というのも、私は最近真面目な(というかリアリスティックな)映画にまるで興味がなくなり、むしろ「無意味な」映画こそ楽しめるようになって、私にとってアメコミ映画はその「無意味な」映画の一つにカテゴライズされているからだ。とはいえ、ここで「無意味な映画」というのは「映画という嘘を、嘘であることをもはや包み隠さずに提示する類の映画」という意味なので、ある意味で正直な映画といえるのだ(アメコミなど、嘘以外の何物でもないだろう。そして、それでいいのだ、もともと映画は嘘なのだから)。逆に「真面目な映画」とは「映画という嘘を嘘以上のものだと見せる類の映画」なので、こちらの方がある意味で不誠実とも言える(ただし、最も優れた映画は、最も「真面目な映画」ではあろうが)。ともあれ、マーベル映画は無意味だからこそ楽しいと思って(全部ではないが)見てきた。そしてついに『エンドゲーム』である。泣いてしまった。

前作『インフィニティ・ウォー』のラストで、「無差別に」ヒーローたち初め全生命体の半分が消滅させられたわけだが、もちろん「無差別に」などあり得ない。ファーストアベンジャーズばかりが残ったから無差別ではないぞ、といいたいわけではなく、誰が残ろうと「無差別」など構造上あり得ない。というのも、映画には作り手がいることを私達は知っているからで、いくら「無差別」と言われようがそこに製作者の意図を見てしまうのは避けられない。

映画で「偶然」を感じさせるのはかなり難しい(ウディ・アレンの『マッチポイント』におけるような、シニカルなメッセージを伝えるために用いる偶然ならば話は別だが)。そこが現実とは決定的に違うところだ。現実では、例えば神などを設定すれば全ての出来事を神の意図だととることも出来ようが、そんな設定をしなければ、全ては偶然だ、と言っても別に何の違和感もなく、むしろ自然であり、そして偶然起こったことに我々はしばしば驚愕するのである。対して映画で「偶然」に驚愕することは基本ない。というのも、そもそも全ては製作者の意図の現れだと我々は知っているからである。だから、『インフィニティ・ウォー』でのあの「無差別に」というやつは、映画としては完全な「悪手」だったのであり(そのことをちゃんと指摘したレビューを見た覚えがないのが不思議だ)、普通ならかなりの減点ポイントとなったはずだが、そうは(あまり)ならなかったのはもちろん、アメコミ映画というものが、観客が嘘から嘘以上を期待しないで享受できる類のエンターテイメントだからである。ましてや、『アベンジャーズ』のような「お祭り」映画では尚更だろう。

さて、今作『エンドゲーム』で私は何ヶ所かで涙してしまったが、しかし、やはりそもそもが大味なファンタジーのごった煮なのでストーリーに論理的納得感を与えるのは不可能で、物語の展開にはどうしても製作者の意図と(我々の欲望を踏まえた上での)戦略が見え隠れしてしまう。でも、嘘から嘘以上を期待しないで楽しめている方には、そんなことは何の問題にもならないのであろう。