しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『THE GUILTY/ギルティ』は相当よい(し、重い)

『THE GUILTY/ギルティ』を見たが、傑作だと思った。
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映画のタイトル通り「罪」を巡る物語だが、これがかなりよくできている。恐るべきことに、罪の起源まで観客にわからせてしまう。キーワードはもちろん「蛇」である。

『ギルティ』という題で、「蛇」と来れば、当然旧約聖書の創世記におけるあの、人(女)を唆して知恵の実を食べるよう仕向けた蛇のことが当然頭をよぎる。人はこの罪のために神により天国を追放されたのだった。ところで、なぜ知恵の実を食べることが罪だったのだろうか? 今作にはその答えを直感的にわからせてしまう仕掛けがある。すなわち、映像がほぼ代わり映えしない中で、様々なところにいる様々な人々との電話を介した会話のみによるストーリーテーリングがそれである。

この映画を見るとき、我々は画面に映っていないものを絶えず見ている自分を発見するだろう。電話の相手が語ることによって知らず知らずのうちに私達はあの電話番の部屋(「ここ」)を飛び出して、画面には映っていない「そこ」で何が起こっているのかを想像してしまう。「言葉(=知恵)」が我々を「ここではないどこか」や「今ではないいつか」へと、あるいは全き「想像」へと駆り立てるのだ。ここに罪(の原型)がある。

どうしてそれが罪(の原型)かといえば、それはこの映画の二人の主人公がしたことを考えると一目瞭然だろう。女は暴走した想像力(=妄想)に駆り立てられて自分の子供を殺し、男は「ここではないどこか」に憧れて軽犯罪者を射殺した。どちらも「今ここ」に充足できていれば起き得ないことだった。しかし、私達は言語的存在でもあるので、「ここではない」「今ではない」「現実ではない」ことを想像・想定してしまい(罪)、結果それが全てであるはずの「今ここ」が単なる否定性の反対項に堕してしまい、常に不満足であり続けるのだ(罰)。