しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

瞑想本紹介

マインドフルネス瞑想についての中々おすすめの「参考書」、それがこれ↓

〈目覚め〉への3つのステップ: マインドフルネスを生活に生かす実践

〈目覚め〉への3つのステップ: マインドフルネスを生活に生かす実践

 

この同じ著者(ラリー・ローゼンバーグ)の前作、『呼吸による癒やし』にも実はほとんど特定の瞑想メソッドへの強制がなかったが、本書はそちらの方向を更に強化した一冊である。「そちらの方向」とは、呼吸を見る、そして使うというのを別にすれば、メソッドは自分に合うものなら何でもよく、とにかく空(くう)だとか無我状態に至ることが奨励される、という方向のことである。ほとんどメソッド抜きだから初心者向きの本ではないとの向きもあるようだが、私はそうは思わなかった。前作『呼吸〜』ではまだはっきりしていなかった「細かいことなどどうでもいい」という点がクリアに提示されていて、むしろ瞑想するときに要らぬ心配、例えばこれは「正しい方法なのだろうか」などと思わなくて済む。そういう方法も自らが探求していけばいいのだ。大事なのは「呼吸を見る、使う、そして最後にはそれすら手放す」という点に尽きている。

ところで、以上の説明が正しいのだとすれば、本書は結果のためなら手法は何でもよいという点で「結果主義」と言えそうだ。しかし普通の結果主義と違うのはその目指される結果の内容が「結果などを求めず、ただその時を味わう」ことだという点である。つまり本書は、結果などを求めない状態(結果)を得るためには手段を選ばない結果主義的本、ということになる。しかし、この本は本当に結果主義なのだろうか。二つの考え方が考えられる。

(1)いくら求めていることが「求めない」ことであっても、全体の構造としては依然として「求めている」のだから、結果主義である、という主張。

(2)確かに「求めている」が、それが手に入ったとしたら求めていることが消えているということだから、結果的には「求めていない」ので、結果主義ではない、という主張。

この捻れは、本書においては(本書で使われている通りの言葉ではないが)「本当の自己を見つける」ことと「無我に至る」ことの両方が称賛されているところに現れているのだろうと思う。当然、「本当の自己を見つける」ことは求めることなのだからその称賛の背景には(1)のような考え方があり、「無我に至る(我を消す)」ことは今は実現できていようはずもないのだから(出来ていたらどうして思考している?)その称賛の背景には(2)のような結果先取りの考え方がある。前者は経験があるときはそれを経験する主体は絶対にあるという考え方であり、後者は、にしても、どういうわけか結果的には主体は消せるという考え方である。主体が消えたとしても消えたことを経験しているのなら、そこにはなおそれを経験している主体があるということだから、(1)の方が分がいいように思われるが、真相は(a)「消えずに残り、経験する(だけの)主体」と(b)「消すことができる主体」とでは指しているものが違う、ということだろう。ここでの議論では(b)は(2)から派生した主体概念なわけだが、そもそも(2)は結果先取り的な、言い換えれば(まだ、実現していない)空想的なお話であった。であるならば、(b)を消すことができるのは、ある意味当然かもしれない。しかしもちろん、実際は最初に(b)があり、それが(2)のような考えを生み、それがさらに(b)を強化し……という円環があるのかもしれない。

ところで、瞑想の果てに(a)さえなくなってもいいのでは、との声もあるかもしれないが、それはつまり経験の主体が何もないということだから、(夢のないときの)眠りのようなものだろう。それは考えても想像できるものではないが、ともあれ寝ているときにいつも起こっていることなのだから、他の手段で殊更求めることでもないだろう、というのが一応の回答になりそうである。

色々書いてしまったが、結局『仏教3.0を哲学する』(の永井均の発言箇所)を読むのが、この辺りのことをすっきりさせる上では一番なのだが……

 

〈仏教3.0〉を哲学する

〈仏教3.0〉を哲学する

 

 

呼吸による癒し―実践ヴィパッサナー瞑想

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