しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

vs.『欲望会議』〜この本は自己批判して(しまって)いるか〜

『欲望会議』(千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里)を読んだ。思うところがあるので、ちょっと感想(というか批判)を書いてみようと思う(とはいえ、最初から軽いものを読む気持ちで読んだのだから、文句を言う必要、または権利さえ実は全くないのだが……)。

 

欲望会議 「超」ポリコレ宣言

欲望会議 「超」ポリコレ宣言

 

 

本書の三人の著者の思考の基本姿勢は、次のようなものになるのだろう。つまり:

人には無意識があり、それをきちんと受け止めることが大切である

という実は(今や?)常識的すぎる考え方である。「無意識」というのも、別に学問的に厳密な意味で使われているわけではなく(たとえそう使われていたとしても、だからどうしたという話だが)、ごくごくざっくりした意味での「無意識」、つまり「自分では容易に探ることの出来ず、しかし確実に自分に影響を与えている、自分の心の中にある知識や経験などのプール」とでもいったイメージのことだと思っていい。二村ヒトシの言う「傷」なども、この意味での無意識のうちに入るであろう(このテキトーさの問題も、後に指摘する)。

もし本書に貫かれているこの基本姿勢が常識的でないとしたら、それはその後半部分、つまり「それ(無意識)をきちんと受け止めることが大切である」というところであろう。というのも、まさにそれをきちんと受け止めていない人々が(今や?)たくさんいることをこの本は問題視して批判しているのだから。「無意識をきちんと受け止めていない人」として本書では例えば、本当は自分の傷の苦しみの解消することだけが目的なのに(あるいは逆に傷の苦しみという快楽を味わうのだけが目的なのに)正しさを振りかざして誰かを攻撃しているポリコレ野郎や安易な#MeToo女などがやり玉に挙げられている。というか、もちろん「無意識をきちんと受け止めていない」ことだけで誰かを非難することは難しいので、無意識ときちんと向き合っていない人は「弱い(強くない)」し、社会に害悪をもたらすとされ批判されている。その上で無意識と向き合って「強くなる」ことが奨励されている。

以上が、私のなりの本書の要約である(精確ではないと思うが、そもそも本書全体が精確ではなく、読者にざっくり理解するよう促していると思う)。まず最初に私が引っかかるのが、そもそも「無」意識なのだから、無意識が「ある」とはどういうことを言っているのか実はよくわからない、というそもそも論。無意識などと言わず、実は、二村ヒトシが言うところの「傷」とかニーチェが言うところの「ルサンチマン」程度の言葉で抑えておくほうがかえっていいのではないか。「傷」や「ルサンチマン」は「ある」からである(というと、無意識のレベルでは実はそういうことではないのだ、とか話が転がるのだろうが……)。ただしこの問題は、何かを論じるなら何か確実なものを「設定」しそこから出発しなければならないというそもそもある一般的な問題の一種で、その「設定」が本書では「無意識」だった、それだけのことであって、目くじらを立てることではないかもしれない。もしそのこと(「設定」)を批判するのだとしたら、この世のほとんど全ての本(ただし「全ての本」ではない)を同じ理由で批判しなければならなくなるだろうから。

ということにしても、さて、無意識があるとしたら、それとちゃんと向き合っていないことは確かに「弱い」ことかもしれないが、しかしそもそもどうして強くなければならないのだろうか? それは害悪だから? しかし、そもそもなぜ害悪であってはならないのか? もちろんこの種の問いに対しては究極的には答えられない。答えられた答えに対して、さらにその根拠を問う、という流れが繰り返され、終わらないからである。そして私が言いたいのは、むしろこのような無根拠性(根拠の答えられなさ)を見えなくするためにこそ、「無意識」などという神秘的な言葉が持ち出されたのではないか、ということだ。千葉雅也は本書の中で、人は(時に)全き偶然性に耐えられず物語を捏造する、というようなことを言っているが、それを言うなら本書の中での「無意識」は本書の主張の無根拠性に耐えられず持ち出された概念に過ぎないんじゃないか?(千葉雅也はそれも認めるのだろうと思う。だったら持ち出さないでほしいが)

また、本書を読んでいてバカバカしくなっていくのは、議論の深め方が多くの場合「連想ゲーム」ないし「言葉の置き換えゲーム」にすぎないから全然議論が深まっておらず、実のところとても常識的でしかも同じ意見を言葉だけを変えて永遠と述べ続けているだけだからだ。「連想ゲーム」ないし「言葉の置き換えゲーム」とは、本書の中の一番下らない例で言うと(千葉雅也本人が「あまりに突飛」だとエクスキューズしてはいるが)、次のような「話芸」である。「『ゆらぎ荘の幽奈』という漫画で、偶然の水の噴射で女性が裸になるというラッキースケベが描かれているが、ラッキースケベというのは責任が問えないものですよね、ところで、原発事故もまた水と関係しているが、それもまた実のところは誰かのせいというより偶然という要素が大きいのだから実は責任が取れないものですよね、ということで、この2つの事例(『ゆらぎ荘幽奈』と原発事故)は関係しているのではないでしょうか」……無意味だし、無益だろう。私にはこういう話芸は端的に言ってバカバカしく感じられる(バカバカしく感じていい前提なら、時に面白くも感じられようが)。ここまでひどいものではなくても、すでに述べたように「傷」と「無意識」を置き換えても話が成立しそうな感じや、柴田英里が震災の「偶然性と暴力性、非対称的で「わかりあうこと」など到底できない圧倒的なものの快感と不快感」のことを、震災の「エロさ」と言い換えていたりするところなどは、何かを言っているように見えて、何も言っていないに等しいと思った。地震のヤバさとセックスのヤバさは違う、当たり前のことではないだろうか? もしその2つのヤバさが同じだと言い張るなら、物事の差異を無視してクソも味噌もポリコレ違反だと断罪するPC野郎の批判などしても説得力がない。柴田英里もPC野郎も記号(言葉)に引っ張られて、同じだの似ているだのと言ってるだけだからである。本書全体へと拡大して言うなら、ツイッターフェミニズムなど安易な連帯を三人は批判しているが、その三人のそれぞれの主義主張やその時使われる概念(例えば「無意識」や「傷」や「エロさ」など)自体もまた他の概念と安易に交換可能なものとして扱われ、つまりただの記号として扱われ、しかもそのことによって三人はある程度の共感を得ているのであるから、彼らが批判しているところの安易な連帯と大した違いはないことになる。

とはいえ、最後に本書でいいところを特に1つ上げるとしたら、それも柴田英里の発言であった。彼女は一貫して、ある種の女性がテキストに過ぎないもの(わかりやすい例で言えば、物語の登場人物や赤の他人であるポルノ女優など)と安易に同一化して感情的になって誰か・何かを攻撃し始めることを批判している。この種の批判は正当だろうと思う、というか、(フェミニズムに限らず)大体の問題というのはこれに尽きるだろうと思う。しかし突き詰めて考えると、実はこれはフェミニズムも破壊してしまう。というのも、フェミニストを名乗るにはまずは自分を「女性」あるいは「女性を応援する男」というテキスト(記号)に過ぎないものと同一視、とまでは言わなくとも、自分をその枠の中に閉じ込めなければならないのだから、フェミニズムはまさに柴田によって批判されているところのもののはずだ。私は私であって他の何かではない、というのが柴田英里の主張のはずだが、それはフェミニズムになり得ない、のではないだろうか。そしてそれでいいのではないだろうか。