しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『へレディタリー/継承』が怖くない理由

大評判だったので『へレディタリー/継承』をかなり楽しみにして見に行った。面白くなくはなかったが、怖くはなかった。
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そう、面白かったとは言っていい。前半に起きる惨事からの一連の展開は、はっきりと最悪である(という形で面白い)。しかし、ホラー映画としては、つまり怖さという面では半端であったと言わざるを得ない。その理由は、「この世界はこの映画に描かれているようなものではない」からである。

繰り返そう。「この世界はこの映画に描かれているようなものではない」。もちろんこれは、この現実世界には超常現象などない、などということを主張するものではない。ホラー映画を見に行っておいてそんなことを主張するほど私はバカではない。私が言いたいのは、私たちが持つ恐怖という感情(の内、最も激しいもの)は、この映画で描かれている世界観からは決して導かれないということだ。順に説明しよう。

さて、そもそもどうして世界は「こう」なのだろうか? そういう問いに対する様々な答えがここでいう世界観である。ところで、この問いにはそもそも答えることができない。というのも、例えば科学主義的な世界観の人が自然法則が世界をこうしているのだ、と答えたとする。しかしこの時さらに、ではなぜ自然法則法則はそうなっているのか、と問われたならば、万事休す、ただ「そうなっている」からだ、と繰り返すことしかできず、理由はわからないということになる。いや、神が自然法則をそのようなものとして作ったのだ、神が全ての原因(理由)なのだ、と言ってみたところで、じゃあその神はどうやって出来たのだ、と問われれば万事休す、ただいるのだ、と繰り返すことしかできない。もちろん、その神を作った神がいるのだ、と言ってみたところで、じゃあ神を作ったその神はどうしているのだと問われれば、万事休す、神を作った神を作った神をまた想定せざるを得ず……といった具合に無限後退に陥ってしまう。逆に言うと、この不可避的な無限後退を覆い隠すのが、(この文脈では)神なのだ。それでは、その覆いがとれてしまった「不可避的な無限後退」とは何なのか。

「不可避的な」ということなのだから、「無限後退」は理屈で考えればそれに至らざるを得ないということである。しかしだからといってそれは、私たちが知りたかったもの(この世界の根源的理由)自体が理屈でわかったことを意味しない。わかったのは、無限後退によって阻害されるので「それ(この世界の根源的理由)は絶対にわからない」ということである。「絶対にわからない」とわかったのだ。

「絶対にわからないことがある」ということはわかった。さて、このことをどう評価すべきだろうか? 絶対にわからないこととは「この世界の根源的理由」のことであるが、それは絶対にわからないのだから、そもそもそれがあるのかないのかさえ不明である、というか、「ある」とか「ない」とか「理由」とか、そういった言葉で表現出来るのかさえ不明である、とさえ言えるかもしれない。であるならば、およそ「評価」など実は無駄であろう。

しかし、おそらく私たちはそれを評価せずにはいられない質なのだ(評価せずいることも可能ではあると思うが)。そしておそらく「絶対にわからないこと」(あるいは「絶対にわからないという事態」)をプラスに評価した時に「奇跡」や「驚嘆」などの表現が、マイナスに表現した時に「不条理」や「不安」などの表現が使われることになる。ここでようやく本題に戻るが、私は、恐怖の感覚(の内、最も激しいもの)が後者に根ざしている、と主張したいのである。

本作『へレディタリー』で私の一番の不満点は、「絶対にわからないこと」自体はそもそも描くことができないにしても(描けたらわかったことになってしまう)、それの評価に過ぎない「不条理」「不安」にさえ本作は達していなかった、ゆえに怖くなかったことだ。それもそのはずで、世界観が「神レベル」だったからである。もう少し正確に言うと、全ては悪魔(崇拝)のなせる技だったわけだが、結局のところそれは「神がいるという世界観」に他ならない。これまで説明してきたように、「神レベル」を超えて無限後退のレベルに一度は至らなければ、恐怖の源泉である不条理や不安にたどり着けない。ラストのがっかり感は以上の理由によるのだった。つまり、「うまくまとまる」ことへのがっかり感。本作の、それだけ見れば美点であるはずの「よく練られた」脚本や「美麗な」ビジュアルもまた、「うまくまとまる」方向を強く印象づけてしまった。