しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

永井均の新刊を(頑張って)読んだ!

 

世界の独在論的存在構造: 哲学探究2 (哲学探究 2)

世界の独在論的存在構造: 哲学探究2 (哲学探究 2)

 

 

永井均の新刊の『世界の独在論的存在構造 哲学探求2』を読んだ(それにしても、冗談みたいに哲学っぽい書名だ)。まるで〈私〉を忘れないために、それを忘れさせようと働く構造(例の累進構造だが)の説明を何回も何回も(しつこいと言っていいぐらい)しているようであった。説明するというのはもちろん言葉を使ってだが、言葉そのものが累進構造の原因でもあり結果でもあるらしいから、それも致し方ないのだろう。「現実の〈私〉」は私だけのはずなのに、次の瞬間には「現実の〈私〉」という概念にすぎないもの(=《私》)なって「誰にでも」当てはまるという事態になる。しかし、やはり現実にはこの私しか〈私〉ではない! ということを確認することでただの概念にすぎない《私》を振り切ることができるのだが、しかしそうやって振り切るような事態もまた「誰にでも」起こり得て、ここでもまた概念にすぎないものに追いつかれてしまう。つまり中身(本質)は変わらないのだが、「現実に」それであるということ(実存)の点でだけ〈私〉は《私》と違う。現実に私だけが〈私〉であると主張しても客観的に認められる可能性はないであろうから(みんながみんな自分が〈私〉であると言うだろうから)、私が〈私〉であるという事実は世界には、客観的には(本質としては)決して存在しないのである。という意味で〈私〉は無であるのだが、しかし現実にはもちろん私しか〈私〉はいないのであり、それが全てで世界そのものなのだ(が、もちろんそんな事実は客観的にはない、と再び追いつかれてしまう)。その〈私〉(や〈今〉)が(無理矢理)世界内存在に仕立てられる時どのようなことになるのか、それが本書の主題だろうと思う。そういう観点から「自己意識」や「自由意志」などという概念の成立が説明されている。

途中、「唯物論独我論者」という思考実験が出てくる。〈私〉であることの原因が世界内に、客観的に(例えば自分の身体的構造に)あるのではないかと思ってそれを探し求める者がそれである。本質としては皆同じなのだが、どういうわけか現実にはこれだけしか与えられていないというのが〈私〉ということのポイントだったのだから、もちろん唯物論独我論者の試みはうまくいかない、いったと思ってもそいつが思っただけである。

この思考実験を読んだ時、客観的な世界内に自分が〈私〉であることの原因を「探し求める」のではなく、最初からそんなものはないと悟ってはいるが、それでは諦められず自分が〈私〉であることの理由を客観的世界に「作り出そう」とする者もいるのではないか、と思ったが、よく考えたらそれは思考実験どころか、かなり当たり前に日々起こっていることだろう。つまり、「野望」やら「自己実現願望」やらがそれである。要するにそれらは客観的な世界(の一部分)に自分が〈私〉であるという客観的には存在しない「事実」を反映させたいという欲望なのではないだろうか。

しかし面白いことに、永井均は本書の最後に収められた付論において〈私〉と真我=無我を同じものとみなした上で、次のように言っている。

……仏教において否定的に見られている、「気づき(サティ、マインドフルネス)」が欠けている放逸状態(いわゆるモンキーマインドの状態)とは、だれでもない(いかなる属性を持たない)真我=無我が(仏教用語で言えば「五蘊」によって蓋をされて)発動せず、代わりに諸々の属性によって条件付けられた不純な自発性が勝手に発動している不透明な状態である、といえるだろう。諸々の執着と、それに基づく貪欲は、このことから生じる。……(p.293)

つまり、「透明な」〈私〉状態が発動すれば「諸々の執着と、それに基づく貪欲」は生じないことになる。「野望」などは生じないのだ! それでは、「野望」は「客観的な世界(の一部分)に自分が〈私〉であるという客観的には存在しない「事実」を反映させたいという欲望」ではないのだろうか? いやそんなことはないだろう。執着を生じさせないためには「透明な」〈私〉状態でなければならないのであった。言い換えれば、累進構造が発動されていない状態の〈私〉でなければならないということだろう。「野望」を持つ者もまた「そもそも」〈私〉であるはずであり、ということは「私=全て=世界」であるはずなのだが、しかしそれならばなぜ「わざわざ」「さらに」世界を自分のものにするような真似をするのかといえば、それはやはり彼が「透明な」〈私〉ではないから、というか、そういう「私理解」をしていないからであろう。つまり、例えば、彼の「私理解」は累進構造の最上段の〈私〉には至っていないか、至っても時々だけであって、もっぱら《私》の段階に留まっている、というようなことなのではないだろうか。私が例えば《私》に過ぎないのだとしたら、私は結局他人と同じであり、だから「わざわざ」「さらに」世界を自分のものにしようと努力しなければならないのである。というのも、私=世界という〈私〉の実感も消えているわけがなく、《私》によって曇らされたその実感を取り戻したいと思うのは当然だろうから。しかし、実際は野望する者の理解は《私》段階なのだから、それと親和性の高い客観的世界に働きかけることになる。しかし、客観的世界を作り変えることで私だけが〈私〉であるという事実を実感することはできない。そもそも客観的世界から〈私〉に至る道はなく、本書で言われている通り、〈私〉から客観的世界への「一方通行」しかないからである。もしかしたらこれが、一般に「野望」などが虚しい結末に終わる(と思われている)ことの理由かもしれない。

この点から、(本書における文脈を無視して)「東洋の専制君主」に思いはせると、彼が暴君になるのかどうなのか、むしろ民に優しい王になったりはしないか、あるいは仏陀のように宮殿を出てしまうか、などと気になってしまう。永井均の倫理についての諸著作は「東洋の専制君主」が暴君になることを前提にして書かれているような印象を持っているが、そうだとしたら永井均の瞑想理論と矛盾しそうだが、そう単純な話でもないのだろう。というのも、第一に永井均の倫理本についての私の記憶が曖昧だからであり、第二に人が透明な〈私〉でいるのは(瞑想などをしなければ)困難であろうから、倫理本でそんな〈私〉を採用しても仕方ないのかもしれないこと、などなど色々考えられるが、ともあれ第一の理由によって、今はそのことを考えてもあまり意味がないだろう……

それと、上の「野望」の発生原因の説明自体は結局かなりありきたりなもので、今まで散々人々によって言葉は違えど言われてきたのだろうと思う(とはいえ、面白いと思う。他にも例えば「人は結局わかりあえない」といったような主張も〈私〉についての誤解から来ているのでは、というように考えるのは楽しい)。永井均の主たる主張はそういう類のものではなく、言ってみれば、たとえ「野望」の発生原因が上のようなものであるとしても、現に感じられる(?)「野望」はこれだけであり、他人のそれと現に感じられるそれの間には無限の隔たりがあるはずだが、その隔たりは常にすでにないものとされている、というようなものだと理解している。

 

倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦 (ちくま学芸文庫)

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