であ・あいんつぃげ

こんにちは……

『エイリアン:コヴェナント』の不可能性

結構前の映画だがリドリー・スコット監督の『エイリアン:コヴェナント』をDVDで見た。感想、というか、ちょっとこれに関連して考えた(考えられる)ことを。

 

 

ラッパーであり映画評論家でもある宇多丸さんが、前作『プロメテウス』のテーマを「創造主(神)はクソ野郎だった」としていて、私はその評は的を得た、かなり鋭いものだと思ったが、しかしそうであればこそ、『プロメテウス』(と今作『コヴェナント』)は凡庸な作品であると感じた(少なくともテーマの面では)。というのも、人間の「創造主はクソ野郎だった」とわかったとしても、更に「それではその創造主は誰によって作られたのか」と問うことができるし、当然問われるはずであり、しかしこのエイリアン前日譚ではその点が(少なくとも今のところ)問われていないからである。人間の創造主が「クソ野郎」であったことは、確かに「良いやつ」であった場合(つまりありがちな話)と比べれば意外ではあるかも知れない。しかし、「じゃあそのクソ野郎の創造主は誰なんだ? そしてクソ野郎の創造主の創造主は? さらにその創造主は?」という風に無限に問いが後退していくこと、この問いは絶対に答えられないように「どういうわけだか」なっていること、それに対する驚きに比べれば、人間の創造主が「クソ野郎」だったことなど些末な問題に過ぎない。「人間の創造主を見つけたら、そいつはクソ野郎だった」というレベルに留まったままで神殺しが完了した気になっているとしたら、それ自体がマヌケという他ない。「人間の創造主を見つけたら、そいつは良い奴だった」という普通の話とは正反対だからといって、「クソ野郎」は別に一歩も進んでいやしない。なぜなら、良いやつ(神)だったにしろ悪いやつ(クソ野郎)だったにしろ、「創造主は見つけた。はい、以上」という段階で留まっていることは共通しているからである。本当の次の一歩ではもちろん「で、その創造主の創造主は?」という終わらない問いが始まっていなければならないはずなのに。この終わらない問いを封じるものこそが、底なし沼の底を塞ぐ栓のようなものこそが、神と呼ばれるにふさわしいであろう。だから、この問いが出ない世界で神殺しの如きことをされても、そういう世界に留まっている時点でやはり「神はいる」のである。

以上のことを証しするかの如く、『コヴェナント』では人類の創造主は早くも不問に付され(葬り去られ)、加えてマイケル・ファスベンダーによる新たな創造主への成り上がりという表面的な目くらましもあり、例の問い、つまり「しかし、その創造主の創造主は?」には栓がされたままである。ちなみに、根源的なものを求める営み自体が無駄である、という価値観を表明されても事態は何ら好転しない。つまり、その価値観にもまたなんの根拠も与えることができないし、むしろどんな意見であれ根拠を(究極的には)与えることができないことが重要だということにここでも気付かされてしまうのだから。

とまぁ、テーマに関しては微妙な作品だが、実は『コヴェナント』は結構好きな映画だった。クリーチャーがキモすぎて、最高だったからである。