であ・あいんつぃげ

こんにちは……

『ゲット・アウト』から『ブラックパンサー』へ

ゲット・アウト』をDVDで見た。くだらなかったが、けっこう面白かった。
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この映画でなにか考えさせるところがあるとすれば、それはあの一家、というかあの地域の人間らがなぜ黒人を選んだのか、その理由であろう。劇中で主人公の体を乗っ取ろうとする盲目の老人は確か、それは黒人(の身体)に憧れているからだ、というようなことを言う(もっともこの老人自身はもう少し「高尚な」理由なのだが)。さて、これをどう考えればいいのだろうか?

まず思い浮かぶのは、この映画の話は黒人が今や憧れられる対象になり得るからこそ成立する物語だということ、もしくはそうなり得ると主張する物語なのだということである。この観点から見てみると、この映画は(黒人たちがひどい目にあっているからわかりづらいが)黒人差別を描いているように見えて、実は黒人であることへの圧倒的な肯定感を前提にして成り立っているか、もしくはそのような肯定感を持つべきだと主張しているように思えてくる。これは事態を逆にして考えてみるとそう奇異な考え方ではないはずである。つまり、例えば、白人と黒人が結婚することを望まない差別的な白人は「私たちの血に混じってくるな」というような被害妄想的なことを言うが、これなんかはまさに自分たちが優れていると思っているからこそ被害者になるという物語である(そう、そういう「物語」に過ぎない)。

とはいえ、やはり今作は黒人差別の物語だとも(当然のことだが)言われるべきなのであろう。第一に、白人による黒人(の身体)への価値評価がネガティブなものではなくポジティブなものであるとはいえ、やはりまだ黒人をモノのようにひとまとめにして「区別」しているから。第二に、仮に今は違うにしても、やはり黒人がネガティブなレッテルを貼られていたという過去は現にあり、今のポジティブな評価(レッテル)はただ過去の評価(レッテル)を反転させただけなのではないか、という疑いが消えないから。第一点目よりも第二点目のほうが深刻である。というのも、白人、黒人、黄色人種、その他「なんであれ」区別はされうるのだから「区別」というのは普遍的であり、ゆえにみんなに「区別」の呪いがかけられている(のだから、実は呪いなどないと言える)のに対して、過去こそがあるもの(ここでは黒人)の個別性を形作るのであるから、黒人が黒人という個別性を生きる限り苛烈に差別されてきた過去から逃れるのは難しい(過去は普遍化できないがゆえに呪いであり続ける)。差別問題が難しいのは、被差別者がたとえ今現在は(自他共に)ポジティブに捉えられているにしても、それは過去のネガティブな評価に対する相対的なものに過ぎないのではないか、この肯定は絶対的ではないのではないか、という疑念が消えないことに由来するのだろうと思う。

さて、この点に関連して、先日dvdで3回目の鑑賞をした『ブラックパンサー』を手がかりにして考えてみる(ところで私は、政治的理由を抜きにしても、この映画は今まで見たスーパーヒーローもので一番だと言いたい。とにかくエリック・キルモンガーの涙を誘うキャラクター造形が最高である。が、今はその話ではない)。
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この映画の画期性は、上に書いた「第二点目」、つまり過去という呪いのことだが、それから完全に自由な黒人たちを描いたことにある。つまり、ワカンダの連中がそれである。彼らは「そもそも」豊かだし「そもそも」クールだし「そもそも」自信にあふれている。そして私は思うのだが(そして言いにくいことだが)、本当に被差別者が救われる世界とはこっちの方向、つまり「過去を忘れる」という方向なのではなかろうか。もちろんワカンダなんかないわけだが、それでも例えばそういうのをスクリーンで見て「そもそも」感を身に着けて忘却する方向……しかし、それ(忘却)はなんとなく不誠実なように思ってしまうからこそのキルモンガーのあの説得力でもあるのだろうから……うーん、悩ましい。が、やはり「個人が」幸せになるためには忘却しかなかろうよ(キルモンガーの末路を見よ!)。