であ・あいんつぃげ

こんにちは……

高橋ヨシキさんについて

今、シュティルナーの『唯一者とその所有』の原書読みをまた再開した。といって、ケストナーの“Der 35. Mai”が届くまでの短い期間だが(間違えて変な業者に頼んだせいでなかなか届かない)。ともあれ、『唯一者〜』は電子書籍で読んでいるのだが、そのkindleによるとまだ11%しか読めていない。内容はといえば、宗教をボロクソに言う人間もまた(宗教の代わりとして)結局は崇高なものを崇めているに過ぎないと断じているところ。例えば次のような調子で批判している、久しぶりにちょっと翻訳してみよう(原文も載せたいが、ドイツ語の入力の仕方がわからない!)。


国家の基礎としてのキリスト教、つまりはいわゆるキリスト教国家に反対する当の人々が、道徳は社会生活と国家の支柱である、と繰り返して飽くことを知らない。まるで、道徳の支配が神聖なるものによる完全なる支配・一つの「ヒエラルキー」ではないかのような言い草だ。


つまり、このような人々は宗教(あるいは神)の代わりに道徳を崇高なるものとして掲げているだけであって、「崇高なるものを掲げる」という抽象的な構造自体は宗教の信者たちとまるで変わらない、というある意味では当たり前のことを言っている。ここらへんのことを読んでいて思い出すのは、映画評論家の高橋ヨシキさんだ。


はじめに断っておくと、私はかなりの高橋ヨシキファンである。毎週NHKラジオの「高橋ヨシキのシネマストリップ」は欠かさず聞いているし、ご著書も(買ってはいないが立ち読みで)結構読んだ。彼の主張に共感することは多々ある。しかし、やはり自分とはまるで違うタイプの人間を眺める感じでファンなのである。さっき「抽象的な構造」という言葉を使ったが、言ってみれば私は高橋ヨシキさんとは違う抽象レベルを生きているのだと思う。


ヨシキさんは自身をサタニストだとして宗教を否定するわけだが、サタニズムの教義がどんなに宗教に対して否定的であろうが、あるいは「自分の頭を使って考えろ」的な教えであろうが、サタニズムを「掲げている」時点で宗教を「掲げている」人間と同じ穴のムジナである。現に、さっきの『唯一者〜』からの引用じゃないが、ヨシキさんはなんと道徳的なことだろう! ヨシキさんはあんなに頭が良さそうなのに、こういう視点のとり方が圧倒的に欠けているように見える。ヨシキさんは科学に絶大な価値を置いているが、それだって同じである。宗教の代わりに科学を掲げているに過ぎない、崇高なものの内容が変わっただけで、「崇高なもの」は残り続けている。本当に宗教を否定したいのなら、「自分の頭を使って考えろ」的な非宗教的な教えさえ、それが教えであるがゆえにやはり宗教的なのだとして退けなければならないはずだ、決して「掲げて」はならないはずだ。宗教の否定とはそこまで、つまり「信じること」一般の否定にまでいかなければ達成できないことであるはずだ、それぐらい途方もないことであるはずだ。おそらくヨシキさんにとってキリスト教の否定は個人史的・具体的に大きなことであったのだろうから、否定した先でもまだ自分がキリスト教的な構造のうちにあることに気づきにくいのだろう。しかし、熱狂的なアンチ・キリスト教徒がキリスト教徒の変形に過ぎないことは、もう一つの宗教に過ぎないことは、かなり当たり前のことのように思われるのだが。

 

高橋ヨシキのシネマストリップ

高橋ヨシキのシネマストリップ

 

 

 

新悪魔が憐れむ歌

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