であ・あいんつぃげ

こんにちは……

ドイツ語de.『点子ちゃんとアントン』!

ケストナーの『点子ちゃんとアントン』を原書で読んだ(原題“Pünktchen und Anton”)。もちろんドイツ語の勉強のためである。

 

点子ちゃんとアントン (岩波少年文庫)

点子ちゃんとアントン (岩波少年文庫)

 

 

読んでいて、だいぶ自分の中でドイツ語の基本単語が定着している感じがあって心地よかった。分離動詞(英語で言うと、動詞と副詞の組合せで独自の意味になるような単位だが)の意味の推測もどんどん精度が上がっていってると感じた。といって、大体10ページ弱ある各章を読むのに2時間かそれ以上かかってしまったのだが。全部で16章であり、時間のある日はだいたい一日一章読んでいたので、多分3週間ぐらいで読み終えたのだろう。主にドイツ語の勉強のために読んだから、わからない単語は全て調べ、どころか名詞の意味はわかっても性がわからない場合も調べ、極めつけは大体一段落読み終えたらまた全ての単語がわかっている状態でその段落を読み直した。

昔同じケストナーの『飛ぶ教室』を原書で挑戦したが、途中でやめた。ドイツ語力がおいつていなかったからつまらなく感じたのか、それとも単純に(読んだ限りの箇所は)つまらなかったからか、それはよくわからない。ただ『飛ぶ教室』のほうが若干難しいっぽいのは確かなように思われる。『点子〜』の方が面白く思ったが、ただ簡単だったのをそう錯覚しただけかもしれない。

内容的なことをいうと、『点子〜』は児童書だから他愛のない話だ。もちろん、点子という「天使のような変な子」の描写や犬を擬人化したユーモラスな描写などは読んでいて楽しい。だがもちろん私は大人だから、「ドイツ語で読む」という付加価値がなければ、到底本書を手にすることはなかっただろう。逆に言うと、外国語で読むという付加価値を与えればありきたりな(失礼!)話も楽しんで読めるのである。そして、今や多くの人にとって(児童書に限らず)あらゆる物語はありきたりになってしまった(見知ったパターンの一つ)であろうから、またその輝きを取り戻すためにも外国語で読むというのはなかなかいいことだと思う(退屈ならば外国語 - であ・あいんつぃげ)。

もちろん、自分の見知ったパターンに当てはまらない物語、というかもっと広く「言説」はまだまだ無数にあると思っている。特に哲学において。というのも例えば、哲学はそういうパターンの成立そのものを問題にしたりするからである(パターンの上にパターンを重ねるような類の芸は私は好きではない)。全てがわかりきっていると自惚れてはならない。むしろある意味で全くわかっていないはずであり、それは救いでさえある。