であ・あいんつぃげ

単独者のみなさんへ……

『影をなくした男』

シャミソーの『影をなくした男』を読んだ。

 

影をなくした男 (岩波文庫)

影をなくした男 (岩波文庫)

 

 

もともと、シュティルナーの『唯一者とその所有』の中でほんのちょっと触れられていたのが読んだきっかけだった。シュティルナーのそれを頑張ってドイツ語で読んでいたのだが疲れ、ちょっと寄り道をして『影をなくした男』の原書(これもドイツ語)に手を出したのであった。もっともこれもすぐに疲れて、わずか10ページほどで挫折し、残りの60ページ分は池内紀訳で読んだというわけだ(そう、この作品は短い)。

 

作品の内容を一言で言うと、悪魔との取引で自分の影の代わりに無限に金を引き出せる財布を手にした男(ペーター・シュレミール)の受難劇、といったものである。金はあるのだが影がないので人々から差別され、ちっともいい目を見られない、どころか不幸に不幸が重なる。「悪魔との取引」といい「町娘との悲恋」といいゲーテの『ファウスト』を思い起こさせる(し、同様に胸が詰まるような悲しい展開が待っている)が、ここでは先に述べたシュティルナーの『唯一者とその所有』での紹介のされ方を手がかりに色々と考えるとしよう。

 

シュティルナーは「影をなくした不幸なペーター・シュレミールは、精神と化した人間の肖像画だ。なぜなら、精神の体には、影がないからだ」と言っている。これは一見、影を「金のために」売ったシュレミールを評するのにふさわしくない言葉に思われるが、実際にこの作品を読んでみると結構納得がいく。どういうことか、思いつくままに書いていこう。

1.ペーターは影をなくして人前に出られなくなり、部屋に閉じこもりがちになる。精神的なものを重視する精神的な人間が人との関わりを断つ、まではいいかなくても制限するのは容易に思い浮かべられよう。
2.ペーターは後にまた悪魔に、影を返す代わりに「魂」を寄こせ、という取引を持ちかけられ、そしてそれには(自らの意志からとははっきり言えないとはいえ)応じないのである。「魂」はもちろん「精神」であり、それをペーターは手放さない精神的な人間である。
3.失恋後、ペーターは学問に人生を捧げることになる。精神的な人間らしいのは言うまでもない。ちなみにだが、精神的な人間であったがゆえに恋が駄目だったのだと考えて読むと(現に私はそう読んだのだが)本当に哀しかった。自分は「呪われた」存在ゆえに愛する人と結ばれる資格はないと考えるところも合わせて……

 

とまぁ、シュレミールが「精神と化した人間の肖像」であることの証拠探しはこれぐらいにして、この仮説が正しいとすると、この物語はなんの寓話なのだろうか? 実を言うと、きれいに筋の通ったことを言うのは難しい。というのも、やはり「影」がなんの象徴かがかなり厄介だからである。例えば、シュティルナーの人間の三段階成長の図式(物質的人間→精神的人間→エゴイスト)に当てはめるのなら、影は当然物質性の象徴となり、それを手放してシュレミールは精神的になったと言えるのだろうが、しかし、そうなると影の代わりに金が手に入るというのがどうにも納得できない。金こそ物質的(といって変ならこの世的)なものの象徴に思われるからである。

 

しかし、実はそうとも言い切れない。というのは、お金ほど抽象的(つまりは精神的)なものもないだろうから。金にしたって本当はただの鉱物であり、紙幣に至ってはただの紙、それらを人間たちのルールが価値あるものにしているだけだ。一般的な理解に反して、お金に執着する人とは精神的な人、と言って言い過ぎなら、抽象的なものの愛好者なのではなかろうか? とするとこの物語は、物質的人間→低次の精神的な人間(つまりお金好き)→高次の精神的な人間(つまり学者)という成長物語と言えるかもしれない。影は物質性ないしは「素朴さ」の象徴なのかもしれない。と考えると結構普通の話ではある(もちろんとても面白かったけれど)。

 

シュティルナー的最終進化をしてエゴイストになっていたのなら、シュレミールは「ちゃんと」お金を手放さずに遊びに遊んで、学問もして、最後に再開したヒロインともまたやり直したんじゃないかしらん。こうなった方が痛快だと思うが、多くの人は「他人」がそんなにいい目を見るのに耐えられないのかもしれない。