青年から大人へ
マックス・スティルナーによれば(今ちゃんと『唯一者とその所有』を確認しいたわけではないので心許ないが)、青年から大人への移行はエゴイストになることである。青年は自分を精神とみなしているが、精神含め全ては「私」がなければそもそも存在しないではないかという事実に気づき、それに基づいて生きる者が大人である。私が全てである。
自分を精神と見なしている者はエゴイストにはなれない、なぜなら精神というお話においては「完璧な精神」が存在してしまい、そして彼はそれになれないことに悩むからである。「完璧な精神」つまりは「神」のような「自分の外」を設定して、それを基準に自分を考えているのだからエゴイスト=大人ではない。
しかし、「そもそも」世界が自分のものであるとき、わざわざエゴイスティックになる必要があるのだろうか、言い換えると、「さらに」世界を自分のものにしようとする必要があるだろうか?
『唯一者〜』を読み進めればそこらへんがわかるのかな?