homeroom-man’s diary

映画・本 慰め以上を求めて……

『アウトサイダー』コリン・ウィルソン

コリン・ウィルソンアウトサイダー

 

アウトサイダー(上) (中公文庫)

アウトサイダー(上) (中公文庫)

 

 

 ずっと気になっていて、最近になってようやく読んだ。読む前は、アウトサイダーアウトローみたいなイメージで書かれた本なのだと思っていたのだが、違った。アウトサイダーとは「観念的人間」であり、「生に意味を見いだせない者」であった。

 ここで、一言くぎを刺しておかなければなるまい。いわゆる善良な市民=普通人が観念的ではない、というのは間違いだ。普通人はある意味において、アウトサイダー以上に観念的である。なぜなら、彼らは生に「意味」があると素朴に信じている(と自分に思い込ませることができる)からである。「意味」が観念でなくて何であろう? 善良な市民は、自分の信じている「観念」に疑いを持たないのだから、「人生は全くの無意味かもしれない」と考え(続け)ないのだから、いや、何も考えずに生きているのだから、アウトサイダー以上に観念的である。同時に、自らの全考え・全行動が置かれた環境に完全に依存しているので、より動物的である。善良な市民は、「素朴に」観念的かつ動物的であること、その点はきちんとわきまえなければならない。

 それでは、アウトサイダーが観念的でないかというと、もちろんそんなことはない。アウトサイダーの「外見」は観念的なことはなはだしい。常日頃からあらゆることを考えているし、難しい本を読むし、才能ある者は難しい本も書く。しかし、なぜそんなことをするのかといえば、実のところ、彼は全く周りの人間のように「素朴には」観念的になることができないからなのだ。それができないから、自ら「生きる意味」なるものを創造しなくてはならなくなるのだ。

アウトサイダーは子どもっぽい」と嘲笑する普通人は、確かに的を得ている(ただ、彼らがそのセリフにこめた、自己正当化のレベルにおいてではないが)。アウトサイダーは一面では子どもだ。なぜなら、「意味のあるもの」に本気になれないからだ。子どもを見ていればわかる。あぁ、子どもはどう考えても「意味のないこと」を楽しむ、遊ぶ。楽しまなければ「意味がない」とも考えない。アウトサイダーとはおそらく、そんな「意味とは(比較的)無関係な子ども時代」を引きずっている存在なのだ。あるいは成長の段階で、「意味に(素朴に)埋没する能力」を獲得しそこなった。あるいは、その能力をいったんは得たが、なにかの不幸で、それまで浸かってきた生ぬるい意味が吹き飛び、同時に生ぬるい意味につかる能力も吹き飛んだ。意味とは無関係な何かが彼の心の働きの、行動のベースになってしまった。その何かとは、(冷めたニュアンスのこもらない)「遊び」だろう。意味なんかどうでもいい、楽しければ! いや、楽しくなくたってかまわない、どんな種類であれ、そこに強烈な感情の動きがあれば! いや、感情なんかも消え去った、もっとカオスな体験を、あるいは、あぁ、至高の体験を! 

 それにも関わらず、なぜアウトサイダーは普通人以上に「生きる意味」を探すのだろうか? そんなものどうでもいいにも関わらずにいればいいのに。あぁ、それはおそらく普通人のせいだろう。鈍感な彼らが見ている夢に合わせなければ生きていけないから、無理に生きる意味なんか探すのだ……無意味でも生きていく、そのための方途を探すべきなのに……