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homeroom-man’s diary

映画・本 慰め以上を求めて……

『ローグワン』スター・ウォーズ終わりの始まり

映画の感想・所見

『ローグ・ワン スターウォーズ・ストーリー』感想・所見

つまらなかったわけじゃない。が、思った。情報テクノロジーの発達を欠き、それ以外の技術は異様に発達したアナログなSF的世界観を頑迷に守り続けるこの新シリーズは、今後かなりきびしくなるだろうということ。今時巨大なアンテナがないと設計図のデータ一つ送れないような世界観を作る者たちから漂う「恣意性」が、逆にスターウォーズを徹底的に食い散らし、破壊するという予感。旧作の世界観が時代にそぐわなくとも、ファンへの「おべっか」として無理してでもそれを守る、その後ろ向きの姿勢もさることながら、製作人のそのような態度、事情が世界観から容易に読み取ることができるという点で、今後、このシリーズへの人々の関心は着々となくなっていくと容易に予想できる。どういうことか。

製作者の「恣意」あるいは「事情」が画面から漂うにつけ、スターウォーズの「現代の神話」的側面がほとんど消えうせた、ということ。「神話」に作者はいらないはずだ、「その世界はただただそうなのだ」という説得力だけあればいい(『怒りのデスロード』を参照)、そう感じなければ「現代の神話」たりえない。「ミディクロリアン」という設定がファンの間で不評なのがわかりやすい――フォースに説明はいらないのだ。なら、現代の映画で古臭い未来像を見せられても、「ただただその世界はそうなのだ」と納得すればいいじゃないか、という声が聞こえて来る。確かに、よほど鈍感な人にとってはそれも可能かもしれない。だが普通の現代人なら、あれだけ高度な建築物が備える通信手段を起動させるのに、そこらへんに転がっているごつい機械のごついレバーを下げなければならない(あるいは、下げればよい)、という状況に違和を感じざるを得ない。この映画の世界は意図的に、それもかなりしょぼい意図(細かいことは考えたくない!)により作られているという退屈。「ただただそうなのだ」というのは「世界の恣意」だが、『エピソード7』や『ローグ・ワン』のそれは「(製作)人の恣意」に過ぎない。その退屈を回避するためには、現実の現代のテクノロジーを前提にしながら、それでもスターウォーズ的だと思わせる世界観にすることが必要だったように思われる、たとえそれが限りなく困難であったとしても(というのも、ルークの居場所を記した地図の追っかけみたいなものは成立しなくなるだろうから)。

ちなみに、園子温監督の『ひそひそ星』は、この種の問題全体を俯瞰したような作品だった。ものすごくテクノロジーが発達し、物体もテレポートできるような未来に、それでもまだ人はなぜか宅急便を利用していて、時間をかけて贈ることに、時間をかけて贈られたものに心を動かされる。それが人なのだ、あえて言えば人の限界なのだ、と言い切る『ひそひそ星』。対して、現実ならEメールで送れるような情報の取り合いのために星間移動し、戦争する人々を描く『スターウォーズ』をいまだにわりと面白く観れてしまう我々。限界を感じる。