読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

homeroom-man’s diary

映画・本 慰め以上を求めて……

『この世界の片隅に』にみる「良質」の罠

この世界の片隅に』感想・所見

うーむ、すごい映画だ。ネタ化や分析や批判をしたくないと思わせてしまう迫力に満ちている。しかもその迫力は淡々とした日常描写・コメディー演出に宿っている。だから(特に最近の)観客がせずにはいられない作品のネタ化や分析や批判への拒否がとても「やんわり」としており、「拒否に対しての拒否」という分析・批判・ネタ化すらもできない。できたとしても暖簾に腕押しだ。まぁすごかったんだけどね、泣いちゃったんだけどね、と結局は呟いてしまう。

(ただ、ネタ化ができない部分もないわけじゃない。例えば、風呂でのすずの妹のセクシーシーンはちょいキツカッタ。あと、空襲時突っ立っているすずに義父が覆いかぶさって身を挺して守る場面で、義父が急にうたを歌いだしたことのシュール感も相まって、なんかよからぬこと、ありていに言えば卑猥なことを予感がしてしまった……義父も男だし……)

「拒否に対しての拒否」が観客の間で散見される映画でわかりやすいのが、高畑勲監督『かぐや姫の物語』だ。絵の雰囲気といい、背景と登場人物の半端ない馴染み方といい、『この世界の片隅に』と共通点が多い。完成度の圧倒的高さという点でも一致する。が、『かぐや姫の物語』をけなすことはたやすい。

曰く「高尚過ぎる、娯楽要素が足りない」、曰く「フェミっぽい」、曰く「劇場版日本昔話だ」云々かんぬん……反知性という名の「拒否に対しての拒否」が噴出した。「教養をちらつかせとけば俺らが黙ってるとでも思ったか? 映画に難しいことなんか入れたって意味ねぇだろ、おもしろきゃいいんだよ!」と四六時中喚き散らす、頭の悪いことをついに誇りにしてしまった連中の怨嗟が飛び交った。高畑勲の「観客に対しての拒否」が強烈・強固・論理的だったから、それに対する「拒否」もたやすかったのだ。

翻って『この世界の片隅に』はどうか? 大前提として「観客に対しての拒否」は明確にある、といわねばならない。それは、どんな悲惨な中にあっても「日常」を描き通すことに、広島への原爆投下を知っている観客の「わくわく感」を裏切るような淡々さに、つまりはアンチ・カタルシスであることに現れている。それなのに、言いようのない迫力が全編に込められて、半ば本能的に(広島弁ってよくわからないのに)満足してしまう、心を動かされてしまう、面白い、と思ってしまう。ここまでは『かぐや姫の物語』と共通する部分も多い。

決定的に違うのは、『この世界の片隅に』では「日常」=「端的にあること」=「論理の外」が目立つのに対して、『かぐや姫の物語』では「物語」=「構築されたもの」=「論理の内」が目立ってしまう点にある。「論理の外」にあり、なおかつ娯楽性が高い作品に論理で切り込んでも「暖簾に腕押し」だ。一方、「論理の外」をふんだんに示す『かぐや姫の物語』のような作品であっても「論理の内」と‘見なされた’場合、論理(どんなに稚拙なものであれ)によってネタにされ、分析され、批判されることは免れ得ない。

では『この世界の片隅に』に軍配が上がるのかというと、微妙だ。論理で切り込む余地が十分あってもなお、好きにならざるを得ない作品というのが存在するからだ。映画からあるメッセージを読み込む、それは言葉であるがゆえに言葉によっていくらでも反論可能である、が、それを知ってもなおそのメッセージにフィットしてしまう自分に「論理の外」を感じるからだ。

かぐや姫の物語』の阿弥陀如来来迎シーンは忘れがたい(ただ、月に赤ん坊の絵はいらんだろう)。