しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『怠惰への讃歌』バートランド・ラッセル

バートランド・ラッセルの『怠惰への讃歌』という一つの短いエッセイを、英語の勉強もかねて原文で読んだ。(エッセイ集の題でもあるようだが、私が買ったのはこのエッセイだけで、100円程度だった)

 

怠惰への讃歌 (平凡社ライブラリー)

怠惰への讃歌 (平凡社ライブラリー)

 

 

In Praise of Idleness (English Edition)

In Praise of Idleness (English Edition)

 

内容の前に、まず素晴らしいと思ったのは、ラッセルの文章はとてもスッキリしていて読みやすいこと。もちろん難しい単語が使われていたりはするのだが、文体のレベルでのややこしさはほぼない。

内容はといえば、極々かいつまんで言えば、技術の発達した現代(このエッセイが書かれたのは1932年)では、以前よりも短い時間で必要な量のものが作れるのだから、短い労働時間が当たり前で(例えば1日4時間)、余った時間をもっと人生を楽しむ(怠惰である)ために使えるような社会であるべきである、といったような主張である。逆に言えば、現実の社会は無駄に人々にオーバーワークをさせており、しかもその割には仕事にあぶれる人々も大量に出てきている、と。また、仕事をすることが道徳的に正しいとされていていることを批判し、なぜそんな道徳ができたのかについても書いているが、その点に関しては両手を上げて私は賛成せざるを得ない。

ところで、上のような理想社会が可能であることの例証として次のような思考実験(?)がエッセイ中で紹介されている。

ある数の人々がピンを作ることに従事していて、世界が必要とするだけの数のピンを作るのには一人1日8時間働かなければならない。しかしある時素晴らしい機械が発明されて同じ量のピンを作るのに一人1日4時間働くだけでよくなった。労働時間は減ったが、世界は何も困らない(ピンは足りている、ピンの値段はこれ以上安くなっても仕方ないくらい安い)。それで何が悪いのか? そのままみんな楽して行こうじゃないか。

しかしもちろん、現実はそうはいかない。雇い主が労働時間が減った分だけ従業員の給料を下げたり、従業員の数を減らしたり、あるいはこれまでと同じ人数を同じ時間同じ給料で働かせて世界が要らない量のピンを作ったりするからである。最後のパターンはもっとピンの値段を下げて競争に勝つため(もっとも、この例では「これ以上下げても仕方ない」とされていたのだが)か、ただ単に頭が悪いかのどちらかだろう。前の2つ(賃金カット)はピンの値段を下げる必要がなくても起こるだろう。雇い主がさらなる繁栄を望むからである。私服を肥やすにしろ、会社をでかくするにしろ、今のままでは満足できないからである。「繁栄を望む」ではなくて、「没落を恐れる」でも結果は同じだ。どちらも「今のままではいけない」と思ってしまうからだ。

 

「女のくせにゲームなんかやって……」は差別か

最近、「女のくせにゲームなんかやって」と言われて傷ついた、的なことを色々なところで読んだり聞いたりした。傷つく気持ちもわかるが、これが差別だと言われると、なんか違和感があった。もちろん、「女のくせにゲームなんかやって」が一般的に差別的発言だと思われる理由はわかっている。その発言が女性の自由を制限するようなものだからだ。それぐらいわかっているのだが、しかし私がどうして「女のくせにゲームなんかやって」を差別発言として取りにくいと考えているかといえば、それはゲームを「よいもの」と(必ずしも)考えていないからだろう。

「女のくせにゲームなんかやって」という発言が前提にしているのは、「女性は普通ゲームをやらない」という固定観念である。そしてもしゲームが「よいもの」ではないのだとしたら、女性に対するその固定観念(イメージ)はネガティブなものではなくポジティブなものであり、「差別的」ではないと言っていいはずだ。なぜなら、「よくないもの」をやらないことは「よいこと」なのだから(少なくともそう言って間違いじゃないだろう)。ということは、固定観念それ自体が悪いものと見なされず、なおかつゲームが「よいもの」と見なされないのなら、「女のくせにゲームなんかやって」は差別発言ではない。例えば「女のくせに殺人なんかして」という文について考えればこのことがはっきりするのではないだろうか。この文は「女性は殺人をあまりしない」という固定観念を前提にしており、「女性は殺人をあまりしない」は明らかにいいイメージである。

もちろん「男のくせに……」の場合も事情は同じだ。例えば「男のくせにダラダラとショッピングして」という文は、「男性はダラダラとショッピングしない」という固定観念を前提にしており、それは男性に対してのいいイメージを語っているのだから、男性に対する差別発言と考えるのは(一面では)変だと言えるはずだ。

まとめると、「AのくせにB」と言われるとき、Bが「よくないこと」であるのなら、「AのくせにB」は差別発言とは言い難い、ということになる。逆にBが「よいこと」ならほぼ確実に差別発言だ。例えば「女なのに頭がいい」は間違いなく差別だろう。

とはいえ、「AのくせにB」全てを差別発言と見なすことももちろん可能だ。すでに上に示唆されていたように、固定観念それ自体を悪とするか、あるいは同じことだが、「AのくせにB」はAの自由を侵害すると訴えればいいのである。とはいえ、実はこれは途方もない話だと思う。固定観念なしに何かについて語るなんてとてつもなく面倒なことを、差別廃止論者が望んでいるとは思えないし、可能だとも思えない。

『ジョジョ・ラビット』

ジョジョ・ラビット』はいい映画だった。

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映画の内容そのものにはなんの文句もないのだが、あえて気になるところを挙げるとすれば、原作との関係である。この作品はアカデミー賞の脚色賞を受賞したわけだが、原作の紹介文やレビューを読んでみたところ、かなり映画とは違ったテイストらしい。おそらくだが、原作はかなり「ダークな」作品で、人間の心の暗部を描いたような作品になっているようだ。映画中でも、戦争が終わったと知られてしまったら匿っていたユダヤ人の女の子がどこかに行ってしまうと主人公が気づいてその女の子にドイツが勝ったと嘘を付くという描写があり、なかなかキツイ展開だなあと思っていたが、ここなんかが典型的に原作の味なのだろうし、なるほど確かにいくらでもよりエグい話にできる(し、実際原作はそうなのだろう)。そう思ってみると、映画はあっさりし過ぎの感がないでもない。

ところで私が気になってしまうのは、この「原作は毒たっぷりで、映画は毒抜きされている」という(半分)推測が正しいとして、どちらのほうがより「いい作品」かという問題である。言い換えるなら、フィクションにおける陰惨さや残酷さは鑑賞者に対して、または現実世界に対していい影響を及ぼすのだろうか。

 

フィクションで描かれる(過剰な)陰惨さや残酷さを肯定するときの理屈で最もポピュラーなのはおそらく、「現実世界の陰惨さや残酷さを理解するのに役に立つ」というものだ。理解して、賢くなって、現実世界によいフィードバックをもたらす、と信じている人たちがいる。私自身はこれをかなり疑っているが、とはいえバラ色一色の夢物語などを見せられて何かが良くなる気もしない、というか、そもそも全く面白くないだろう(から、よくもないだろう)。『ジョジョ・ラビット』はそんなに単純な味わいではないからご安心を。

 

『ドラゴンクエスト8』

相変わらず(外国語の勉強のために)ゲーム実況を見まくっていたら、無性にゲームがやりたくなり、ドラクエ8をたぶん10何年かぶりにやり直してみた。

比較的最近(2、3年前)やったドラクエ11と比較するなら、「ゲーム的な」ストーリーテリングの面白さは明らかに8の方が勝っている。ドラクエ11ストーリーテリングは終始段取り臭かった=お使い臭かったのに対して、8ではそうはならないように工夫されていて、例えばイベントを進めるためにあるアイテムが必要だとなったとき、そのアイテムの場所はすでに行ったことがある場所で、プレーヤーはそこを自分で思いつかなければならないようになっていたり、また、わかりづらい場所に行く道を探すこと自体が楽しかったりする。

その他11より優れている点で言えば、幻想的なイメージの豊かさ・美しさだろう。壁にかかった格子の影が月の光を受けて異世界への扉へと変わったり、大地の記憶としての海を渡る船など……忘れがたい場面がたくさんある。

とはいえ、欠点も結構あって、一番はフィールドがでかいだけでスカスカであることだろう。確かに、このスカスカ感がゆったりした感じ・本当の旅のリズムを醸し出しているとも言えるのだが、それにしても移動に時間を取られすぎている感は否めなかった(少なくともキラーパンサーが手に入るまでは)。イベント数は他のドラクエに比べると多分けっこう少ないが、クリアまでは同じぐらい時間がかかる。

それと、これは3DS版(及びモバイル版も?)だけのことだが、シンボルエンカウントになったのはとてもいいことだが、メタル系を狩るのが楽になりすぎて、途中から他のザコ敵は全無視してしまった。エンディングの追加もいらなかったと思う。追加エンディングをYouTubeで見たが、ひどくて途中で見るのをやめてしまった。

ともあれ、しばらくゲーム中毒状態から抜け出せることを祈ろう……。

 

ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君 - 3DS

ドラゴンクエストVIII 空と海と大地と呪われし姫君 - 3DS

 

 

 

『AI崩壊』

入江悠監督なので『AI崩壊』見てきた。タイトルがダサ過ぎるけど(『新幹線大爆破』的なノリなのだろうが。。)、結構良かったと思う。


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とはいえ、この手の「スーパーIT技術飽和映画」の宿命としてのバカっぽさから逃れることは出来ていなかったが。つまり、パソコンでハッキングしたとか何とか言えば何でも出来てしまう世界観では、真面目に見る気が失せるということである。そして、そうだからといって、例えばそのハッキングの仕組みなんかを仮に説明されたとしても、大抵の観客は知識不足なのでやはり意味がわからないということになる。だから、映画の作劇においては情報技術・端末は取扱超危険なのだ(にもかかわらず、現代が舞台のエンタメ映画では扱わざるを得ない!)。この点でうまく行ってる映画を見たことがない。

その他、色々とAI周りで言いたいことが結構あったのだが、まぁあんまり真剣に考えずにロボット反乱ものだと思って楽しめばいいし、それができるぐらいのクオリティはある。それよりも私が(良くも悪くも)気になったのは、入江悠監督のベタな演出やストーリーテリングである。『22年目の告白』でも気になったのだが(いや、彼の作品全てで気になるのだが)、わかりやすい回想シーンをふんだんに放り込んでくるあたりなどからわかるように、洗練された映画にする気はないらしい。大予算映画だからそうするよう横槍が入ったとも考えられるし、洗練されていないところの一部は確かにそのせいだったりするのだろうが、それよりも「泥臭い」ことが好きな監督の資質によるところが大きいのだと思われる。

別に「泥臭い」ことが悪いわけではないが、私がシーンごとにちょこちょこ気になってしまったのは「あえて」泥臭くしているようには見えないことであった。つまり、直球で泥臭いのである。しかし、だからと言って、「監督が意識的に泥臭くしているのではなく、無意識的にそうしてしまっている」ということにもならないことに注意されたい。なぜなら、「「あえて泥臭くしている」感じをあえて出さない」ということが考えられるのだから。そして入江監督はそっちを「(あえて)選んでいる」と私は思うし、その選択は結構素晴らしいと思うのだが、ここで問題が浮上する。なぜなら、ともあれ映画からは「あえて」感が消えてしまっているのだから、入江監督の「あえて」の存在を私が推定できる余地が実は映画内にはないからである。監督の「あえて」を私が推定したのは、彼が「サイタマノラッパー」という素晴らしい作品を撮った人だということや彼の諸々の発言などを私が知っていたからに過ぎず、この映画外にあるそれらの情報を知らない人にとっては、『AI崩壊』はただ泥臭く見えてしまう危険性があるし、そう思ってしまう人を批判することはできない。それでもじゃあ、例えば「バカ映画をバカ映画だと知ってて作っている監督の視線が透けて見えるからこそ面白いバカ映画」というようなものの方が偉いのかと言えば、そういうわけでもあるまい。

『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』

テリー・ギリアムドン・キホーテ』(原題の直訳は『ドン・キホーテを殺した男』。原題の方が、当たり前だが、いい)を見た。かなり好きな作品となった。


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本題に入る前にちょっと気になることがあるので書いておくと、この作品を見てる間中、一つ飛ばした横の席の人が前のめりになって映画を見ていたのだが、これって私にとってはとても気が散ることなのだが、普通の人は違うのだろうか? 私が神経質なだけ? しかし、視界にスクリーンだけでなく鑑賞者の顔が入ってくるとかなり邪魔だと感じてしまう。案外(?)映画が好きな人とかが前のめりになって見ていたりするっぽく、ということは悪気はないのだろうが。。ともあれ、前のめりに見ている人を邪魔だと思う人がいるということが周知されることを願わずにはいられない。

さて、そんなことはどうでもいいのだ(いや、よくないが)。『ドン・キホーテ』だが、テリー・ギリアムの作品らしく「これは夢か現実か」という話で、見方によっては複雑な入れ子構造をした作品ともとれるし(この映画全てが、劇中に登場した『ドン・キホーテを殺した男』という映画の内容である、というような)、また、シンプルに現実と夢の2層であるととることもできるだろう。全体的な印象としては夢と現実が混ざり合って何がなんだかわからなくなる感じなので、おそらく前者のような解釈が望まれているのであろう。

テリー・ギリアムの「夢か現実か」話の特徴的なのは、現実とされている場面がそもそもの初めからフィクション(夢)っぽいことだろう。恐らくこの手の話の定石は、ともあれ現実はかっちりしたもの「だった」のに、それが最終的には揺らいで、夢と見境がつかなくなるぐらいのヤワなものだったとわかる、といったものだろうが、テリー・ギリアムの場合は、端からそんなかっちりしたものなどない。つまりどういうことかと言えば、そもそも全ては作り物(夢)のうちだ、ということだ。現実か夢かという話自体は(当然のことながら)映画というフィクションのうちでなされていることに過ぎない。テリー・ギリアムのすごいところは、まずはそのことを誠実にも(!)宣言してから話を始めることである。そして、今作がそうであるように、一見フィクション(夢)の中に閉じこもるかのようなラストを迎えるが、それにもかかわらず後味が悪くないのは、むしろ何か軽やかささえ残るのは、実はそれは閉じこもるというよりも「回帰」したに過ぎないからである。もともとフィクションに過ぎなかったのだ、で、それでいいじゃないかという嘘なりの矜持、というより、当たり前の真実を告げ知らせるのである。そう思うと、映画というものに真面目なりすぎるあまりに、マナーの悪い客に「マジになっている」私はまだまだ修行が足りないのかもしれないなあ。。

『ニュー・アース』

エックハルト・トールの『ニュー・アース』の原書を英語の勉強も兼ねて読んだ。

 

ニュー・アース

ニュー・アース

 

 

A New Earth: The life-changing follow up to The Power of Now. ‘My No.1 guru will always be Eckhart Tolle’ Chris Evans

A New Earth: The life-changing follow up to The Power of Now. ‘My No.1 guru will always be Eckhart Tolle’ Chris Evans

  • 作者:Eckhart Tolle
  • 出版社/メーカー: Penguin
  • 発売日: 2009/01/01
  • メディア: ペーパーバック
 

読むきっかけとなったのは、永井均がこれについてツイートしていたからで、そんなことでもなかったらこんな如何にも「スピリチュアル」な名前の本を読むことはなかっただろうが、なかなかどうして、下手な仏教(瞑想)本などよりも余程理知的に書かれている本だと思った(瞑想についての本じゃないが、かなり関係はしている)。

仏教(瞑想)本などでいつもイライラさせられるのは、一方で我を消せといいながら他方で本当の自分でなければならないというようなことを主張し、その一見矛盾に見えること自体には何の深堀も整理も与えないところだ。「一見矛盾に見える」ことにすら気づいていないのかと疑わしくなるほどの本がほとんどだ。

その点、エックハルト・トールの教えはスッキリしている。普通消せと言われる方の我は彼の用語では「エゴ」であり、普通良いものとされる本当の自分は(「存在者」=「エゴ」ではなく)「存在」そのものである。あらゆる内容(例えば私の記憶)や形式(例えば人の心理学的システム)は「エゴ」だが、それらがなんであれ、「それらがある」ということの「それら」ではなく「ある」=「存在」の方に照準を当てよ、という教え。これは仏教の無我説などよりよっぽどスッキリしているように思う。というのも、何もないのではなくともあれ何かがあるのは間違いないことだからである。無我説だと、少なくとも表面上はこのことに抵触してしまう。もちろんもう少し考えれば抵触せずに済む無我説の解釈が出来上がるわけだが、大概は表面上でとどまって力ずくで押し通し、何やらわけのわからない主張になっているのはほとんどではないだろうか。

とはいえ『ニュー・アース』はやはりスピリチュアル本であるからそれなりの胡散臭さはあって、それはなんと言ってもタイトルの「ニュー・アース」、つまり意識改革された人間たちによる新しい地球の誕生の予言(?)部分だろう。なんで胡散臭いと思うのかといえば、まさにこのように話を大きくすることこそが、著者の言うところのエゴの働きの結果ではないかと疑わずにはいられないからである(「今」ばかりを強調して「私」の問題には触れないからこんなことになるのかもしれない)。とはいえ、スケールの小さい(つまり個人に関係するような)部分の記述は納得感を持って読み進められた、だけではなく、著者がおそらく意図していたように、読むだけで心が落ち着いていく効果もある。

最後に一つだけ。永井均との関連でいうなら、この本は「今しかない」とは言っているが、「私しかいない」とは言っていなかった(と思う)。時間の持つ矛盾には言及していたと思うが、もちろん独我論の持つ矛盾については言及しておらず、なんとなくみんな繋がっているよ、程度の話だったはずだ。だからこそスピリチュアルとして成り立つのかな?

そろそろ永井均関連を離れて全然違う本も読みたいたところだが、さて……。