しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『旅のおわり世界のはじまり』

『旅のおわり世界のはじまり』は、最近見た映画の中では一番面白かった。とはいえ、良くできた作品とは言えない。黒沢作品の中でもとりわけ変な映画だった(とはいえ再び、それがマイナスポイントにならない凄さが黒沢清にはあるのだが)。
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黒沢清監督の映画は「怖い」映画ではない、というのが私の考えだ。彼の映画は「怖い」のではなく「不安な」(つまり人を不安にさせる)映画なのだ。少なくとも黒沢作品で私が好きなものにおいては、人々が自明のものとしている常識が失われ、時にはそのまま日常に戻れなくなったり、時には決定的に変化した自己を抱えてまた日常を生きていったりする。『CURE』では実は我々を縛るものなど何もないのだと主人公は知り人々に殺人を促す「伝道師」になるし、『トウキョウソナタ』では仮面家族の化けの皮が完膚なきまでに剥がされるが、しかし家族は再び家族を生き直すのである。つまり、黒沢清作品のポイントは、ともあれ「日常」や「常識」が崩れ去ることにある。そしてその時「不安」が顔を覗かせるのである。

そう言うと、今作『旅のおわり世界のはじまり』のような、非日常である「旅」をテーマにした作品は日常を疑う黒沢清にぴったりであるかのように思われるかもしれないが、実はそうではない。そうではないから、今作のような変な(しかし抜群に面白い)映画が出来てしまったのである。どういうことか。

旅に出ることで人が疑い始める常識とは例えばどういうものだろうか。すぐに思いつくもので言えば自国の文化や道徳やルールなどと言ったものであろう。旅に出ると、自国のそれらが旅先のそれらと比較され、相対化される、そしてそのことが不安を呼び起こすというのは確かにそうだ。しかしながら、黒沢が得意とし、いつも表現している「不安」というのはその水準のものではないのだ。旅によって相対化されるのはあくまで「自国の」文化や道徳やルールであるのに対して、黒沢の映像表現は(どうしても)文化や道徳やルール「そのもの」を疑ってしまうのである、その水準で不安が現出してしまうのだ。人を殺そうと思えば自由に殺せるではないか、という不安を『CURE』では観客に芽生えさせ、家族で生活する必然性などまるでないのではないか、と『トウキョウソナタ』を見たあとの観客は思うであろう。

さて今作『旅のおわり世界のはじまり』がなぜ奇妙な映画かと言えば、この2つの不安の水準が混同されているからである。もっと有り体に言うと、物語としては旅の不安レベルで演出を抑えておけばいいものを、いつもの黒沢レベルの不安を描き切ってしまって、しかもそれを「旅の不安」としてこちらに提示するものだから、常に強烈な違和感と緊張感が漂っている。主人公含む撮影クルーの面々はどう考えても旅に疲れているからではなく、そもそも壊れてしまっているように見える(特に染谷将太! 彼は黒沢清映画でサイコキラーを演じるべきだ!)し、街は見知らぬところだからではなく、そもそも実態などない廃墟のようなものなのだ。ウズベキスタンにあるからではなく、そもそもからして回転遊具などおよそこの世にあってはならないような馬鹿げたものなのだ!

もう一度繰り返そう。変な映画だ。でも抜群に面白い。見たほうがいい。

ドイツ語マラソン・哲学(入門書)編

ドイツ語マラソン・哲学編を開始した。とはいえ、本格的な哲学書は難しすぎて(少なくとも)ドイツ語の勉強にはならないので、入門書的なものを読んでいる。ドイツ語でも当然、『三十分でわかるカント』的な本があるのだ(そして、そういうカント入門も一つ読んだ。クオリティはどんなもんなのか、わからない。だって、私は素人もいいところだから)。今は哲学の基礎知識を勉強できる本を読んでいる。その本のドイツ語は平明でわかりやすく、(ドイツ語で読むかそうでないかに関わらず)本格的な哲学書に向かう前の準備体操になりそうだ。

 

 

とはいえ、これが読み終わった後も、まだ入門書にとどまるつもりだが。次はカントの純粋理性批判を読み解く的な本を読むつもりだ。ちなみに「Einführung」が「入門」という意味なので似たような試みをしたい人は、その言葉と哲学者名や分野などで本を検索するといいと思う。

『貞子』

『貞子』を観た。(もちろん?)微妙だった。
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文字がまともに読めない人用か、わざわざネット上のカキコミを読み上げたり、記憶力がない人が観客であることが前提なのか、回想シーンを律儀にいちいち入れてくる辺りは、まぁおいておこう。所々よかったと思った演出もあるにはあった(突然の飛び降りや厄介な「患者」など)が、それもおいておこう。私がこの映画で感じたのは、ホラー映画では「嘘から嘘以上を期待せず、ただ嘘を楽しむ」ことが困難である、ということだ。

最近の私の映画鑑賞の作法は「嘘から嘘以上を期待せず、ただ嘘を楽しむ」だ。いわゆるオタク的な作品享受の仕方とも結構重なるだろうが、決定的に異なっているのは、オタクが嘘を「愛している」のに対して、こちらの作法では嘘を「愛する」ことはせず、むしろ「所詮嘘だ」という諦念が先行して、その諦念の中で楽しむ点にある。作り物を作り物以上に祀り上げないことが大切だ。『名探偵ピカチュウ』も『アベンジャーズ』もその限りで十分堪能したことは以前述べた。その2作のように、ファンタジー作品はとりわけ嘘八百なわけだから、この作法と相性がいい。逆に、真面目な人間ドラマなどを楽しむには、私たちはその作品に「巻き込まれ」なければならない(それだけの力が作品になければならない)、例えば、自分の実人生の経験などを映画内の出来事に投影などして。

さて、残酷であったり人がバタバタ死んだり悪趣味だと謗られたりするとはいえ、ホラー映画が「ファンタジー映画」であることを疑う人はあまりいないだろう。それじゃあホラー映画は「嘘から嘘以上を期待せず、ただ嘘を楽しむ」作法に合致しやすいか、と聞かれたら、しかしながら、否、と答えざるを得ないだろう。なぜなら、ホラー映画での満足度はドキドキしたか、怖くなったかに依存せざるを得ないからである。当然のことながら、目の前に起こっていることなど嘘の内部に過ぎないと思ったままでは、我々はドキドキも怖がりもしない。ドキドキしたり怖がったりするには、我々は作品内に「巻き込まれ」ていなければならないのだ。もちろん我々自身もそうなることを期待し、つまり嘘以上のもの=恐怖をどうしても期待してしまい、いわば「協力的に」見るのであるが、それでも作品のクオリティがある水準に達していなければ、我々は「巻き込まれ」ず不完全燃焼に終わる。『貞子』もそうであった。

しかしこれは、われわれがホラー映画に他のエンタメ映画以上に高いハードルを課しやすいということであるから、『貞子』をそこまで責めたいとも思わない。実際、観客に嘘以上のこと(つまり、ここでは恐怖)を体験させるのは容易ではない。それはほとんどアートの仕事と言っていいだろう。だからこそ黒沢清の様な人がホラーとアートの融合に成功したのだ、と私は疑っている。

 

『名探偵ピカチュウ』

『名探偵ピカチュウ』を見た(まさか見ることになるとは思わなかったのだが)。
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しかし、なかなか楽しめた。なぜ楽しめたかの説明は、『アベンジャーズ/エンドゲーム』の時に書いたこと(『アベンジャーズ/エンドゲーム』 - しゅばいん・げはぷと)の繰り返しになるだろう。つまり、「嘘から嘘以上を期待せず、ただ嘘を楽しむ」という姿勢が私の中にすでに確立しているからこそこのようなCG映画を真正直に楽しめる、ということだ。おそらく、このような態度は多くの人々に共有されているのだろう、だからこそこの手の映画がヒットするのだろう。

それを強く感じるのは、今作はなにしろ題材がポケモンなので実写とCGの融合があまりうまくいっていないように思うからだ。実写の中にアニメがある、という違和感が強くあるのだ(昔の『デスノート』の実写化などで感じた強烈な違和感などとも大して違わないのではないだろうか?)。が、それもこれも全てはそもそも嘘の内部だからこそ結局は大して気にせずに楽しめる、というのが現代の我々のメンタリティだろう。現に私は楽しめた。作り物を作り物以上としてみず、その限りで楽しむ、という作法だ。それはそれで悪いことではないと思われる。物語を現実の鏡としてみるように観客に強制する映画は物語に過ぎないものを現実と混同させるが、ポケモンの実写にはそのような悪影響はないと思うからだ(もっとも、小さい子どもたちに対してはどうであるかわからないが)。

ホワイトノイズマシン瞑想のすすめ。

私はヴィパッサナー瞑想を日々実践しているが、瞑想中の騒音の対処についてなかなか苦慮している。私の場合、騒音は具体的に言うと(一番ひどいのは)いびきだ。私のアパートはボロボロの木造なので、下の階の住人のばかでかいイビキがダイレクトに聞こえてきてしまう。しかもその人は仕事のない日は昼も夜も寝ているらしく、私の方は休まる暇がなくなり、きつすぎる。普段は彼は夜仕事らしく、私は休日の昼間家にいるときはずっと彼のイビキを聞くはめになっていた。半年ほど(いや、もっとだったかな?)少なくとも瞑想中はそのいびきを聞きたくないので必ず耳栓をしていたのだが、確かにいびきは聞こえなくなり、しかも瞑想は簡単に深まるようになったのだが、耳栓が瞑想と日常生活を完全に別個のものに分け隔ててしまったように感じていたし(そのために日常生活に瞑想の効果が出にくくなっていたようにも思う)、どういうわけか聴覚をはじめとする諸感覚がかなり敏感になってしまったように感じていた。そもそも、ヴィパッサナー瞑想は起こることにただ気づくという瞑想なのに、聴覚を遮断することで起こることをかなり制限してしまっていたのがよくなかったのだろうと思っている。とはいえ、毎回毎回イビキとイビキに怒りで反応している自分に気づいて、というのを何十分もやっている訳にはいかない。

だから、私は最近はホワイトノイズ・マシンを使いながら瞑想している。下の階の奴がイビキをかき始めたとしてもそれがわからないぐらいの音量でノイズを発生させながら瞑想するのである。確かに、理想的な環境とは言えない。ノイズによって瞑想の深まりは多少阻害されているのかもしれない。しかし、耳栓をしていた頃よりも少なくとも日常生活ではのほほんとした気持ちでいられることが多くなったような気がする(ただ、瞑想とは関係のない他の原因に依っている、という可能性は大いにあるが……)。ともあれ、瞑想者で騒音に悩んでいる人がおられるなら、ホワイトノイズ・マシンをおすすめする。安いものはすべておすすめできない。リピート音なので、瞑想しているとあるパターンの繰り返しに気づいてしまい、気が気でなくなる(下手をすると幻聴が聞こえ始める)。マーパックという老舗の自然音を出すマシンがあるが、これは自然音なのでリピートではないが、あまりおすすめしない。音量が小さく、また音色も乏しく、イビキには全く対処できなかった(どんだけひどいんだ、下の階のやつは!)。LectroFanというのが、どうやら一番いいっぽい。デジタルだがリピートではなく、独自のアルゴリズムを使ってその都度新たに音を発生させているらしい。音量も幅がある。おすすめ!

 

 

『存在してしまうことの害悪』について、その2

前回の記事(「無」の種類(『生まれてこない方が良かったーー存在してしまうことの害悪』について) - しゅばいん・げはぷと)で私は、存在と無の比較というものは、実はできるようでできないのではないか、あるいは、できるかできないのかもよくわからないのではないか、という結論に達したわけだが、しかしそもそも子どもを生むということと生まないということは、存在と無の対立なのだろうか?

つまり、こういうことだ。物理主義的に考えると、子どもが存在するようになるとは無から子どもが存在するようになるということではない(質量保存の法則に反する)。そうではなくて、すでに世界に存在する諸々の物質が分解なり再結合なりして子どもになる、ということだろう。そのとき、物質は形を変えたとはいえ、この変化は有→有という流れに過ぎない。ちなみにこれは、前回の記事で私が設定した「私関係での不在」における有からの逃れ難さとは異なる。「私関係の不在」というのを簡単に説明すると次のようになる。なにかが(絶対的に)存在しない状態というのは思考も想像も不可能だが、しかしまぁともあれ「なにかが(絶対的に)存在しない」ということがあると仮定しても、それでもその「なにかが存在しない」は「無」ではない。というのも、その「なにかが存在しない」は私(=全体、という意味での)という存在の内部のことにすぎないのだから、それは「無」というよりか(「有」を前提としているという意味で)「不在」と呼ばれるに相応しい。そのような「不在」のことを私は「私関係での不在」と呼んだのだった。これもまたある意味で「有でしかあり得ない」ということなので、上の物理主義的な子どもの生誕に関する見解と同じであるといえそうだが、そうではない。「私関係の不在」レベルで子どもが存在していないことを考えるとき、その子どもは本当に、絶対的に存在していないのであるが、にもかかわらず、そのこと自体は私という存在(有)の内部で起こっている過ぎないので無ではないという筋道になろう。一方物理主義的な考え方では、「子どもが存在しない」という状態そのものが否定されている。少なくとも子どもの構成要素はずっとあったのであるから、子どもは「存在しない」から「存在する」に移ったわけではない、という話になる。そしてこの話は(ある意味で)正しいだろう。とすると、「子どもを生むのは道徳的にどうなのか」という問いは、「子どもを存在させるのは道徳的にどうなのか」という問いではなく、「非意識的物質郡を(苦痛、快楽等を感じる)意識的物質集合体に作り替えるのは道徳的にどうなのか」といったような問いへと変換させるのが妥当だということなるのだろうか。しかし、そう単純に行かない。なぜなら、ここに「意識」というワードが入ってきてしまっったからである。意識はどこから来たのか?

私はこれまで、「私=全体」などと書いてきたが、これはもちろん永井均の〈私〉の一側面を(ここでの話に都合のいいところを、恐る恐る)すくいとった表現だった(少なくともそのつもりだった)。その一側面とは「これが実はすべてで、これしかなく、これがなければすべてがないのと同じで、他に並び立つものがない」という意味での私のことだ。現実には私とはこの私しかなく、それがすべてである。しかし、「現実には私とはこの私しかなく、それがすべてである」ならば、他にそのような〈私〉はあり得ないわけだが、しかしそのような〈私〉自体が概念化されて(現実が「現実という概念」に過ぎないものにされて、〈私〉が《私》にされて)他者に《私》が振り分けられるようになる。いや、というよりも、《私》のない他者というものを理解することは無理(?)なので、他者というものの理解のうちに《私》がすでに入っていないといけないというべきか。ともあれ、この《私》というものが(他者の)「意識」という概念の由来なのだとここでは考えたい。(このことについてもっと精緻に考えたいなら、永井均の諸著作(例えば『なぜ意識は実在しないのか』や『世界の独在論的存在構造』)辺りを読むしかないだろう。)

というわけで、話をもとに戻すと、「子どもを生むのは道徳的にどうなのか」という問いを「非意識的物質郡を(苦痛、快楽等を感じる)意識的物質集合体に作り替えるのは道徳的にどうなのか」という一見「有→有」の図式に見える問いへと置き換えたとしても、実は「無→有」の構図は崩すことはできない。なぜなら、意識は無から有になったからである。そして、その「意識」の由来は《私》で、そして《私》の意味内容は〈私〉と同じで「私=全体」ということだから、「意識がない」ということを考えるためには「全体(すべて)がない」ということを考えなければならず、そして「全体(すべて)がない」ということは考えられない。だから、「非意識的物質郡を(苦痛、快楽等を感じる)意識的物質集合体に作り替えるのは道徳的にどうなのか」といってみたところで、なんにも解決しないのである

 

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

 

 

「無」の種類(『生まれてこない方が良かったーー存在してしまうことの害悪』について)

『生まれてこない方が良かったーー存在してしまうことの害悪』は結局、すべて読みきれなかった。確かに、苦痛と快楽が非対称だという主張には、著者も書いている通り絶対的な根拠は与えられないだろうが、曲がりなりにもそのことを主張しているのだから、もう少しそこのところを詰めてもよかったように思う。特に、「存在」(というか、その反対の「存在しない」ということ)についてもうちょっと議論があってもよかったのでは。これについて私がちょっと考えたこと、本書を読んでいる間にずっと頭にちらついていたことをここに書いていきたいと思う。

まず、苦痛と快楽の非対称性を引用する。


(1)苦痛が存在しているのは悪い。
(2)快楽が存在しているのは良い。
(3)苦痛が存在していないことは良い。それは、たとえその良さを享受している人がいなくとも良いのだ。
(4)快楽が存在していないことは、こうした不在がその人にとって剥奪を意味する人がいない場合に限り、悪くない。


さて、(3)の意味するところは、(3a)もともとあった苦痛がなくなることはいいことだ。(3b)そもそも苦痛が存在していないこともいいことだ。ということだと、ここでは言い換えたい(厳密ではないかもしれないが、厳密にできない理由が、徐々に明らかになってくるだろう)。

次に(4)だが、それが意味するところは(4a)もともとあった快楽がなくなることは悪いことだ。(4b)そもそも快楽がないことは悪いことではない。ということになるだろう。そして本書では、(3b)と(4b)を考慮して、そもそも存在などしない方がいい、と主張するのである。

しかし、「存在しない方がいい」と言うが、誰が、あるいは何が存在しないということなのか? そこのところがはっきりしないのが、本書の歯がゆさであったのではないだろうか。「存在しない」ということ、つまり「無」はまず、何が存在しないかによって分類しなければならないと思う。というのも、そのことによって無の性質が全然違ったものになってしまうからである。すなわち、私(=全体、という意味での)が存在しない場合に言われる無と、その全体内で何かが存在しない場合に言われる無である。

まずは私の無から。自分が存在しないという状態は、絶対想像できないし、どういうものか理解することさえ不可能だろう。というのも、私が存在しないとはすべて(=全体)が存在しないということだが、しかし例えばその状態を想像や理解をしていたとしても、少なくともその想像や理解はあるということになり、つまりそれは「すべてが存在しない」ということと矛盾してしまい、やはりその想像や理解は不可能なのである。私の無とは「完全な無」である、がゆえに、全くわけのわからないものである。

しかしながら、『存在してしまうことの害悪』で「存在しない」という言葉が使われているとき、それは上の意味での「完全な無」を指しているわけではないようだ。というのも、本書は反出生主義の本なのだから、まずは私=全体がいて(あって)、その上でそこに新たに命を創造してよいものかを考えるべきだからである。というわけで、以下で見る「全体内で何かが存在しない場合に言われる無」が本書に直接関係があることのようだ。まず、それについて軽く見通しを立てておきたい。

私=全体がないことを「完全な無」と読んだことに対応して、「全体内で何かが存在しない場合に言われる無」を「部分的な無」と呼ぼう。そして、私が見たところ、言わばその強度に応じて「部分的な無」はさらに三種類の分けられる。すなわち「時空間関係での不在」と「概念関係での不在」と「私関係での不在」である。すべてが「無」ではなく「不在」に過ぎないことがまずは重要だ、と言っておこう。「不在」とは「なにかがあると前提された上で、それがない」ぐらいの意味だ。


無→完全な無
 ↘ 
  部分的な無→時空間関係での不在
       ↘
        概念関係での不在
       ↘
        私関係での不在


 まずは一番無の強度が弱いと思われる、あるものが「時空間関係での不在」であることの意味を説明したい。といっても、これはかなり単純である。要は、あるものがあそこにはあるがここにはないという意味での不在(空間関係)、あるものが以前はあったが今はないという意味での不在(時間関係)がそれである。このような意味で「無」あるいは「ない」という言葉が使われるとき、その意味するところは直ちに、容易に理解される。苦痛と快楽の非対称性でいうと、
(3a)もともとあった苦痛がなくなるのはいいことだ、
(4a)もともとあった快楽がなくなるのは悪いことだ
が「時空間関係での不在」と関連する。(3a)も(4a)も価値判断の正否は別にして、言っていることは容易に理解できる。

次は「概念関係での不在」である。これはいってみれば、次のような意味での不在だ。例えば「リンゴが(そもそも)ない」という言明があり、そして実際にリンゴがなかったとする。しかしそれでも、これは「リンゴの完全な無」を言い当ててはいないだろう。というのも、「リンゴ」という概念がまずは前提とされて、その上で「それが」ない、とされているだけだからである。これは以前として無ではなく不在である。「概念関係での不在」である。苦痛と快楽の非対称性でいうと、
(3b)そもそも苦痛が存在しないのはよいことだ
(4b)そもそも快楽が存在しないのは悪いことではない
と関係する話だ。たとえ「そもそも」ないと強調したところで、なにかがないのだから、その「なにか」はまず前提されなければならない。そうでなければ、なにがないかがわからない。しかし、それを前提としてしまえば、「そもそも存在していない」ということの(少なくとも完璧な)理解には達していないと言わざるを得ない。というわけで(3b)も(4b)も、価値判断部分もさることながら、実は起こっている事態(そもそも存在しないということ)からして我々に理解できるかどうかが怪しい。理解できている場合は、暗黙のうちに苦痛あるいは快楽(がある状態)がすでに前提されてしまっているだろう。そしてそれは「無」ではなく「(苦痛あるいは快楽の)不在」である。「概念関係での不在」にすぎないだろう。

しかし理解できない(思考できない)にしても、「なにかがそもそもない」という事態は「ある」のではないか、という気がしてくる。もちろんここでも思考の上では「ない」が「ある」に吸収されてしまっているのであるが、思考の外には、「なにかがそもそもない」ということが常に起きているような気がしないでもない(ここでもやはり、「思考の外」といいながらも、「ない」が「起きている」=「ある」に吸収されてしまっているのだが)。だから、「なにかがそもそもない」という事態をありうるのだ、と一応仮定してみる。すると、仮定としてではあるが実現されたその事態は「不在」ではなく「(完全な)無」だろうか。そうではないだろう。なぜなら「なにかがそもそもない」ということは私=全体という存在の内部でのことだからである。確かにそのなにかは完全にないのだが、それもまた私=全体の内部のことにすぎない、という意味で、それは「不在」にすぎない、よってこのことを「私関係での不在」と呼ぶ。(3b)や(4b)で言われていることをちゃんと考えたければ、実はこの「私関係での不在」との関連で思考しなければならないのだったが、しかし「私関係での不在」は思考不可能であることはすでに述べた。なので、(3b)や(4b)が思考可能な「概念関係での不在」のレベルにまで落ちて議論されることとなるが、それは妥当なことなのだろうか? 本書ではつまるところ、妥協して(?)そのレベルでの議論がされていたのだが、私が知りたかったのはそんなところではなかった。

ともあれ、まとめるとこうなるだろうーーなにかを存在させることがいいことか悪いことかという疑問以前に、なにかが存在しないこととすることを比べるということが出来るのかがまずよくわからない。出来ている時の「なにかが存在しない」は実は「概念関係での不在」レベルにすぎず、それは「なにかが存在しない」ということについて不徹底であって、徹底すると「なにかが存在しない」を「私関係での不在」レベルで思考しなければならないが、しかしそれは思考不可能なのであった。だから「概念関係での不在」レベルで満足しその水準で議論するか、それとも考えるのは無理だとして諦めるか、どちらかしかないのではないだろうか?

 

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪