しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『来る』

『来る』を見た。つまらなかった。
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前半の妻夫木始めこの世界の住人のクソさを見せつける辺りは、確かにかなりよかった。みんながみんな「嘘」を生きているということを観客に画でわからせてしまうあたり、(たとえ怖くなくとも)この調子なら面白くなりそうだと思ったのだが、そこからが(つまり話が動き出してからが)酷い。みんながみんなドヤ顔でベラベラと毒を吐いたり、トラウマを語りだしたり、俺はお前の鏡みたいな存在だとかこちらが大して興味を持っていないキャラが言い出したり、外し演出そのものが外していたり……ホラー描写も記号記号記号……へレディタリーの感想では批判めいたことを書いたが(『へレディタリー/継承』が怖くない理由 - であ・あいんつぃげ)、こういうものを見たあとでは、単純にクオリティーの差に驚いてしまう(もちろんへレディタリーの方が圧倒的に優っている)。ともかく今作は焦点がボケボケである。不条理を描く時さえ、いやその時こそ、考え抜かれなければそれは描けないはずたが……

『へレディタリー/継承』が怖くない理由

大評判だったので『へレディタリー/継承』をかなり楽しみにして見に行った。面白くなくはなかったが、怖くはなかった。
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そう、面白かったとは言っていい。前半に起きる惨事からの一連の展開は、はっきりと最悪である(という形で面白い)。しかし、ホラー映画としては、つまり怖さという面では半端であったと言わざるを得ない。その理由は、「この世界はこの映画に描かれているようなものではない」からである。

繰り返そう。「この世界はこの映画に描かれているようなものではない」。もちろんこれは、この現実世界には超常現象などない、などということを主張するものではない。ホラー映画を見に行っておいてそんなことを主張するほど私はバカではない。私が言いたいのは、私たちが持つ恐怖という感情(の内、最も激しいもの)は、この映画で描かれている世界観からは決して導かれないということだ。順に説明しよう。

さて、そもそもどうして世界は「こう」なのだろうか? そういう問いに対する様々な答えがここでいう世界観である。ところで、この問いにはそもそも答えることができない。というのも、例えば科学主義的な世界観の人が自然法則が世界をこうしているのだ、と答えたとする。しかしこの時さらに、ではなぜ自然法則法則はそうなっているのか、と問われたならば、万事休す、ただ「そうなっている」からだ、と繰り返すことしかできず、理由はわからないということになる。いや、神が自然法則をそのようなものとして作ったのだ、神が全ての原因(理由)なのだ、と言ってみたところで、じゃあその神はどうやって出来たのだ、と問われれば万事休す、ただいるのだ、と繰り返すことしかできない。もちろん、その神を作った神がいるのだ、と言ってみたところで、じゃあ神を作ったその神はどうしているのだと問われれば、万事休す、神を作った神を作った神をまた想定せざるを得ず……といった具合に無限後退に陥ってしまう。逆に言うと、この不可避的な無限後退を覆い隠すのが、(この文脈では)神なのだ。それでは、その覆いがとれてしまった「不可避的な無限後退」とは何なのか。

「不可避的な」ということなのだから、「無限後退」は理屈で考えればそれに至らざるを得ないということである。しかしだからといってそれは、私たちが知りたかったもの(この世界の根源的理由)自体が理屈でわかったことを意味しない。わかったのは、無限後退によって阻害されるので「それ(この世界の根源的理由)は絶対にわからない」ということである。「絶対にわからない」とわかったのだ。

「絶対にわからないことがある」ということはわかった。さて、このことをどう評価すべきだろうか? 絶対にわからないこととは「この世界の根源的理由」のことであるが、それは絶対にわからないのだから、そもそもそれがあるのかないのかさえ不明である、というか、「ある」とか「ない」とか「理由」とか、そういった言葉で表現出来るのかさえ不明である、とさえ言えるかもしれない。であるならば、およそ「評価」など実は無駄であろう。

しかし、おそらく私たちはそれを評価せずにはいられない質なのだ(評価せずいることも可能ではあると思うが)。そしておそらく「絶対にわからないこと」(あるいは「絶対にわからないという事態」)をプラスに評価した時に「奇跡」や「驚嘆」などの表現が、マイナスに表現した時に「不条理」や「不安」などの表現が使われることになる。ここでようやく本題に戻るが、私は、恐怖の感覚(の内、最も激しいもの)が後者に根ざしている、と主張したいのである。

本作『へレディタリー』で私の一番の不満点は、「絶対にわからないこと」自体はそもそも描くことができないにしても(描けたらわかったことになってしまう)、それの評価に過ぎない「不条理」「不安」にさえ本作は達していなかった、ゆえに怖くなかったことだ。それもそのはずで、世界観が「神レベル」だったからである。もう少し正確に言うと、全ては悪魔(崇拝)のなせる技だったわけだが、結局のところそれは「神がいるという世界観」に他ならない。これまで説明してきたように、「神レベル」を超えて無限後退のレベルに一度は至らなければ、恐怖の源泉である不条理や不安にたどり着けない。ラストのがっかり感は以上の理由によるのだった。つまり、「うまくまとまる」ことへのがっかり感。本作の、それだけ見れば美点であるはずの「よく練られた」脚本や「美麗な」ビジュアルもまた、「うまくまとまる」方向を強く印象づけてしまった。

 

『ボヘミアン・ラプソディ』

クイーンの伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』を見た。私はノレなかった。
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と言って、私が楽しめなかったのは当然といえば当然で、(ある意味で)私が悪い。というのも、私はクイーンのファンではないのだから。見に行った私がどうかしていたのだ。禁煙していて頭がぼーっとしていたのも悪かったのかもしれない。

という断り書きをしておいて、しかしなおこの作品の出来は大したものではなかったという主張はしておこうと思う。

私の論点は次のようにまとめられる。:今作がつまらなかったのは、見たあとの印象が、「人生色々あり、その全てが爆発するようなラストのコンサートが最高だった」といったものではなく、「人生色々あってその全てが爆発するようなラストのコンサートっていう「映画の構成」っていいよね」というものに過ぎなかったからである。前者であったら理想的な映画「体験」であっただろうが、実際は後者のような映画「概念」を受け取っただけであった。構成だけがかろうじてあり、その瞬間その瞬間の面白みにかけたのが、その原因だと思われる(が、ただし、クイーン好きの人が音楽の力によってその瞬間その瞬間を楽しめることは間違いないのだろうが)。確かにそれは「面白い」を含んだ概念ではあった。しかし、「面白い」という言葉自体は面白くないように、「面白い」を含んだ概念を受け取ったところで、面白くもなんともないのである。

陰惨(気)な『ギャングース』

『キャングース』を見た。あまりにも陰惨で、陰気で、見るのが辛くなった。
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とはいえ、こうも映画内に暴力が溢れているのは、暴力描写というものが監督は好きなのだろうという身も蓋もない動機を考えないことにするなら、一種の誠実さが理由なのだろう。つまり、この世界は本当に悲惨なことで溢れているのだから、悲惨にして何が悪いのか、といった主張である。

それはその通りであると思うが、しかし、(あらゆる意味での)暴力描写が目立ちすぎてはいなかったか? どころか、所々漫画チックであって(漫画原作であるとはいえ)、誠実さという言い訳が使えない場面も多々あった(そもそもからして、それは言い訳に過ぎないとは思うが)。主人公3人が妙に堅実で真面目で辛気臭かったこともあって爽快感もほぼなかった(ラストですら、カタルシスを半減させられるとは!)。しかし、現実の辛さを容赦なく描いているのだから主人公3人はこれでいいのだ、と言われるかもしれない。しかし、であるなら再び、あのオーバーな暴力描写は何なのだと問いたくなる。

というわけで、結局のところ、ただただ気が滅入る映像を見せられている気分になった。それも、現実の悲惨さを知ったから「ではない」。真面目なのか、それとも暴力を楽しみたいのか、どっちつかずだったのことが、そしてその狭間でちょくちょく顔を覗かせた「言い訳」が私の気を滅入らせたのだ。

しかし、東浩紀似のトラックドライバーが出てくるのは必見だ!!

最高な『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』

ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』を見た。めちゃくちゃ面白かった。先の読めない展開、善も悪もクソもない剥き出しの暴力、淡々としているようでいて緊張感のある演出……
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しかしまぁ、『イコライザー2』のときも思ったが、こういうひたすら面白い映画というのは、別にこちらとしては言うべきことがあまりない。ただ、前作は見返していないが、前作よりは面白いのは間違いない、それだけは言えそうである。前作のドゥニ・ビルヌーブの演出は緊張感に溢れていたというより、(彼の作品はいつもその傾向があると思うが)ただ「緊張感に溢れているという演出意図」を観客である私が受け取っていただけのように思う。言わば、私は緊張で体をこわばらせたわけではなく、緊張で体をこわばらせる「べき」場面なのだろうと、あくまでも抽象的に理解し、理解できたことを(他人に、自分に)示したくて緊張した「ふり」をしていた。「こういうのが逆に緊張感があるんだよ! 僕は知っているんだ!」というわけである。一般にアートと呼ばれるものはより抽象的である方が「偉い」とされる傾向があると思うので、今作よりも前作の「抽象的な緊張感」の方が尊ばれるのは当然と言えば当然だが、今作の脚本家の監督作である『ウインド・リバー』を見たあたりで、私はどうもその「抽象的な緊張感」に決定的にうんざりしてしまったようである。あの作品も「緊張すべき」であることは伝わってきたが、実際のところ私はあくびを噛み殺していただけであった。

さて、それでは今作はどうだったかと言うと、前作ではまだまだ「演出意図としては緊張すべき」という抽象的な段階に留まっていたのに対して、演出の方向性は同じなのにも関わらず(そう、そここそが素晴らしい!)、実際に観客である我々(私)を緊張させることに成功している。他では味わったことが(あまり)ない緊張感、振り回され感、寂寥感、素晴らしかった!

 

ボーダーライン(字幕版)
 

 

ボーダーライン

『エミールと探偵たち』

『エミールと探偵たち』(原題“Emil und die Detektive”)をドイツ語で読んだ。

 

エーミールと探偵たち (岩波少年文庫 (018))

エーミールと探偵たち (岩波少年文庫 (018))

 

 

飛ぶ教室』や『点子ちゃんとアントン』、はたまた大人向けの『ファービアン』など、ケストナーの作品はこの一年で随分と(ドイツ語の勉強のために)読んだ。ケストナーは主に児童書で知られているが、しかし彼の作品は厳密に言うと「子どもが読む本」(児童書)というよりか「子どもについての本」という気がする。もちろん子どもが読めるように作られているのは間違いないが、しかしその実、子どもを客観視できる人、つまり大人でなければ面白みがわからないのでは、と思うことも多々ある。例えば今作『エミールと探偵たち』では、子どもたちが探偵の真似事をしている場面が可愛らしく、明らかに読み手にそう思わせるのを狙っているが、しかし当のこれを読むような子どもがエミールたちを「可愛らしい」などと思うことはないだろう。そう思うのは大人だけだ。

(もっとも、逆に「可愛らしい」と思うのは私が大人だからに過ぎないのかもしれない。子どもたちはもっとストレートに楽しむのかもしれず、「可愛らしく」思わせようなど端から意図されていなかったのかもしれない。)

ともあれ、安定したケストナー・クオリティであった(マザコンぽさが多少目につくようになってきたが)。前も書いたかも知れないが、ドイツ語の勉強のためなどに読む場合、最初は『点子ちゃんとアントン』あたりがいいと思う。

 

Emil Und die Detektive

Emil Und die Detektive

 

 

Puenktchen & Anton

Puenktchen & Anton

 

 

『ヴェノム』とマインドフルネス

『ヴェノム』を見た。つまらなかったことは間違いない。アクションの半端さ、コメディの半端さ、ストーリーのどうでもよさ……
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とはいえ、この映画にとっては全く本質的な事ではないが、しかし考えるべき点がないではなかった。それを一言で表現してみれば、心の声と瞑想の関係、とでもなるだろうか。

主人公のエディが仕事を失くし恋人に去られ不幸のどん底に落ちた時、彼は起死回生を夢見て再度悪役のラボへの取材を敢行する。しかしそこで地球外生命体のシンビオートに寄生され「ヴェノム」になってしまい、それ以来心の中でその寄生生物の声が聞こえるようになる。それを制御できない彼はしばしば統合失調症患者のような振る舞いをしてしまうのだった。重要なのは、「ヴェノム」になる前、不幸から抜け出すためにエディが(馬鹿にしたような演出とともにではあるが)瞑想を試みようとし、失敗する場面があることだ。

私の知っている限りの瞑想、すなわち巷でマインドフルネス瞑想と呼ばれているものは、心の声を対処する(消す)のが目的(の一つ)だが、ここで描かれているものも同じようなものだとすると(おそらく制作者の意図を超えて)この瞑想失敗→心の声の氾濫→精神病(のメタファーとしてのヴェノム)という流れはかなり的を射ていると思った。不幸ゆえに氾濫した心の声に対処できず、彼は精神病者になったのである。

心の声はしばしば(この映画のキャッチコピー通り)「最悪」である。精神病者にまでならなくとも「最悪」である。この映画の中でその好例と言えるのは、ヴェノムがエディの恋(?)を後押ししているかのように見せかけてただおちょくって楽しんでいる場面だ。これをヴェノムというメタファー抜きで見てみると、その「不幸」は明らかだろう。自分にとって大事な事柄にさえ心のどこかでは真剣になれない人間の「不幸」である。最も、この映画の他の全てと同じように掘り下げが足りないし、基本コメディなので、そうは映らないだろうが。ともあれ、瞑想することの大きな利得の一つは、このような「真剣になれない心の声」を消し去ってしまえることだ。