しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『クワイエット・プレイス』

クワイエット・プレイス』を見た。傑作だろう。最近は映画に限れば面白いものばかりにあたっている。
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アイディアやストーリーや演出の妙などは一見すれば自明なので、ここでは触れない(というより、そういうことについて語る気にならないだけか)。例のごとく、この映画の土台となっている「思想」についてちょっと一言。

先に私はこの映画が「傑作」であると書いたが、しかしこと「思想」面においてはモヤモヤしたものがないでもなかった。そのモヤモヤとは(たぶん結構多くの人が感じたであろうが)「こんな世界で子どもを作るのはどうなの?」ということである。私の場合、あんな絶望的な世界でなくともこの現実世界においてさえ同様の疑問を持たざるを得ないものだから、なおさら違和感は強かった。世界がああなった後に妊娠したという計算であったと思うが、ちゃんと覚えていない。とはいえ、そうであってもなくとも、あの世界で子どもを産むということの正しさは実は全く自明なことではなくて、1つの決断・価値観・「思想」である(にすぎない)と考えていいだろう。もちろん「あの世界」ではなく「この世界」であっても「子どもを産むことは無条件にいいこと」などということはありえないはずだが、今作が楽しめる程度にはやはり(私も含め)多くの人にとって「無条件にいいこと」のように思われている(思われてしまう)のだろう。「なにはともあれ子どもは作るべきではない」という思想を表明するのは、確かに憚られる(しかしまぁ、子どもを作ることはいいことであると素朴に考えている人はやっぱり理解できないなぁ。少なくとも、自分たちが子どもを作る動機を反省してみたならば、そこにきれいなものだけが見つかるなどということは有り得そうにないが。まぁただ、どういうわけか多くの人は自分の欲求は「自分」の欲求であるがゆえに正しいと「自動的に思っている」みたいだから……)。

とはいえ、この映画は上のモヤモヤは主に2つのことによって乗り越えていると思う。1つ目はこれがホラー映画だから、というもので、2つ目はストーリーによって、ということになる。1つ目については、つまり、これはただのエンタメで、楽しめばいいんだよ、そして現にただ楽しいでしょ、ということを意味しているにすぎないから、説明は不要だろう(ラストシーンのバカさ加減を見よ!)。2つ目について言うと、この映画は愛についての物語で、物語の終盤で父親が娘に贈る愛の大きさが観客に「それでも世界は生きるに値する」と思わせることに成功している、ということだ。もちろん、ここでもなおこの愛の価値を否定することは大いに可能だと思うが。例えば仏教風に「愛など煩悩の一種に過ぎない」などと嘯いてみれば、なるほど確かに、そもそも愛などなければこんな悲劇全体が生まれないではないか、という視点を獲得する。とはいえ、どちらの立場に立つかは、結局は個人の(究極的には「正しい・正しくない」などと言った問題とは全く無関係な)選択の問題であると思うが。

最近考えた外国語勉強法

最近のドイツ語の勉強。どれが面白いドイツ語の本かを調べるのがめんどくさかったので、省略のされていない(ungekürztと検索)オーディオブックがある本を選んだ。たしか、アマゾンの検索結果の一番上に出てきたのが“DIE CHEMIE DES TODES”で、問題なさそうだったからそれを買ったのだが、後になってこの本、英語で書かれた“THE CHEMISTRY OF DEATH”のドイツ語訳だと知った……多分、洋書読みが趣味の人間にも二通りいると思うが、その外国語で書かれているのならそれが違う言語からの翻訳でもなんでも構わないと思う人と、原書がその外国語で書かれていないと意味がない考える人である。私は明らかに後者で、例えばハリー・ポッターをわざわざドイツ語で読もうなどとは夢にも思わないわけだが(もちろん、ここではハリー・ポッターはよく知られている英語の本の一例として出しているだけで、ハリー・ポッターがつまらないから読まない、と言いたいわけではない。つまらないとは思うが)、まぁ買ってしまったので仕方なく読んでいる。とはいえ“DIE CHEMIE DES TODES”は面白い。レベルの低い外国語学習者のうちは、やはりこういった先が気になって仕方がないものがちょうどいいのだろう。そのうち歯応えを求めて「文学」に向かうわけだが。

それはさておいて、オーディオブックを使うと、日本語の字幕を見ながら外国語の映画を見るという楽しみが本でもできてしまうと最近発見した(多くの外国語学習者にとっては既知?)。どういうことかと言うと、なんてことはない、日本語訳の本を見ながら外国語のオーディオブックを聞く、ということである。これは映像がないだけで、映画を字幕ありで見るのと同じで、しかも映画より単純に言語量が多いから、ドイツ語の映画でいいのが見つからないなあと思っていた私には良い発見であった。英語は(もちろん勉強のためではないが)映画を見まくったおかげでリスニング力はまぁまぁついたと思うので、同じ原理でドイツ語が勉強できるのは嬉しい。このリスニングの勉強法がいいのは、意味は日本語で瞬時に入ってくるので、聞き取る方に意識を集中できることにある(意味を考えているうちに次の文が始まってしまって、なんにも聞き取れなくなるということに身の覚えのない人などいるだろうか?)。私の場合は予め本の当該箇所(主に気に入ったチャプター)をドイツ語で読んだ後にこのリスニング法に入るが、もっと簡単な読み物ならいきなりリスニングしてもいいかもしれない。

 

法人類学者デイヴィッド・ハンター (ヴィレッジブックス)

法人類学者デイヴィッド・ハンター (ヴィレッジブックス)

 

 

『スカイスクレイパー』という僥倖


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最近、映画を見すぎている。疲れているのだろう。『アントマン&ワスプ』に『ザ・プレデター』……2つとも見なくていい映画だった(つまらなかった)。ドウェイン・ジョンソンが好きなので『スカイスクレイパー』もそうであったら嫌だなぁと心配していたのだが……杞憂であった。最初の過去のシーンからして、これは少なくともつまらない映画にはならないだろうと確信した。最近の実写アクションだったらこれで決まりだろう。客があまり入っていなくて腹立たしくなったほどだった(とはいえ、題材が古臭いのは否めないが、それがよくもある)。

この映画、結構アクションの見せ方がうまいし、ダイ・ハードに出てきそうなあのただのチンピラっぽい敵のボスも含め登場人物たちはみな存在感があるし、それでいてなんだか全編バカらしさが漂っていたりと、結構バランスが良かったと思う。面白かったものだから、見終わった後に監督が誰か調べてみたら、あの『なんちゃって家族』の監督だったなんて! そりゃあ、面白くなるよなぁ!

ところで前回の記事(『THIS IS US 36歳、これから』 - であ・あいんつぃげ)で私は、「家族ないし愛こそ全て」という価値観の内部における「内輪もめ」に過ぎないものを永遠と見せ続ける『THIS IS US』という海外ドラマを批判した。さて、今作『スカイスクレイパー』はどうであろうか? ザ・ロックは永遠と家族のために、家族のために、家族のために……頑張り、そして勝利を手にするわけだが。

いや、今作は「内輪もめ」ではない。理由は2つある。第一に、悪役の活躍が目覚ましく(かなり残虐非道な奴らである)、観客に結構なインパクトを与えると思うが、彼らは明らかに「家族ないし愛こそ全て」という価値観の内部にはいないから。第二に(こちらの方が重要だが)、「家族のために」の過剰さが「家族のために」を逆に相対化してしまって、ほとんどギャグとも言っていい感触を観客に与えるから。この映画を見て別に「感動」する人はいないだろう。ロッキーがエイドリアンを探すように、ラストでザ・ロックが観衆の中から家族を見つけ出そうとも、そこにあるのは「やりすぎ感」だけだから。

良作とされるのは当然『THIS IS US』のような作品なのだろうが、良作が自明として疑わない価値観を(図らずも)『スカイスクレイパー』のようなどうしようもない作品が暴き出してしまう。それにしても『スカイスクレイパー(摩天楼)』って、ダサい題名だ!

『THIS IS US 36歳、これから』

 

 

海外ドラマの『THIS IS US 36歳、これから』(のシーズン1)を見た。この手の話は長く続けるのは無理だろうと踏んでいたので、これで完結でなかったのは(見るのに休日を1日ちょっと潰した身としてはなおさら)ショックだった。今の時点でも長すぎだと感じたのに、シーズン2があるとは……絶対に見ないだろうなぁ。4話目ぐらいまでは格別に面白かったものの、(ほとんど全てのドラマシリーズがそうであるように)それ以降は意味ありげだが実はどうでもいいエピソードを注入して無駄に話が膨らむだけである。肥満の女がダイエットに挑戦しては失敗し、また挑戦しては失敗し、を繰り返したり、イケメン俳優が女優とくっつき脚本家とくっつき、その虚しさに気づいて元妻とくっつくが仕事の関係でまた二人は離れ離れになりそうだったり、赤ん坊の頃の自分を捨てた実の父親は余命幾ばくもないが中々死なず、その間に彼がバイセクシャルであることが判明したり……いくらなんでも散漫に過ぎよう(特にダイエットエピソードは全てがいらない)。とはいえ、各登場人物が抱える“主要な”問題についてのエピソードでは面白いところがかなりあったので、それに的を絞れていればかなりよかったはずなのに、と思いはするのだが(しかし、肥満の女は、見た目はかなりインパクトがあるにも関わらず、キャラの薄さが否めない。はっきり言っていてもいなくてもいいキャラだが、他のメインキャラ同様の時間を食う)。

今作の話し運びは結構特殊で(故に長くは続けてはいけないと思うのだが)、今はもう大人である三人きょうだいによる現在の話(しかも三人別々の話だったりする)と、彼らの親を中心とした家族の昔の話とが、なんとなくのテーマ的統一(例えば子育てなど)を持って並行的に語られる(つまり、多いときでは4エピソードが並行して語られるのである)。かなり凝った構成で、それこそがこの作品の肝だということは承知の上でだが、そのことはここでは問題にしない。私が問題にしたいのはむしろ、全編を貫く価値観の方だ。

といって、何か変わった価値観がにじみ出ていたのではない。たぶん連続して見たこともいけなかったのであろうが、この「ハートウォーミング」な雰囲気にはかなり辟易してしまった、ただそれだけである。「家族こそ全て」「愛こそ全て」云々かんぬん、およそ常識的に過ぎる価値観がこの作品の屋台骨であって、それが揺るがされることはない。もちろん家族「に関して」、あるいは愛「に関して」不幸な人間が登場しないわけではない。しかし、彼らが不幸なのは家族の、あるいは愛「ゆえに」ではない。彼らは「本物」ではない家族や、「本物」ではない愛ゆえに苦しんでいる(あるいはそもそも家族や愛がないから苦しんでいる)のであって、「本物」の家族や愛を得れば幸せになる、そのことがこの作品内で疑われることはない。あくまで愛や家族「に関して」苦しんでいるのであって、それら「ゆえに」苦しむことはあり得ない。「家族」や「愛」そのものがそもそも人を苦しめることもあるのではないか、という視点のとり方が完全に欠如しているのだ。それゆえに、今作の中でどんなに家族や愛「に関して」不幸な人間が出てこようと、「家族は大切」「愛こそ全て」という価値観の中での問題提起に過ぎないのであって、その価値観がその問題によって危うくされるどころか、それが一価値観に過ぎないということを見えなくさせてさえいるだろう。というのも、その問題は家族や愛が幸福の源泉であることを疑うわけではなく、そもそも幸福の源泉であるそれらが手に入らないがゆえに問題だと見なされてしまったのだから(すでにその価値観が前提されてしまっている)。

私は先に、「家族」や「愛」そのものがそもそも人を苦しめることもあるのではないか、と書いた。とはいえ、私はそのことを特に主張したいわけではない。そうではなく、「家族ないし愛こそ全て」という価値観が提示された時、必然的にその価値観の反対、つまり「家族ないし愛が問題の元凶」という価値観が想定されるのだから、せめてその2つの価値観の戦いを見たい、そのうちの1つの中で繰り広げられる「内輪もめ」などつまらない、と言いたいのだ。しかし、それらがそれぞれ1つの価値観に過ぎないという視点に立つことは、どういうわけか多くの人にとっては難しいらしいというのが、私の最近の社会でした発見である。そもそもそういう視点に立てないのか、立ちたくないだけなのか、それがどうにもわからないのがまた苛立たしいのだが。『THIS IS US』では自分を客観視して、つまり一歩引いて自分を眺めて気の利いたジョークを飛ばしているキャラが多いが、それらが大して面白くないのは、多くのことでは一歩引いて見ているくせに肝心要のところではまだマジでいられることの傲慢さが原因だろう。

大傑作『寝ても覚めても』


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寝ても覚めても』を見た。大傑作! こういう完成された作品についてはもう何も言うことない。とにかく面白いので、とにかく見るべきである。

とはいえ、ほんのちょっとだけ本作の印象を書くと「人間の描けている黒沢清」といった感じであった。もっとも、人間を描いて(描けて)いない黒沢清が劣っているというわけではないが。黒沢清の場合、そもそも本作で描かれているようなことは、本作のラストの台詞を使うのなら「汚い川」なのであって、そこから離陸することに(あるいはすでに離陸していることに)映画的醍醐味を置いている。対して本作は「汚い川」は「でも、きれい」なのであるから、そのことを描くのであった。バランスが取れているのは圧倒的に濱口竜介監督の方なのであろうが、結局は好みの問題であろう。私はといえば、本作を見終わった後、濱口監督が本格的なホラー映画を撮ってくれればなぁ、と願わずにはいられなくなった。舞台女優を東出の同僚が批判するシーンや地震のシーンなど、半端ではない怖さであったからである。

『SUNNY 強い気持ち・強い愛』

SUNNY 強い気持ち・強い愛』を見た。傑作。面白かった。原作の韓国映画は昔に見たはずだが、覚えていない(楽しかったというのは覚えているが)。
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大根仁の前作『SCOOP』もかなり面白かったが、しかし今回はあのミソジニーじみたハードボイルドとは打って変わって、女性の活躍(?)しかない。バランスを取ったのかな、という気がしたが、もっと根本的な問題があるように思う。それは後に述べよう。

さて、開始早々10分ぐらいであろうか、あぁなんで俺はこんな映画見に来ちゃったんだろう、と私は一度後悔した。大量のコギャルがダサいJ-POPに合わせてギャーギャーギャーギャー……私の感性が求める心地よさと真っ向から対立するものが続々と画面に登場し、とどまることをしらない。おそらく、私のように序盤頭を抱え続けた人は少なくなかったはずである。

が、この映画、やっぱりとても面白いので結局は途中何回も泣き濡れてしまったほどだった、が、だからといって見終わった後に90年代的風物が好きになったかといえば、(最後にみんながダンスを踊るあの曲を含め)そんなことは全くない。そういう人もまた、私と同様に多かったのではないだろうか。そしてそのことが味噌である、と私は思う。どういうことか。

つまり、「中身など重要ではない」ということだ。ある人の青春時代が90年代だろうが2000年代だろうが戦中だろうが鎌倉時代だろうがゲームの中にしかなかろうが……そういう「中身」とは関係なく、人が老い、昔を懐かしみ、そして死んでいくという普遍的な「形式」にはやはり心動かされるものがあるということだ。この映画はほとんど形式において「のみ」美しく、感動的である。これは皮肉ではなく、完全な褒め言葉だ。キャラクターたちの青春時代を90年代に選んだのは、むしろあんなにやかましくて病的で空疎な時代「でも」振り返るとどうしても美しい、ということを強調するための、つまり「中身」ではなく「形式」を際立たせるための手法ではなかったか、と思われるほど、私はあの時代の「中身」と関係なしに、人が昔を懐かしむという「形式」に心を動かされていた。だから、登場人物が途中ちょっと非難を込めて「今の子たちはおとなしいよね、スマホばっかり見て」と言っていたのは完全な蛇足であった。なぜなら、自分たちもまた劣悪であった「にもかかわらず」やはり思い出すと儚く美しい、そのことがこの映画の肝でなければならないのだから(監督を含め、制作陣がどう思っているかは知らないが)。

この「中身よりも形式」というテーマはこの映画周りのあらゆるところで見られる。まず、この映画がリメイクであることが、つまり韓国でも日本でも時代や風俗が違っても、ほら、こんなに面白くなるということが「中身よりも形式」である(以前から感じていたことだが、そもそも韓国映画全般からして「中身よりも形式」性が強いように思う)。また、余命幾ばくもないSUNNYのメンバーがどうやら金持ちらしいが、彼女が何であんなに稼いだかはまるでわからないというのも「中身よりも形式」。二人の役者を異なる年齢の同一人物とみなすという映画的お決まりも観客に「中身よりも形式」を重んじるよう促す。監督の大根仁が「中身よりも形式」であるのは『SCOOP』から『SUNNY』という一見はちゃめちゃな価値観の変化を見れば明らかだ。つまり、端から価値観など(「なかった」とまでは言わないが)重要じゃなかったのであり、それよりもエンタメ(演出)という「形式」こそがこの監督にとって保たれるべきものであるらしい。そして、それは価値観という名の固定観念に支配されることに比べればよほど良いことなのだと私は言いたい(もっとも、価値観がない、という状態で固定されて、新たな固定観念に過ぎなくなるということは往々にしてあるわけで、それがエンタメ至上主義者のような人を生むのであろう)。

ちなみに、エンタメだから「中身がどうでもいい」というわけではない。むしろ逆である。一般にアートと呼ばれるものこそ、「形式」だけで成り立ちうるし、そういう純抽象的なものの方が「偉い」とされやすいことは周知のことだろうと思う。

 

SCOOP!

SCOOP!

 

 

『検察側の罪人』

検察側の罪人』を見た。この監督(原田眞人)の映画は初めてであったが、なんとも微妙といった感じだった(たぶん、もっと良い作品があるのだろうとは思うのだが)。
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本作は一言で言うと、ゴジラの出てこない『シン・ゴジラ』。つまり、端から理解される気はない速さで、抑揚なく人々がつまらない話を喋りまくるのが上映時間の大部分を占める。しかし、『シン・ゴジラ』はそのダイアローグが理解できなくても楽しめた(ゴジラが出ればそれでいい)のに対して、今作では理解しなければ話についていけない。のだが、理解しなくても差し障りのない台詞と理解しなくてはならない台詞が演出的に同等の重みしか与えられていないので、無駄な集中力を要する、というか、端的に言って(特に前半)退屈極まりない。この演出は意図的なのだろうが、意図的だろうがなんだろうが、ただの失敗だと考えて問題ないだろう。映画館で私の隣には、キムタクが出るからという理由だけで見に来たのであろう頭の軽そうな男がいたのだが、あまりにも画面で起こっていることが理解できなかったからであろう、途中から体を常に揺すり出して一分に一回ジュースを吸い、痒くもないだろうに顔を掻き出して……大変であった。余談だが、ジャニーズが映画に出ることのデメリットは、作品の内容がどうこうなるというようなことよりも、このような観客に遭遇してしまうことにありそうだ。

先に「ゴジラの出てこない『シン・ゴジラ』」と書いたが、しかし中盤と後半には、人々が大きい声を出したり気持ち悪い人が出てきたり人が殺されたり車に引かれたりするので、そういう意味で「ゴジラ」の代替物はあるので退屈は薄れる(隣な席の頭の悪そうな男もこういう画面では背筋が伸びた)が、それでも平板な会話が始まるのとまたうんざりする。しかもその平板な会話の内容も日本のメディアは腐ってるとか先の大戦の無責任体質に関する話とか、およそ本筋と関係ないものが無理矢理ぶち込まれており、あぁ、こういう「真面目」なことこそが、それだけが考えるべきことなのだ、とでも言いたげな人間が作っているのだなと思ってしまい、興ざめであった。私に言わせると、政治の現場で腐っているやつも、政治について正しい主張をする奴も、政治が大事だと考えている時点で同じ穴のムジナである。そもそも、政治や経済や国家や……およそ「真面目」な話題こそが重要だというのは、ただの固定観念に過ぎない。そういうのが重要だと思っているやつが多いからそういうのが存在しているという面も大いにあるのだから、そもそもそういうのを重要だと思わなければ、そういうのから生まれる問題もまた多くが雲散霧消するであろう。

という極論(?)を抜きにしても、本作でキムタクがインパール作戦のデタラメを批判し、世に知らしめなければ、と息巻いていたのにはどういうメッセージ的な目的があったのか? 非合理的に振る舞(うしかなか)ったキムタクと戦時中の軍部は本質的に同じような存在なのだが、しかしキムタクはそういう自分を顧みることができていない、という皮肉なのだろうか? 最大限好意的に解釈すればそういうことになろうが(そういうことではないだろう)。