しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

ドイツ語マラソン(ゲーム途中リタイア篇)

ドイツ語で哲学の入門書を読んでいたのだが、なんだか疲れてしまったので、『ブレイブリー・デフォルト フォー・ザ・シークエル』という3DSRPGは言語選択できるというのを聞きつけ、ドイツ語テキスト+英語音声(音声は日本語と英語からのみ選択可)でやってみた。丁寧にサブクエストも全部やっていたせいで、途中で時間がループしだして(正確にいうとそうではないらしいが、ともあれそんな感じになって)ほとんど同じことを繰り返ししなきゃならなくなった辺りから、さすがにこれ以上このゲームに時間を費やしたくないという気持ちになってしまい、残りはさっさとネットでネタバレを見て終わりにした。

ひとつだけ感想を書くとすると、いつも言っていることになる。つまり、外国語で何かのコンテンツに触れると評価が倍増しになるということである。なぜなら、ありきたりな台詞も外国語なら新鮮に映るし、ダメな台詞も外国語なら(どの程度)ダメなのかわからないからである。日本語でこのゲームを何十時間もやることは私にはおそらく不可能だっただろうと思う。もちろんこのゲームの台詞が他と比べてとりわけひどいものだとは思わないが、日本のゲームにありがちな、アニメ的キャラがアニメ的なクリシェを口走りまくる感じが日本語では耐えがたかった(ので、すぐに音声も日本語から英語に切り替えた)。露悪的な表現も、本当にストレートに露悪なので、ものの数分で食傷気味になる。(まぁ、子どもがやるものだからね。。)

とはいえ、ネタバレで知ったどんでん返しは、結構いいものだった。それを体験できたわけではないのだが……。

 

 

『ハウス・ジャック・ビルト』

ラース・フォン・トリアー監督最新作『ハウス・ジャック・ビルト』を見た。なんと、途中退席してしまった(ある意味、とてもいい客)!
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たぶん、映画を見る前にしこたまご飯を食べたのと、最前列で見たために常に顔をあげていなければならなかったからだろうと思うが、画面上で繰り広げられるひどい事態をずっと見ていたら気持ち悪くなってきてしまい、本当に吐きそうだったので途中退席。具体的に言うと、主人公が子どもとその母親を殺す場面がかなりきつく、そしてその後に主人公が愛する女と一緒にいる場面で、おそらくその女も殺されるであろうということが、具体的な殺し方も含めて想像されてしまって画面を正視できなくなってしまった。

ちょっと前までだったら、私はこの手の露悪的な映画を見てもここまで気分が悪くなることもなかったし、むしろ「私もまたこの映画の主人公と似たようなものなのだ。人間とは底知れないのだ。自分の中の悪に気づかない者こそが、このような映画の存在そのものを否定するという愚行に走る」といったようなことを嘯いていたに違いないが、今はそんなことは思わないので、ただ単に気持ち悪くなったいう次第。正義感というか倫理観の強い人は一般的に共感力が強い人だと思うが、この手の露悪的な芸術映画を称賛する人というのも、そのような人々だろうと思う(少なくとも、一部の人はそうだろう)。どうしてそのような皮肉な事態になるのかといえば、そのような人々は悪人に対して過剰に共感・同情し、自分も彼と同じなのだ、ほら、だって現に俺はこんな醜悪な映画を笑いながら楽しんでいるじゃないか、といったようなことを言い出したがるからだろう。私も昔はそのように考えていたが、今は正義や倫理を対してはどうでもいいという気持ちが強く、ゆえに他人と自分が同じなのだなどとわざわざ考えなくなったので、逆にこのような露悪的な映画を「楽しめ」なくなってしまったらしい。これもなんだが皮肉なことのように思われる。私は端的にこの殺人鬼とは違うのである。

とはいえ私には、このような映画が作られるべきではない、とかいうことを主張するつもり毛頭ない。私にとってはこのような映画はもう必要ないようだが、映画は、というか芸術は、自分がそれを作ったのだ、という事実に最大の意味がある(というか、実はそこにしか意味がない)ように思われるので、本当はラース・フォン・トリアーがよければそれでよいのだろう。観客を楽しませなきゃ、とか、観客に認められなきゃ、みたいなことは、現実的な観点から見れば確かにかなり重要だろうが、「本当のところは」どうでもいいのではないだろうか。最後まで見ることはできなかったが、『ハウス・ジャック・ビルト』はそのようなメッセージの作品ではなかったのではないか、と疑っているのだが、さて……。

『旅のおわり世界のはじまり』

『旅のおわり世界のはじまり』は、最近見た映画の中では一番面白かった。とはいえ、良くできた作品とは言えない。黒沢作品の中でもとりわけ変な映画だった(とはいえ再び、それがマイナスポイントにならない凄さが黒沢清にはあるのだが)。
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黒沢清監督の映画は「怖い」映画ではない、というのが私の考えだ。彼の映画は「怖い」のではなく「不安な」(つまり人を不安にさせる)映画なのだ。少なくとも黒沢作品で私が好きなものにおいては、人々が自明のものとしている常識が失われ、時にはそのまま日常に戻れなくなったり、時には決定的に変化した自己を抱えてまた日常を生きていったりする。『CURE』では実は我々を縛るものなど何もないのだと主人公は知り人々に殺人を促す「伝道師」になるし、『トウキョウソナタ』では仮面家族の化けの皮が完膚なきまでに剥がされるが、しかし家族は再び家族を生き直すのである。つまり、黒沢清作品のポイントは、ともあれ「日常」や「常識」が崩れ去ることにある。そしてその時「不安」が顔を覗かせるのである。

そう言うと、今作『旅のおわり世界のはじまり』のような、非日常である「旅」をテーマにした作品は日常を疑う黒沢清にぴったりであるかのように思われるかもしれないが、実はそうではない。そうではないから、今作のような変な(しかし抜群に面白い)映画が出来てしまったのである。どういうことか。

旅に出ることで人が疑い始める常識とは例えばどういうものだろうか。すぐに思いつくもので言えば自国の文化や道徳やルールなどと言ったものであろう。旅に出ると、自国のそれらが旅先のそれらと比較され、相対化される、そしてそのことが不安を呼び起こすというのは確かにそうだ。しかしながら、黒沢が得意とし、いつも表現している「不安」というのはその水準のものではないのだ。旅によって相対化されるのはあくまで「自国の」文化や道徳やルールであるのに対して、黒沢の映像表現は(どうしても)文化や道徳やルール「そのもの」を疑ってしまうのである、その水準で不安が現出してしまうのだ。人を殺そうと思えば自由に殺せるではないか、という不安を『CURE』では観客に芽生えさせ、家族で生活する必然性などまるでないのではないか、と『トウキョウソナタ』を見たあとの観客は思うであろう。

さて今作『旅のおわり世界のはじまり』がなぜ奇妙な映画かと言えば、この2つの不安の水準が混同されているからである。もっと有り体に言うと、物語としては旅の不安レベルで演出を抑えておけばいいものを、いつもの黒沢レベルの不安を描き切ってしまって、しかもそれを「旅の不安」としてこちらに提示するものだから、常に強烈な違和感と緊張感が漂っている。主人公含む撮影クルーの面々はどう考えても旅に疲れているからではなく、そもそも壊れてしまっているように見える(特に染谷将太! 彼は黒沢清映画でサイコキラーを演じるべきだ!)し、街は見知らぬところだからではなく、そもそも実態などない廃墟のようなものなのだ。ウズベキスタンにあるからではなく、そもそもからして回転遊具などおよそこの世にあってはならないような馬鹿げたものなのだ!

もう一度繰り返そう。変な映画だ。でも抜群に面白い。見たほうがいい。

ドイツ語マラソン・哲学(入門書)編

ドイツ語マラソン・哲学編を開始した。とはいえ、本格的な哲学書は難しすぎて(少なくとも)ドイツ語の勉強にはならないので、入門書的なものを読んでいる。ドイツ語でも当然、『三十分でわかるカント』的な本があるのだ(そして、そういうカント入門も一つ読んだ。クオリティはどんなもんなのか、わからない。だって、私は素人もいいところだから)。今は哲学の基礎知識を勉強できる本を読んでいる。その本のドイツ語は平明でわかりやすく、(ドイツ語で読むかそうでないかに関わらず)本格的な哲学書に向かう前の準備体操になりそうだ。

 

 

とはいえ、これが読み終わった後も、まだ入門書にとどまるつもりだが。次はカントの純粋理性批判を読み解く的な本を読むつもりだ。ちなみに「Einführung」が「入門」という意味なので似たような試みをしたい人は、その言葉と哲学者名や分野などで本を検索するといいと思う。

『貞子』

『貞子』を観た。(もちろん?)微妙だった。
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文字がまともに読めない人用か、わざわざネット上のカキコミを読み上げたり、記憶力がない人が観客であることが前提なのか、回想シーンを律儀にいちいち入れてくる辺りは、まぁおいておこう。所々よかったと思った演出もあるにはあった(突然の飛び降りや厄介な「患者」など)が、それもおいておこう。私がこの映画で感じたのは、ホラー映画では「嘘から嘘以上を期待せず、ただ嘘を楽しむ」ことが困難である、ということだ。

最近の私の映画鑑賞の作法は「嘘から嘘以上を期待せず、ただ嘘を楽しむ」だ。いわゆるオタク的な作品享受の仕方とも結構重なるだろうが、決定的に異なっているのは、オタクが嘘を「愛している」のに対して、こちらの作法では嘘を「愛する」ことはせず、むしろ「所詮嘘だ」という諦念が先行して、その諦念の中で楽しむ点にある。作り物を作り物以上に祀り上げないことが大切だ。『名探偵ピカチュウ』も『アベンジャーズ』もその限りで十分堪能したことは以前述べた。その2作のように、ファンタジー作品はとりわけ嘘八百なわけだから、この作法と相性がいい。逆に、真面目な人間ドラマなどを楽しむには、私たちはその作品に「巻き込まれ」なければならない(それだけの力が作品になければならない)、例えば、自分の実人生の経験などを映画内の出来事に投影などして。

さて、残酷であったり人がバタバタ死んだり悪趣味だと謗られたりするとはいえ、ホラー映画が「ファンタジー映画」であることを疑う人はあまりいないだろう。それじゃあホラー映画は「嘘から嘘以上を期待せず、ただ嘘を楽しむ」作法に合致しやすいか、と聞かれたら、しかしながら、否、と答えざるを得ないだろう。なぜなら、ホラー映画での満足度はドキドキしたか、怖くなったかに依存せざるを得ないからである。当然のことながら、目の前に起こっていることなど嘘の内部に過ぎないと思ったままでは、我々はドキドキも怖がりもしない。ドキドキしたり怖がったりするには、我々は作品内に「巻き込まれ」ていなければならないのだ。もちろん我々自身もそうなることを期待し、つまり嘘以上のもの=恐怖をどうしても期待してしまい、いわば「協力的に」見るのであるが、それでも作品のクオリティがある水準に達していなければ、我々は「巻き込まれ」ず不完全燃焼に終わる。『貞子』もそうであった。

しかしこれは、われわれがホラー映画に他のエンタメ映画以上に高いハードルを課しやすいということであるから、『貞子』をそこまで責めたいとも思わない。実際、観客に嘘以上のこと(つまり、ここでは恐怖)を体験させるのは容易ではない。それはほとんどアートの仕事と言っていいだろう。だからこそ黒沢清の様な人がホラーとアートの融合に成功したのだ、と私は疑っている。

 

『名探偵ピカチュウ』

『名探偵ピカチュウ』を見た(まさか見ることになるとは思わなかったのだが)。
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しかし、なかなか楽しめた。なぜ楽しめたかの説明は、『アベンジャーズ/エンドゲーム』の時に書いたこと(『アベンジャーズ/エンドゲーム』 - しゅばいん・げはぷと)の繰り返しになるだろう。つまり、「嘘から嘘以上を期待せず、ただ嘘を楽しむ」という姿勢が私の中にすでに確立しているからこそこのようなCG映画を真正直に楽しめる、ということだ。おそらく、このような態度は多くの人々に共有されているのだろう、だからこそこの手の映画がヒットするのだろう。

それを強く感じるのは、今作はなにしろ題材がポケモンなので実写とCGの融合があまりうまくいっていないように思うからだ。実写の中にアニメがある、という違和感が強くあるのだ(昔の『デスノート』の実写化などで感じた強烈な違和感などとも大して違わないのではないだろうか?)。が、それもこれも全てはそもそも嘘の内部だからこそ結局は大して気にせずに楽しめる、というのが現代の我々のメンタリティだろう。現に私は楽しめた。作り物を作り物以上としてみず、その限りで楽しむ、という作法だ。それはそれで悪いことではないと思われる。物語を現実の鏡としてみるように観客に強制する映画は物語に過ぎないものを現実と混同させるが、ポケモンの実写にはそのような悪影響はないと思うからだ(もっとも、小さい子どもたちに対してはどうであるかわからないが)。

ホワイトノイズマシン瞑想のすすめ。

私はヴィパッサナー瞑想を日々実践しているが、瞑想中の騒音の対処についてなかなか苦慮している。私の場合、騒音は具体的に言うと(一番ひどいのは)いびきだ。私のアパートはボロボロの木造なので、下の階の住人のばかでかいイビキがダイレクトに聞こえてきてしまう。しかもその人は仕事のない日は昼も夜も寝ているらしく、私の方は休まる暇がなくなり、きつすぎる。普段は彼は夜仕事らしく、私は休日の昼間家にいるときはずっと彼のイビキを聞くはめになっていた。半年ほど(いや、もっとだったかな?)少なくとも瞑想中はそのいびきを聞きたくないので必ず耳栓をしていたのだが、確かにいびきは聞こえなくなり、しかも瞑想は簡単に深まるようになったのだが、耳栓が瞑想と日常生活を完全に別個のものに分け隔ててしまったように感じていたし(そのために日常生活に瞑想の効果が出にくくなっていたようにも思う)、どういうわけか聴覚をはじめとする諸感覚がかなり敏感になってしまったように感じていた。そもそも、ヴィパッサナー瞑想は起こることにただ気づくという瞑想なのに、聴覚を遮断することで起こることをかなり制限してしまっていたのがよくなかったのだろうと思っている。とはいえ、毎回毎回イビキとイビキに怒りで反応している自分に気づいて、というのを何十分もやっている訳にはいかない。

だから、私は最近はホワイトノイズ・マシンを使いながら瞑想している。下の階の奴がイビキをかき始めたとしてもそれがわからないぐらいの音量でノイズを発生させながら瞑想するのである。確かに、理想的な環境とは言えない。ノイズによって瞑想の深まりは多少阻害されているのかもしれない。しかし、耳栓をしていた頃よりも少なくとも日常生活ではのほほんとした気持ちでいられることが多くなったような気がする(ただ、瞑想とは関係のない他の原因に依っている、という可能性は大いにあるが……)。ともあれ、瞑想者で騒音に悩んでいる人がおられるなら、ホワイトノイズ・マシンをおすすめする。安いものはすべておすすめできない。リピート音なので、瞑想しているとあるパターンの繰り返しに気づいてしまい、気が気でなくなる(下手をすると幻聴が聞こえ始める)。マーパックという老舗の自然音を出すマシンがあるが、これは自然音なのでリピートではないが、あまりおすすめしない。音量が小さく、また音色も乏しく、イビキには全く対処できなかった(どんだけひどいんだ、下の階のやつは!)。LectroFanというのが、どうやら一番いいっぽい。デジタルだがリピートではなく、独自のアルゴリズムを使ってその都度新たに音を発生させているらしい。音量も幅がある。ちなみに、ホワイトノイズマシンのスピーカーを騒音の方に向けると(つまり私の場合は、床にスピーカーの面をつけると)効果絶大だ。