しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

ゲーム実況でドイツ語勉強

最近はこの人のゲーム実況を見てドイツ語を勉強(できているのかな?)している。

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人気がある人ではないようだが、あまり飾らない姿勢とバカっぽい感じ(演技?)がなかなかいい。しかし、ドイツ語が聞き取りやすいかと言うと全くそんなことがない(そ個人の話し方によるのか、それと方言的なものなのかは不明)のが、ドイツ語学習という私の目的を考えると少々残念ではある。外国語話者のゲーム実況を探すときは一般的にこの問題がつきまとう、つまりゲーム実況に対する姿勢ややり方は好ましいのに、肝心の言葉が聞き取りづらかったり、あるいはその逆にとてもきれいな話し方をしている人なのだが、(それゆえに?)なんか堅苦しくてつまらない感じだったり、というような「痒いところへの手の届かなさ」がある。また、実況者のゲームの好みと自分のゲームの好みとの差異や、英語以外の言語(たとえばドイツ語)だとテキストがその言語でもヴォイスが英語だったりしたりすることなど、ゲーム実況外国語勉強法は実はよいコンテンツを見つけるのが難しい。

ちなみに、英語ではずっと変わらずVinesauceというストリーマー・チームのVinny推し。この人も飾らない系である。(もっとも、飾らないことが飾りになるがゆえに人気になるという自明なことに気づかないほど私はバカではないが……)毎年チャリティー・ストリームみたいのをやっていて、今年も10万ドルぐらい集めてしまっているのもすごい。

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『FFT』再訪

ファイナルファンタジー・タクティクス(FFT)』を今再びプレイし、そしてクリアした。ちなみにPSP版(獅子戦争)。

 

 

FFT』は(少なくとも世界観・お話作りに関しては)天才の松野泰己によるシミュレーションRPGである。「少なくとも世界観・お話作りに関しては」と書いたが、この人の考えるゲームシステムはいつもやや煩雑だが、ハマることができればかなり中毒性があると思う。とはいえ、ここで書きたいのは主に「世界観・お話」方面なのでシステム面の話はしない。

大体の話の骨格は次のようなものである:イヴァリースという名の王国で王位継承をめぐる戦争が起こり、その動乱の中で教会の人間や貴族階級の人々はどす黒い政治的駆け引きや陰謀に明け暮れるが、名門貴族出の主人公であるラムザとその親友である平民出のディリータは、それぞれの考えにしたがって大勢にのまれることなく、苦悩しながらも自らの信念にしたがって行動していくが……

松野のその他の重要作品、例えば『タクティクスオウガ』や『ベイグラントストーリー』のストーリーを忘れてしまったから(彼が途中で降板したFF12は最近また二回ほどクリアしたが)うかつに彼の話作りの特徴を語るわけにはいかないのだが、しかし『オウガ』や『ベイグラ』をクリアするのがいつになるかわからないので(またやるつもりではある)間違いを犯す危険を承知でとりあえずそれをここに書いてしまいたいと思う。

まずごく表面的なことからいえば、とんでもなく緻密な設定がある世界(特に国などの何らかの政治機構のシステムや歴史)を作り上げ、そのことによって世界に圧倒的なリアリティを付与している点である。これに関してはほとんど異論はないだろうと思うが、あえて自ら異論を挟むとすれば、もしかしたら松野は「とんでもなく緻密な設定がある世界」というよりは「とんでもなく緻密な設定がある「ようにみえる」世界」を作るのがうまい、ということかもしれない。例えば、キャラクターのセリフの端々にプレイヤーが知らない世界設定上の単語などを適度に配置すれば、プレイヤーは世界観の広がりを感じる、といった仕掛けがうまいのかもしれない。実際、今回FFTを再プレイしてみると、世界設定がただ世界そのもののためにあるというよりか、物語のテーマ(FFTの場合は階級制度)に奉仕するように設定が練られていることがよくわかった(もちろん悪いことではない)。ただまぁ、これに関しては、実情は両方(「緻密」も「緻密のようにみえる」も)ともよくできている、ということだろう。

次の特徴としてあげたいのは「政治劇」。松野ゲームと言えば、何よりも政治劇を見るためにプレイするというところがある。とにかく主人公を取り巻く人々やまだあったこともない遠くにいる人々まで政治的駆け引き的な思考をしない人はいない。昔はこの「裏の裏を読む」キャラクターのセリフの小難しさに翻弄され、ゆえに魅了されていたのだが、今回再プレイしてみると、正直冷静に考えればみんな机上の空論という感じがしたのは否めない。特にことがでかくなってくるとその感じが強まり、例えばFFTで言えば教会の陰謀(世俗権力同士で戦争するように仕向け、彼らが疲弊したところで自らが君臨する)そうであった。ゾディアック・ストーンの伝説を利用して民衆から支持を得る、というような話も具体的にはどういうことなのか、いまいちつかめない(FF12で破魔石がどうしても大したものに思えなかったのと同じだ)。ということで、「松野政治劇」は、一面ではキャラクターが机上の空論を喋り、実際世界がその机上の空論通りに動いてしまっているように見える、という感があるのだが、しかし他方でそれにご都合主義を感じないのは(やはり)背後に緻密な設定が見え隠れ(あるいは見せ隠せ)しているからである。というわけで、「松野政治劇」はやはり素晴らしい。(というか、そもそも机上の空論で実際にことが動くこと自体がリアルっていう意見も十分あり得るしね)

松野げーのプロットラインにおける特徴は(これこそが『ベイグラ』や『オウガ』を確認してから書きたかったが)、一言でいうと人間同士の(せこい)争いから超越的存在者への戦いへ、という流れにあるだろう。FFTで言えば、最初は人間同士の薄暗い血みどろの、しかし貧乏くさい争いかと思いきや、そのすべてを実は人間的存在とは全く次元の異なる悪魔的(つまり超越的)な存在者が利用していたことが判明し、主人公らはそいつらと戦いを挑むことになる。FF12の場合も同様で、最初は国家間のつばぜり合いかと思いきや、後半でそのすべては神に等しき存在とその存在を乗り越えようとする人間との戦いであったことが判明する。複雑な政治劇を懸命に理解しようと努めなければならない前半とは打って変わって、後半はその煩雑さなどすべてどうでもよかったと思わせるような、ある意味で開かれた(単純な?)戦いへと身を投じることになる。物語の前半と後半、あるいは世俗的争いと超越的存在との戦いの間には個人的にはかなりのギャップがあるように感じられ、それゆえに私はたまらなく好きなのだが、人によってはその無関係さ加減に納得できない人もいたりして?

最後に物語のテーマ的側面だが、緻密な西洋中世的な世界観であることがほとんどあるのに、かなり現代的であり、誤解を恐れずに言えば、かなりわかりやすい。FFTのテーマは階級制度というよりか、実は資本主義社会における(あるいは共産主義が盛んだったころの)「持つ者、持たざる者」たちによる闘争に見えるし、FF12ではニーチェあたりがどこかで書いていそうな「歴史を人間の手に取り戻す」という文言を真顔で、文字通りの意味で(つまり若干無粋に)実現してしまっている。あるいは、FF12のテーマを「過去との決別」だと考えても同じである。緻密な設定や政治劇でプレイヤーの頭は攪乱されるとはいえ、テーマは思いのほか単純なのだ。

さて、次は『ベイグラント・ストーリー』をやるつもりだが、松野げーを始めるときは(ストーリーの重さではなく)システム面の大変さ、難易度の高さを思って、いつもしり込みしてしまう。あー、どうしよう、始めようかなぁ……。

『ポポロクロイス物語』再訪

ゲームを断捨離するなんてことはもう諦めて、『ポポロクロイス物語』の1と2を十年ぶりぐらいにプレイし、二週間ほどでクリアした。ノスタルジーで胸が痛い。

 

ポポロクロイス物語2

ポポロクロイス物語2

  • 発売日: 2000/01/27
  • メディア: Video Game
 
ポポロクロイス物語 PlayStation the Best

ポポロクロイス物語 PlayStation the Best

  • 発売日: 1996/07/12
  • メディア: Video Game
 

 ポポロクロイスシリーズ、特に『ポポロクロイス物語2』は『MOTHER3』に次ぐ私のお気に入りにのゲームで、涙なしにはプレイできない。イベントの演出やボイスアクティングがところどころ恥ずかしかったり幼稚だったりアニメアニメしてたりしてなかなか厳しいところもあるのだが、それも含めてスタルジー。とにかく、主人公のピエトロ王子とヒロインのナルシアの恋愛模様に涙がポポロ。。

しかし、この胸が締め付けられるような気分のままではいたくないので、ここではあえて冷静にポポロクロイス物語の欠点をあげつらってみようと思う(もちろん、私にとってはそんな欠点があっても「私の人生のゲーム」であることに変わりはないのだが)。

私が今回いちばん気になり、物語を楽しむノイズになってしまったのは、ナルシアおよび黄金の鍵の設定についてだった。『1』ではナルシアは森の魔女という設定で、森の魔女は海水に触れると泡になってしまうから黄金の鍵を使って変身する、ということだったのだが、『2』では実はナルシアは妖精族であることが判明する。そして、その後のシリーズの続編(便宜上『3』『4』と書く)での設定からして、公式としてはナルシアが泡になってしまう理由は(森の)妖精族であることなのだ。この点でまずひっかかるのは、一つはナルシアの姉(では実はないのだが)ギルダがしきりに言っていた「森の魔女は海水に触れると泡になる」という話は、ナルシアに、お前は妖精族なのだ、と言えないから言った嘘にすぎないのか、ということ。これは一応筋が通っているが、『1』の時点では少なくともそういう意図的な嘘には聞こえないから、結構なノイズになってしまい、私としては、それでも嘘なのだ、嘘なのだ、とプレイしながら自分に言い聞かせなければならなかった。そして『3』『4』つまりピノン世代もプレイしたものとしては、黄金の鍵を使っているところを人に見られると魔女の力を失うという罰則にもかなりの違和感がある。というのも、第一に黄金の鍵は魔女に対してではなく妖精族に対して罰則を持っていないといけないからであり、そして第二に『3』と『4』では別のキャラが黄金の鍵を使うのだが、彼女は見られてもお咎めなしだからである。そして私はまた心の中で設定の瑕疵(?)を擁護する羽目になってしまう。例えば、ナルシアが罰を受けた時点で、その罰則は未来永劫解除されたのだ、とかなんとか。。(それでもなお、なぜ罰則が魔女の力を失うことなのかの説明はできないだろう。実は失ったのは魔女の力ではなく魔法力なのだ、みたいなことを言わない限り)

ともあれ、ナルシアおよび黄金の鍵周りの設定はおそらくどこかの時点で製作者たちによって改変され、それが原因でひどく複雑、というより作品ごとに矛盾したものになってしまっているのは、どうやら間違いないようだ。しかも、これはシリーズ全体のお話の根幹にかかわっているだけでなく、特に私の大好きな『2』における最重要・感動シーン(ナルシア泡化)を素直に見れなくさせてしまうという意味において、決定的な欠点といって差し支えない(もちろんそれで、私がこのシーンに涙しなくなる、ということもないのだが)。

この欠点を見ない方法を私は昔プレイした時、そして今回プレイしている間、かなり考えたように思うが、それはつまるところ次のように思い込むことだと結論付けた:

『3』『4』をなかったことにする。つまり、ナルシアは“森の魔女だから”泡になったのである。ナルシアは妖精族の森魔女という存在で、妖精族であることは泡になったこととは関係がない。森の魔女が海水に触れたら泡になるのは、たぶん森の魔法を使う代償かなにかだろう。ナルシアは『2』の最後で、自分は森の魔女ではないかもしれない、と言っているが、それは誤解である。森の魔女は種族ではない。

あぁ、こうやって書きなぐることで私のこのゲームに対するオブセッションを軽減できますように! やっぱりノスタルジーは危ないなあ!

 

*ちなみに、初めてプレーする人におすすめなのは、もちろん『1』『2』と順番にやりことですが(『ポポローグ』はやらなくていいでしょう)、『1』は結構難しい(というか快適じゃない)ので、ダイジェスト版であるPSP版でストーリー進行的に『2』の直前までやって、それから単品の『2』をやるのがおすすめかも。

(いわゆる正式な)瞑想はやめてもいい、場合によってはやめた「ほうがいい」

最近、瞑想についての考え方を改めた。長いこと隣近所の(些細な)騒音のせいで座ってする瞑想が困難になっていて、そのせいでどんどん怒りっぽくなったことが原因だ。瞑想をすると(私の場合)感覚が鋭くなるので余計騒音が気になり、そして気になる自分や気にさせる他人に腹が立ったりと心が乱れまくっていたので、(ずっと前から気づいていたのだが)これはそもそも「瞑想をしなければ」という固定観念がよくないと確信した。その固定観念の効力をなくすためには当然瞑想しなければいいわけで、よって瞑想をやめた。すると、途端に気持ちがより自由でイライラの少ない日々に様変わりした、という次第。

「瞑想をやめた」とはいえ、いわゆる「瞑想」という言葉でイメージされる、座る瞑想をやめたという意味だ。依然として日常暮らしていて湧き上がる雑念に気づいて消す(勝手に消える)という習慣や、何か単純な日々の行い、例えば歯磨きやシャワーの時に歯磨きやシャワーにだけ意識を集中し、離れたらまた戻るというようなことも続けている。疲れたら横になって、座る瞑想の時にしていたことをより短い時間だけやることもある。するとどういうことだろう、このような日常生活における瞑想の質は、座る瞑想を「ちゃんと」やっていた頃に比べると良くなったように思える。何故かといえば、「瞑想」という特別な行為をある時間していればそれで万事オッケーなのだ、という考えが消えて、生活の中でチャンスのあるときにはできるだけ瞑想しようという心構えに変わったからであろう。

というわけで、私の今のところの結論は、瞑想のやり方を覚えるまでは正式な瞑想(例えば座禅のような)をやるのは効果的だが、一度やり方がわかったなら、日常生活の中でできる瞑想だけで良い、むしろ出家者など出ない限り理想的な瞑想環境などないのだから、仕事等の日常生活とバッティングしないためにも、正式な瞑想はしない方がいいかもしれない、というものだ。

ドイツ語原書マラソン『はてしない物語』篇・途中経過

コロナで仕事がなく金がないこともあって、ゲームからは距離を置き(「見る」ことはあっても「やら」ない)、またドイツ語で読書を始めた。ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』である。ゲームから離れてファンタジー不足気味だったので、面白く読んでいる。

 

はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー)
 

 

Die unendliche Geschichte (German Edition)

Die unendliche Geschichte (German Edition)

 

 

ドイツ語のレベルに関して言えば、構文レベルでの難しさはないものの、情景描写や人物描写における語彙がかなり豊富なので、その点で結構骨が折れる。

内容については今の時点(約500ページ中180ページぐらい読んだ)で言えることはあまりないが、気になることが2つほど。

まず一つに、この話は現実世界と本の中の世界とが並列に語られ、おそらくこれからその2つが本格的に交わるという展開になるのであろうが、その劇中の本と読者が現実に手にしている本の装填が同じものになっている。つまり劇中の主人公の少年が読んでいる本と我々が読んでいる本が同じであるかのような工夫なのだが、これは(最後まで読んでいないから断言できないが)うまくいっていないのではないか(うまくいきようがないのではないか)。というのも、劇中の少年が読んでいる本には、我々が現に読んでいる方の本のようには「少年が本を読んでいる」等々の描写が描かれているはずがなく、ということはやはりどこまでいっても劇中の少年と我々読者が読む本は違うということになるからである。もし仮に少年自身が自身の行動をも本の中で読んでいたとしたら、これは大変なことになる。というのも、自身の行動がちゃんと本で書かれるためには、自身の行動が書かれるだけではだめで、「自身の行動が本の中に書かれているのを読んだ」という行動も書かれなけれならないが、しかし今度は、「「自身の行動が本の中に書かれているのを読んだ」を読んだ」と付け加えていかなければならなくなる、という意味で「はてしない物語」になってしまう。この知見が物語に上手く応用されていたら本作はとんでもない傑作だと認めざるを得なくなるわけだが、さて。先が楽しみだ。もっとも、ただ単に全てが終わったあとに(少年の冒険が終わったあとに)、なぜか本に少年の話が付け加わっていた、という展開すればいいだけかもしれない。そうすれば少年の本と我々の本は同じものになる。(しかし、事後的の場合はなぜ矛盾しないのだろうか?)

もう一つ気になったのは、作者のエンデはどうやら「嘘」と「物語」の2つを区別したいようだ、という点である。それがわかるのは、本の中の世界(ファンタージエン)の危機(消失)が、現実世界で人々が吐きまくる嘘や現実世界の人々のファンタージエンの忘却に関連している、という設定である。しかし、これは私には無理筋のように思われる。もし人々が嘘をつけなくなれば、物語もまた消えるであろうから。

とはいえ、きっと残りの300ページをドイツ語で読めると思えるくらいには楽しんでいる。ちなみに、英語ではアイザック・アシモフの『ファウンデーション』マラソンに挑戦するつもりだ。

『仏教3.0を哲学する バージョンⅡ』

『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンⅡ』を読んだ。

 

〈仏教3.0〉を哲学する バージョンII

〈仏教3.0〉を哲学する バージョンII

 

今回(バージョンⅡ)の目玉はなんと言っても永井均のカント解釈の部分であろう。特に客観的世界の成立と持続する私の成立が相即的な(片方が成り立たなければ、もう片方が成り立たない)関係であるという辺りの議論がとても面白く、そのことについてはもっともっと紙幅を費やして論じて欲しかったぐらいだった。というより、永井自身は自分がやる必要がないという理由で興味がないようだが、カントの入門書を書いてくれないかなあ。私の知る限り永井均の本でカントの入門的(?)な解説があるまとまった分量書いてあるのは、『翔太と猫のインサイトの夏休み』と本書ぐらいなので(まぁ、カントの名前を出していなくても関係する話はそこら中で書いているかもしれない。例えば記憶にまつわる問題とか)。

さて、それに比べると藤田一照と山下良道というお坊さんお二人の話は本書では(前書と比べると)あまり面白くなかった。結局のところ、藤田は〈私〉を身体に近いものとして捉えており、山下の方は魂に近いものとして捉えているようで、そこのところを自己反省してさらに議論を戦わせてくれればもう少し実りある話にもなったのだろうが、二人とも自分の考えを変える気はないみたいなので、残念ながら断定的な口調で、しかし消化不良な話が続く。私が見たところだと、藤田の方は〈私〉が客観的世界に対して無寄与的だということについて無頓着であるがゆえに〈私〉が客観的世界内にあると思っている節があり、山下の方は逆に無寄与だということを強く取りすぎているがゆえに客観的世界とは別の、しかし同じく内容を持つ世界を作り上げてしまっている。

とはいえこんな話が、少なくとも仏教に興味を持つ層には切実な問題として届いている(らしい)のは驚くべきことだと思う。ちなみに、前書(『〈仏教3.0〉を哲学する』の無印)を読んでいない方はまずはそちらから読むのが絶対にオススメ。

 

〈仏教3.0〉を哲学する

〈仏教3.0〉を哲学する

 

 

『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』

ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』を見てきた。評判ほどおしろくはなかった(がつまらなくはなかった)。
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見せ場は相当たくさんあるのに(特に前半)物語は鈍重な印象が拭えない。人々があるものを巡って対立するというシンプルなストーリーラインのはずなのだが、物語がいまいち入ってこない。それはもちろん、ハーレイ・クインという語り部の滅茶苦茶な語り口という意図的なものの結果でもあるわけだが、それよりも彼女以外のキャラ一人一人に結構な時間を割いている割には各キャラが薄く、また互いの関わりもほとんどなく面白くない、ということに起因すると思われる。彼女らによって女チームが結成されなければならない、という都合だけが浮き出てしまっている。アクションシーンやノリノリな(?)音楽には騙せれまいぞ、と思いながら私は見てしまったのだが、それもこのあたりに起因するのだろう。

とはいえ、ハーレイ・クインという頭のネジが飛んだキャラは見ていて楽しい。彼女一人にフォーカスを当てるべきだった。