しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『名探偵ピカチュウ』

『名探偵ピカチュウ』を見た(まさか見ることになるとは思わなかったのだが)。
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しかし、なかなか楽しめた。なぜ楽しめたかの説明は、『アベンジャーズ/エンドゲーム』の時に書いたこと(『アベンジャーズ/エンドゲーム』 - しゅばいん・げはぷと)の繰り返しになるだろう。つまり、「嘘から嘘以上を期待せず、ただ嘘を楽しむ」という姿勢が私の中にすでに確立しているからこそこのようなCG映画を真正直に楽しめる、ということだ。おそらく、このような態度は多くの人々に共有されているのだろう、だからこそこの手の映画がヒットするのだろう。

それを強く感じるのは、今作はなにしろ題材がポケモンなので実写とCGの融合があまりうまくいっていないように思うからだ。実写の中にアニメがある、という違和感が強くあるのだ(昔の『デスノート』の実写化などで感じた強烈な違和感などとも大して違わないのではないだろうか?)。が、それもこれも全てはそもそも嘘の内部だからこそ結局は大して気にせずに楽しめる、というのが現代の我々のメンタリティだろう。現に私は楽しめた。作り物を作り物以上としてみず、その限りで楽しむ、という作法だ。それはそれで悪いことではないと思われる。物語を現実の鏡としてみるように観客に強制する映画は物語に過ぎないものを現実と混同させるが、ポケモンの実写にはそのような悪影響はないと思うからだ(もっとも、小さい子どもたちに対してはどうであるかわからないが)。

ホワイトノイズマシン瞑想のすすめ。

私はヴィパッサナー瞑想を日々実践しているが、瞑想中の騒音の対処についてなかなか苦慮している。私の場合、騒音は具体的に言うと(一番ひどいのは)いびきだ。私のアパートはボロボロの木造なので、下の階の住人のばかでかいイビキがダイレクトに聞こえてきてしまう。しかもその人は仕事のない日は昼も夜も寝ているらしく、私の方は休まる暇がなくなり、きつすぎる。普段は彼は夜仕事らしく、私は休日の昼間家にいるときはずっと彼のイビキを聞くはめになっていた。半年ほど(いや、もっとだったかな?)少なくとも瞑想中はそのいびきを聞きたくないので必ず耳栓をしていたのだが、確かにいびきは聞こえなくなり、しかも瞑想は簡単に深まるようになったのだが、耳栓が瞑想と日常生活を完全に別個のものに分け隔ててしまったように感じていたし(そのために日常生活に瞑想の効果が出にくくなっていたようにも思う)、どういうわけか聴覚をはじめとする諸感覚がかなり敏感になってしまったように感じていた。そもそも、ヴィパッサナー瞑想は起こることにただ気づくという瞑想なのに、聴覚を遮断することで起こることをかなり制限してしまっていたのがよくなかったのだろうと思っている。とはいえ、毎回毎回イビキとイビキに怒りで反応している自分に気づいて、というのを何十分もやっている訳にはいかない。

だから、私は最近はホワイトノイズ・マシンを使いながら瞑想している。下の階の奴がイビキをかき始めたとしてもそれがわからないぐらいの音量でノイズを発生させながら瞑想するのである。確かに、理想的な環境とは言えない。ノイズによって瞑想の深まりは多少阻害されているのかもしれない。しかし、耳栓をしていた頃よりも少なくとも日常生活ではのほほんとした気持ちでいられることが多くなったような気がする(ただ、瞑想とは関係のない他の原因に依っている、という可能性は大いにあるが……)。ともあれ、瞑想者で騒音に悩んでいる人がおられるなら、ホワイトノイズ・マシンをおすすめする。安いものはすべておすすめできない。リピート音なので、瞑想しているとあるパターンの繰り返しに気づいてしまい、気が気でなくなる(下手をすると幻聴が聞こえ始める)。マーパックという老舗の自然音を出すマシンがあるが、これは自然音なのでリピートではないが、あまりおすすめしない。音量が小さく、また音色も乏しく、イビキには全く対処できなかった(どんだけひどいんだ、下の階のやつは!)。LectroFanというのが、どうやら一番いいっぽい。デジタルだがリピートではなく、独自のアルゴリズムを使ってその都度新たに音を発生させているらしい。音量も幅がある。ちなみに、ホワイトノイズマシンのスピーカーを騒音の方に向けると(つまり私の場合は、床にスピーカーの面をつけると)効果絶大だ。

 

 

『存在してしまうことの害悪』について、その2

前回の記事(「無」の種類(『生まれてこない方が良かったーー存在してしまうことの害悪』について) - しゅばいん・げはぷと)で私は、存在と無の比較というものは、実はできるようでできないのではないか、あるいは、できるかできないのかもよくわからないのではないか、という結論に達したわけだが、しかしそもそも子どもを生むということと生まないということは、存在と無の対立なのだろうか?

つまり、こういうことだ。物理主義的に考えると、子どもが存在するようになるとは無から子どもが存在するようになるということではない(質量保存の法則に反する)。そうではなくて、すでに世界に存在する諸々の物質が分解なり再結合なりして子どもになる、ということだろう。そのとき、物質は形を変えたとはいえ、この変化は有→有という流れに過ぎない。ちなみにこれは、前回の記事で私が設定した「私関係での不在」における有からの逃れ難さとは異なる。「私関係の不在」というのを簡単に説明すると次のようになる。なにかが(絶対的に)存在しない状態というのは思考も想像も不可能だが、しかしまぁともあれ「なにかが(絶対的に)存在しない」ということがあると仮定しても、それでもその「なにかが存在しない」は「無」ではない。というのも、その「なにかが存在しない」は私(=全体、という意味での)という存在の内部のことにすぎないのだから、それは「無」というよりか(「有」を前提としているという意味で)「不在」と呼ばれるに相応しい。そのような「不在」のことを私は「私関係での不在」と呼んだのだった。これもまたある意味で「有でしかあり得ない」ということなので、上の物理主義的な子どもの生誕に関する見解と同じであるといえそうだが、そうではない。「私関係の不在」レベルで子どもが存在していないことを考えるとき、その子どもは本当に、絶対的に存在していないのであるが、にもかかわらず、そのこと自体は私という存在(有)の内部で起こっている過ぎないので無ではないという筋道になろう。一方物理主義的な考え方では、「子どもが存在しない」という状態そのものが否定されている。少なくとも子どもの構成要素はずっとあったのであるから、子どもは「存在しない」から「存在する」に移ったわけではない、という話になる。そしてこの話は(ある意味で)正しいだろう。とすると、「子どもを生むのは道徳的にどうなのか」という問いは、「子どもを存在させるのは道徳的にどうなのか」という問いではなく、「非意識的物質郡を(苦痛、快楽等を感じる)意識的物質集合体に作り替えるのは道徳的にどうなのか」といったような問いへと変換させるのが妥当だということなるのだろうか。しかし、そう単純に行かない。なぜなら、ここに「意識」というワードが入ってきてしまっったからである。意識はどこから来たのか?

私はこれまで、「私=全体」などと書いてきたが、これはもちろん永井均の〈私〉の一側面を(ここでの話に都合のいいところを、恐る恐る)すくいとった表現だった(少なくともそのつもりだった)。その一側面とは「これが実はすべてで、これしかなく、これがなければすべてがないのと同じで、他に並び立つものがない」という意味での私のことだ。現実には私とはこの私しかなく、それがすべてである。しかし、「現実には私とはこの私しかなく、それがすべてである」ならば、他にそのような〈私〉はあり得ないわけだが、しかしそのような〈私〉自体が概念化されて(現実が「現実という概念」に過ぎないものにされて、〈私〉が《私》にされて)他者に《私》が振り分けられるようになる。いや、というよりも、《私》のない他者というものを理解することは無理(?)なので、他者というものの理解のうちに《私》がすでに入っていないといけないというべきか。ともあれ、この《私》というものが(他者の)「意識」という概念の由来なのだとここでは考えたい。(このことについてもっと精緻に考えたいなら、永井均の諸著作(例えば『なぜ意識は実在しないのか』や『世界の独在論的存在構造』)辺りを読むしかないだろう。)

というわけで、話をもとに戻すと、「子どもを生むのは道徳的にどうなのか」という問いを「非意識的物質郡を(苦痛、快楽等を感じる)意識的物質集合体に作り替えるのは道徳的にどうなのか」という一見「有→有」の図式に見える問いへと置き換えたとしても、実は「無→有」の構図は崩すことはできない。なぜなら、意識は無から有になったからである。そして、その「意識」の由来は《私》で、そして《私》の意味内容は〈私〉と同じで「私=全体」ということだから、「意識がない」ということを考えるためには「全体(すべて)がない」ということを考えなければならず、そして「全体(すべて)がない」ということは考えられない。だから、「非意識的物質郡を(苦痛、快楽等を感じる)意識的物質集合体に作り替えるのは道徳的にどうなのか」といってみたところで、なんにも解決しないのである

 

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

 

 

「無」の種類(『生まれてこない方が良かったーー存在してしまうことの害悪』について)

『生まれてこない方が良かったーー存在してしまうことの害悪』は結局、すべて読みきれなかった。確かに、苦痛と快楽が非対称だという主張には、著者も書いている通り絶対的な根拠は与えられないだろうが、曲がりなりにもそのことを主張しているのだから、もう少しそこのところを詰めてもよかったように思う。特に、「存在」(というか、その反対の「存在しない」ということ)についてもうちょっと議論があってもよかったのでは。これについて私がちょっと考えたこと、本書を読んでいる間にずっと頭にちらついていたことをここに書いていきたいと思う。

まず、苦痛と快楽の非対称性を引用する。


(1)苦痛が存在しているのは悪い。
(2)快楽が存在しているのは良い。
(3)苦痛が存在していないことは良い。それは、たとえその良さを享受している人がいなくとも良いのだ。
(4)快楽が存在していないことは、こうした不在がその人にとって剥奪を意味する人がいない場合に限り、悪くない。


さて、(3)の意味するところは、(3a)もともとあった苦痛がなくなることはいいことだ。(3b)そもそも苦痛が存在していないこともいいことだ。ということだと、ここでは言い換えたい(厳密ではないかもしれないが、厳密にできない理由が、徐々に明らかになってくるだろう)。

次に(4)だが、それが意味するところは(4a)もともとあった快楽がなくなることは悪いことだ。(4b)そもそも快楽がないことは悪いことではない。ということになるだろう。そして本書では、(3b)と(4b)を考慮して、そもそも存在などしない方がいい、と主張するのである。

しかし、「存在しない方がいい」と言うが、誰が、あるいは何が存在しないということなのか? そこのところがはっきりしないのが、本書の歯がゆさであったのではないだろうか。「存在しない」ということ、つまり「無」はまず、何が存在しないかによって分類しなければならないと思う。というのも、そのことによって無の性質が全然違ったものになってしまうからである。すなわち、私(=全体、という意味での)が存在しない場合に言われる無と、その全体内で何かが存在しない場合に言われる無である。

まずは私の無から。自分が存在しないという状態は、絶対想像できないし、どういうものか理解することさえ不可能だろう。というのも、私が存在しないとはすべて(=全体)が存在しないということだが、しかし例えばその状態を想像や理解をしていたとしても、少なくともその想像や理解はあるということになり、つまりそれは「すべてが存在しない」ということと矛盾してしまい、やはりその想像や理解は不可能なのである。私の無とは「完全な無」である、がゆえに、全くわけのわからないものである。

しかしながら、『存在してしまうことの害悪』で「存在しない」という言葉が使われているとき、それは上の意味での「完全な無」を指しているわけではないようだ。というのも、本書は反出生主義の本なのだから、まずは私=全体がいて(あって)、その上でそこに新たに命を創造してよいものかを考えるべきだからである。というわけで、以下で見る「全体内で何かが存在しない場合に言われる無」が本書に直接関係があることのようだ。まず、それについて軽く見通しを立てておきたい。

私=全体がないことを「完全な無」と読んだことに対応して、「全体内で何かが存在しない場合に言われる無」を「部分的な無」と呼ぼう。そして、私が見たところ、言わばその強度に応じて「部分的な無」はさらに三種類の分けられる。すなわち「時空間関係での不在」と「概念関係での不在」と「私関係での不在」である。すべてが「無」ではなく「不在」に過ぎないことがまずは重要だ、と言っておこう。「不在」とは「なにかがあると前提された上で、それがない」ぐらいの意味だ。


無→完全な無
 ↘ 
  部分的な無→時空間関係での不在
       ↘
        概念関係での不在
       ↘
        私関係での不在


 まずは一番無の強度が弱いと思われる、あるものが「時空間関係での不在」であることの意味を説明したい。といっても、これはかなり単純である。要は、あるものがあそこにはあるがここにはないという意味での不在(空間関係)、あるものが以前はあったが今はないという意味での不在(時間関係)がそれである。このような意味で「無」あるいは「ない」という言葉が使われるとき、その意味するところは直ちに、容易に理解される。苦痛と快楽の非対称性でいうと、
(3a)もともとあった苦痛がなくなるのはいいことだ、
(4a)もともとあった快楽がなくなるのは悪いことだ
が「時空間関係での不在」と関連する。(3a)も(4a)も価値判断の正否は別にして、言っていることは容易に理解できる。

次は「概念関係での不在」である。これはいってみれば、次のような意味での不在だ。例えば「リンゴが(そもそも)ない」という言明があり、そして実際にリンゴがなかったとする。しかしそれでも、これは「リンゴの完全な無」を言い当ててはいないだろう。というのも、「リンゴ」という概念がまずは前提とされて、その上で「それが」ない、とされているだけだからである。これは以前として無ではなく不在である。「概念関係での不在」である。苦痛と快楽の非対称性でいうと、
(3b)そもそも苦痛が存在しないのはよいことだ
(4b)そもそも快楽が存在しないのは悪いことではない
と関係する話だ。たとえ「そもそも」ないと強調したところで、なにかがないのだから、その「なにか」はまず前提されなければならない。そうでなければ、なにがないかがわからない。しかし、それを前提としてしまえば、「そもそも存在していない」ということの(少なくとも完璧な)理解には達していないと言わざるを得ない。というわけで(3b)も(4b)も、価値判断部分もさることながら、実は起こっている事態(そもそも存在しないということ)からして我々に理解できるかどうかが怪しい。理解できている場合は、暗黙のうちに苦痛あるいは快楽(がある状態)がすでに前提されてしまっているだろう。そしてそれは「無」ではなく「(苦痛あるいは快楽の)不在」である。「概念関係での不在」にすぎないだろう。

しかし理解できない(思考できない)にしても、「なにかがそもそもない」という事態は「ある」のではないか、という気がしてくる。もちろんここでも思考の上では「ない」が「ある」に吸収されてしまっているのであるが、思考の外には、「なにかがそもそもない」ということが常に起きているような気がしないでもない(ここでもやはり、「思考の外」といいながらも、「ない」が「起きている」=「ある」に吸収されてしまっているのだが)。だから、「なにかがそもそもない」という事態をありうるのだ、と一応仮定してみる。すると、仮定としてではあるが実現されたその事態は「不在」ではなく「(完全な)無」だろうか。そうではないだろう。なぜなら「なにかがそもそもない」ということは私=全体という存在の内部でのことだからである。確かにそのなにかは完全にないのだが、それもまた私=全体の内部のことにすぎない、という意味で、それは「不在」にすぎない、よってこのことを「私関係での不在」と呼ぶ。(3b)や(4b)で言われていることをちゃんと考えたければ、実はこの「私関係での不在」との関連で思考しなければならないのだったが、しかし「私関係での不在」は思考不可能であることはすでに述べた。なので、(3b)や(4b)が思考可能な「概念関係での不在」のレベルにまで落ちて議論されることとなるが、それは妥当なことなのだろうか? 本書ではつまるところ、妥協して(?)そのレベルでの議論がされていたのだが、私が知りたかったのはそんなところではなかった。

ともあれ、まとめるとこうなるだろうーーなにかを存在させることがいいことか悪いことかという疑問以前に、なにかが存在しないこととすることを比べるということが出来るのかがまずよくわからない。出来ている時の「なにかが存在しない」は実は「概念関係での不在」レベルにすぎず、それは「なにかが存在しない」ということについて不徹底であって、徹底すると「なにかが存在しない」を「私関係での不在」レベルで思考しなければならないが、しかしそれは思考不可能なのであった。だから「概念関係での不在」レベルで満足しその水準で議論するか、それとも考えるのは無理だとして諦めるか、どちらかしかないのではないだろうか?

 

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

生まれてこない方が良かった―存在してしまうことの害悪

 

 

『アベンジャーズ/エンドゲーム』

アベンジャーズ/エンドゲーム』を見た。うん、面白い!
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とはいえ、私のアメコミ映画に対するスタンスがちょっと歪んでいるのは否定できない。というのも、私は最近真面目な(というかリアリスティックな)映画にまるで興味がなくなり、むしろ「無意味な」映画こそ楽しめるようになって、私にとってアメコミ映画はその「無意味な」映画の一つにカテゴライズされているからだ。とはいえ、ここで「無意味な映画」というのは「映画という嘘を、嘘であることをもはや包み隠さずに提示する類の映画」という意味なので、ある意味で正直な映画といえるのだ(アメコミなど、嘘以外の何物でもないだろう。そして、それでいいのだ、もともと映画は嘘なのだから)。逆に「真面目な映画」とは「映画という嘘を嘘以上のものだと見せる類の映画」なので、こちらの方がある意味で不誠実とも言える(ただし、最も優れた映画は、最も「真面目な映画」ではあろうが)。ともあれ、マーベル映画は無意味だからこそ楽しいと思って(全部ではないが)見てきた。そしてついに『エンドゲーム』である。泣いてしまった。

前作『インフィニティ・ウォー』のラストで、「無差別に」ヒーローたち初め全生命体の半分が消滅させられたわけだが、もちろん「無差別に」などあり得ない。ファーストアベンジャーズばかりが残ったから無差別ではないぞ、といいたいわけではなく、誰が残ろうと「無差別」など構造上あり得ない。というのも、映画には作り手がいることを私達は知っているからで、いくら「無差別」と言われようがそこに製作者の意図を見てしまうのは避けられない。

映画で「偶然」を感じさせるのはかなり難しい(ウディ・アレンの『マッチポイント』におけるような、シニカルなメッセージを伝えるために用いる偶然ならば話は別だが)。そこが現実とは決定的に違うところだ。現実では、例えば神などを設定すれば全ての出来事を神の意図だととることも出来ようが、そんな設定をしなければ、全ては偶然だ、と言っても別に何の違和感もなく、むしろ自然であり、そして偶然起こったことに我々はしばしば驚愕するのである。対して映画で「偶然」に驚愕することは基本ない。というのも、そもそも全ては製作者の意図の現れだと我々は知っているからである。だから、『インフィニティ・ウォー』でのあの「無差別に」というやつは、映画としては完全な「悪手」だったのであり(そのことをちゃんと指摘したレビューを見た覚えがないのが不思議だ)、普通ならかなりの減点ポイントとなったはずだが、そうは(あまり)ならなかったのはもちろん、アメコミ映画というものが、観客が嘘から嘘以上を期待しないで享受できる類のエンターテイメントだからである。ましてや、『アベンジャーズ』のような「お祭り」映画では尚更だろう。

さて、今作『エンドゲーム』で私は何ヶ所かで涙してしまったが、しかし、やはりそもそもが大味なファンタジーのごった煮なのでストーリーに論理的納得感を与えるのは不可能で、物語の展開にはどうしても製作者の意図と(我々の欲望を踏まえた上での)戦略が見え隠れしてしまう。でも、嘘から嘘以上を期待しないで楽しめている方には、そんなことは何の問題にもならないのであろう。

『バースデー・ワンダーランド』

原恵一の最新作『バースデー・ワンダーランド』だが、つまらなかった。原恵一ファンとしてはかなりショックな出来と言わざるを得ない。
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実を言うと前作の『百日紅』も全然面白いと感じなかったのだが、今作は輪をかけてひどい。『百日紅』はまだ短編の積み重ねということで、全体通しての話のつまらなさ、盛り上がりのなさをエクスキューズ出来たわけだが、『バースデー〜』のそれ(話のつまらなさ、盛り上がりのなさ)は弁解不能だろう。また、この手のファンタジーにしては絵の動きが余りにもつまらなすぎる。これでは、子供向けなのだ、と思って目をつぶることもできない。

また、私が気にし過ぎなだけかもしれないが、ちょっとギリギリでは、という性的ニュアンスを含んだ描写も気になった。

私は原恵一ファンだからこれ以上文句は言いたくないが、名作『オトナ帝国の逆襲』や『カラフル』を作った彼ほどの人が……と、はっきり言って無常を感じてしまうほどだった。

『ファイナル・スコア』面白いよ!

『ファイナル・スコア』を見た。面白かった。
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ああ、本当に「面白かった」の一語に尽きるような単純な作品であって、言うことがほぼ何もない、スタジアム版の『ダイ・ハード』である。去年公開された『スカイスクレイパー』も面白かったが、それと同種の作品であり、元プロレスラーが主役を張っているという共通点もある。いや、今作にはテロリズムや人種・民族問題など幾分シリアスな要素も盛り込まれていて、より「よくできていた」とは言えるかもしれない。ポリコレ的配慮もよくされていたり、アラブ系に関するステレオタイプな見方を利用したかなりよくできたブラックユーモアがあったり、それでいて中々渋く苦々しい後味を残す展開など、うーん、よくできている!

とはいえ、こういう映画は「なんの意味もない」からこそ見たいと思うし、見に行くし、見たのである。そういう期待にもよく応えてくれる。この映画は現実の似姿だよ〜、真面目に見ろよ〜、という嘘と鬱陶しさを纏った作品に嫌気がさした人は、今作のような映画をとても爽やかなものとして楽しめるだろう。