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homeroom-man’s diary

映画・本 慰め以上を求めて……

バフチン『ドストエフスキーの詩学』

バフチンドストエフスキー詩学

 

ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)

ドストエフスキーの詩学 (ちくま学芸文庫)

 

 

ドストエフスキー的地獄を「ポリフォニー(多声)」として、肯定的に捉えた書。

ドストエフスキー的地獄とは――「俺のことを他人は決して把握できない」あるいは同じことだが、「俺は他人のことを決して把握できない」、にもかかわらず、「他人は俺のことを把握できると思っていやがる!」――これに尽きるであろう。

ドストエフスキーが心理学について書いた文章をどこかで読んだのだが(なんかの小説のあとがきに引用されていたのだと思う、あるいは『詩学』にも引用されていたかもしれない)、それは、(多少頭のある人間であるならば)この無間地獄に陥らざるを得ないことの秀逸な説明であった。しかし、その文章が見つからないので、ここでは簡単に内容を紹介することしかできない。すなわち――心理学は、これこれこういう時に、これこれこういう理由で人間は行動する、という具合に人間について説明するが、それを知った人間は、その説明通りには行動しないようにできる。

人間は、他人に「あなたって○○な人ですね」といわれたとき、(たとえ当てっていた時でさえ)「違う!」と叫ぶことができ、他人のその評価に全く反したことをすることができる。そしてその性質がいき過ぎると、他人の声を先取りし始め、それを言われる前から「俺は違う!」と叫びだす。そうこうしているうち、(想像の)他人の声を聞くのがどんどんうまくなり、ドストエフスキーは「ポリフォニー小説」の大家となったのであった。

少なくとも言葉によるコミュニケーションの場合、人は相手のことを矮小化せずにはいられない。あるいはこう言い換えてもいい――相手を「観念」化せずにはいられない。自分は相手の全存在を把握することはできず、相手は自分の全存在を把握できない、なぜなら、当たり前のことだが、「わたし」と「あなた」は別の人間だからである。相手の全存在を意識してコミュニケーションなど、不可能だ。かくして、人は相手を「○○キャラ」という安易な「観念」でとらえるようになった、相手にも自分を「○○キャラ」として捉えさせるようになった、そうして円滑にコミュニケーションを行おうとする。そういう全てに徹底的な「否!」を突きつけるのが、突き付け続けどんどん小説が長くなるのが、ドストエフスキーの強さである。

コリン・ウィルソンは『アウトサイダー』でドストエフスキーを取り上げているが、それはこの意味でだ。確認すると、アウトサイダーとは「(普通人の)観念に埋没できない者」のことだが、自分や他人のことを「キャラ(観念)」でとらえ、とらえられることを徹底的に拒絶し、ポリフォニー小説を創作してしまったドストエフスキーは、間違いなくアウトサイダーだ。この「どこまでいっても把握できない」という感覚こそ、アウトサイダーの本質であり、アウトサイダーにとっての真理であるのは言うまでもない。しかし、「どこまでいっても把握できない」とは、実は、「『言葉では』どこまでいっても把握できない」という留保付きの宣言であることが次第に分かってくる。だから、アウトサイダーは最終的に救いを言葉の外に見出そうとする。言葉の外とは、コリン・ウィルソンドストエフスキーにとっては宗教的・神秘的なものだが、ある人間はそれを恋愛・性愛の中に見出し、ある人間は自然や肉体に見出し、ある人間は個人ではなく「人間関係」の中にそれを見出し、ある人間は言葉の中にさえ言葉の外を見るのである。

『アウトサイダー』コリン・ウィルソン

コリン・ウィルソンアウトサイダー

 

アウトサイダー(上) (中公文庫)

アウトサイダー(上) (中公文庫)

 

 

 ずっと気になっていて、最近になってようやく読んだ。読む前は、アウトサイダーアウトローみたいなイメージで書かれた本なのだと思っていたのだが、違った。アウトサイダーとは「観念的人間」であり、「生に意味を見いだせない者」であった。

 ここで、一言くぎを刺しておかなければなるまい。いわゆる善良な市民=普通人が観念的ではない、というのは間違いだ。普通人はある意味において、アウトサイダー以上に観念的である。なぜなら、彼らは生に「意味」があると素朴に信じている(と自分に思い込ませることができる)からである。「意味」が観念でなくて何であろう? 善良な市民は、自分の信じている「観念」に疑いを持たないのだから、「人生は全くの無意味かもしれない」と考え(続け)ないのだから、いや、何も考えずに生きているのだから、アウトサイダー以上に観念的である。同時に、自らの全考え・全行動が置かれた環境に完全に依存しているので、より動物的である。善良な市民は、「素朴に」観念的かつ動物的であること、その点はきちんとわきまえなければならない。

 それでは、アウトサイダーが観念的でないかというと、もちろんそんなことはない。アウトサイダーの「外見」は観念的なことはなはだしい。常日頃からあらゆることを考えているし、難しい本を読むし、才能ある者は難しい本も書く。しかし、なぜそんなことをするのかといえば、実のところ、彼は全く周りの人間のように「素朴には」観念的になることができないからなのだ。それができないから、自ら「生きる意味」なるものを創造しなくてはならなくなるのだ。

アウトサイダーは子どもっぽい」と嘲笑する普通人は、確かに的を得ている(ただ、彼らがそのセリフにこめた、自己正当化のレベルにおいてではないが)。アウトサイダーは一面では子どもだ。なぜなら、「意味のあるもの」に本気になれないからだ。子どもを見ていればわかる。あぁ、子どもはどう考えても「意味のないこと」を楽しむ、遊ぶ。楽しまなければ「意味がない」とも考えない。アウトサイダーとはおそらく、そんな「意味とは(比較的)無関係な子ども時代」を引きずっている存在なのだ。あるいは成長の段階で、「意味に(素朴に)埋没する能力」を獲得しそこなった。あるいは、その能力をいったんは得たが、なにかの不幸で、それまで浸かってきた生ぬるい意味が吹き飛び、同時に生ぬるい意味につかる能力も吹き飛んだ。意味とは無関係な何かが彼の心の働きの、行動のベースになってしまった。その何かとは、(冷めたニュアンスのこもらない)「遊び」だろう。意味なんかどうでもいい、楽しければ! いや、楽しくなくたってかまわない、どんな種類であれ、そこに強烈な感情の動きがあれば! いや、感情なんかも消え去った、もっとカオスな体験を、あるいは、あぁ、至高の体験を! 

 それにも関わらず、なぜアウトサイダーは普通人以上に「生きる意味」を探すのだろうか? そんなものどうでもいいにも関わらずにいればいいのに。あぁ、それはおそらく普通人のせいだろう。鈍感な彼らが見ている夢に合わせなければ生きていけないから、無理に生きる意味なんか探すのだ……無意味でも生きていく、そのための方途を探すべきなのに……

傑作二本。『沈黙ーサイレンスー』『アンチポルノ』

マーティン・スコセッシ監督『沈黙―サイレンス―』
園子温監督『アンチポルノ』

どちらも観る気があまりしなかった。『沈黙』について言えば、その生真面目そうな内容から。『アンチポルノ』は、その「ちょっと古いアーティスティック」な風貌から。そして、それらの印象は観終わった後も変わらなかった。けど、どちらも観てよかったと心底思った。傑作だ。

どちらも「傷」を受けた者の顛末を描いていた。『沈黙』では、他者(信者)が傷つき殺され、宣教師たちもまた(心に)大きな傷を負う。結果、彼らは宗教の鞍替えかキリスト(教)に固執するか、どちらかを選ばざるを得なくなるだろう。いずれにしろ「傷」が(より強固な)信仰を招くさまを描く。

翻って『アンチポルノ』では「傷」が永遠の自己言及を招く。これがわたしの現実! ってわたしが思っているだけでしょ、ホントはこっち! ってわたしが思っているだけでしょ、ホントはこっち! ってわたしが思っているだけでしょ、ホントは……永遠と繰り返される反省が、妹の自殺という痛ましい出来事=「傷」に由来するという作劇をどう見るべきか。

実は、永遠と続く自己言及もまた信仰の一種に過ぎないということ。正確に言えば、強烈な「反省信仰」を持つに至った者が永遠の自己言及に陥るのだ。

(心に)「傷」を受けた際に人間が取れる道は二つしかない(もちろん、どちらか一方だけを取ることはあり得ないはずだが)。「傷の強化」か「傷の相対化」だ。「傷の強化」は思考の回路を固定化してしまう、「傷」から膿のようにあふれ出た憎しみに囚われ、抜け出られなくなってしまうからだ。

「傷の相対化」は別の言い方をすれば、「傷を眺める」ということだ。眺めることで、距離を置くことで、どうにか苦しみから逃れようとするのだ。そして、そう、この時初めて眺める意識が、「自意識」が発生する。その「自意識」を「神」と置き換える時、「信仰」が生まれる。「自意識」をそのまま受け止めようとすれば、永遠の自己言及に苛まれる。しかし、それが果たして「偉い」のか? 永遠と反省し続けることを「信仰」することが「正しい」と「誰が決めるのか」?

『ローグワン』スター・ウォーズ終わりの始まり

『ローグ・ワン スターウォーズ・ストーリー』感想・所見

つまらなかったわけじゃない。が、思った。情報テクノロジーの発達を欠き、それ以外の技術は異様に発達したアナログなSF的世界観を頑迷に守り続けるこの新シリーズは、今後かなりきびしくなるだろうということ。今時巨大なアンテナがないと設計図のデータ一つ送れないような世界観を作る者たちから漂う「恣意性」が、逆にスターウォーズを徹底的に食い散らし、破壊するという予感。旧作の世界観が時代にそぐわなくとも、ファンへの「おべっか」として無理してでもそれを守る、その後ろ向きの姿勢もさることながら、製作人のそのような態度、事情が世界観から容易に読み取ることができるという点で、今後、このシリーズへの人々の関心は着々となくなっていくと容易に予想できる。どういうことか。

製作者の「恣意」あるいは「事情」が画面から漂うにつけ、スターウォーズの「現代の神話」的側面がほとんど消えうせた、ということ。「神話」に作者はいらないはずだ、「その世界はただただそうなのだ」という説得力だけあればいい(『怒りのデスロード』を参照)、そう感じなければ「現代の神話」たりえない。「ミディクロリアン」という設定がファンの間で不評なのがわかりやすい――フォースに説明はいらないのだ。なら、現代の映画で古臭い未来像を見せられても、「ただただその世界はそうなのだ」と納得すればいいじゃないか、という声が聞こえて来る。確かに、よほど鈍感な人にとってはそれも可能かもしれない。だが普通の現代人なら、あれだけ高度な建築物が備える通信手段を起動させるのに、そこらへんに転がっているごつい機械のごついレバーを下げなければならない(あるいは、下げればよい)、という状況に違和を感じざるを得ない。この映画の世界は意図的に、それもかなりしょぼい意図(細かいことは考えたくない!)により作られているという退屈。「ただただそうなのだ」というのは「世界の恣意」だが、『エピソード7』や『ローグ・ワン』のそれは「(製作)人の恣意」に過ぎない。その退屈を回避するためには、現実の現代のテクノロジーを前提にしながら、それでもスターウォーズ的だと思わせる世界観にすることが必要だったように思われる、たとえそれが限りなく困難であったとしても(というのも、ルークの居場所を記した地図の追っかけみたいなものは成立しなくなるだろうから)。

ちなみに、園子温監督の『ひそひそ星』は、この種の問題全体を俯瞰したような作品だった。ものすごくテクノロジーが発達し、物体もテレポートできるような未来に、それでもまだ人はなぜか宅急便を利用していて、時間をかけて贈ることに、時間をかけて贈られたものに心を動かされる。それが人なのだ、あえて言えば人の限界なのだ、と言い切る『ひそひそ星』。対して、現実ならEメールで送れるような情報の取り合いのために星間移動し、戦争する人々を描く『スターウォーズ』をいまだにわりと面白く観れてしまう我々。限界を感じる。

『この世界の片隅に』にみる「良質」の罠

この世界の片隅に』感想・所見

うーむ、すごい映画だ。ネタ化や分析や批判をしたくないと思わせてしまう迫力に満ちている。しかもその迫力は淡々とした日常描写・コメディー演出に宿っている。だから(特に最近の)観客がせずにはいられない作品のネタ化や分析や批判への拒否がとても「やんわり」としており、「拒否に対しての拒否」という分析・批判・ネタ化すらもできない。できたとしても暖簾に腕押しだ。まぁすごかったんだけどね、泣いちゃったんだけどね、と結局は呟いてしまう。

(ただ、ネタ化ができない部分もないわけじゃない。例えば、風呂でのすずの妹のセクシーシーンはちょいキツカッタ。あと、空襲時突っ立っているすずに義父が覆いかぶさって身を挺して守る場面で、義父が急にうたを歌いだしたことのシュール感も相まって、なんかよからぬこと、ありていに言えば卑猥なことを予感がしてしまった……義父も男だし……)

「拒否に対しての拒否」が観客の間で散見される映画でわかりやすいのが、高畑勲監督『かぐや姫の物語』だ。絵の雰囲気といい、背景と登場人物の半端ない馴染み方といい、『この世界の片隅に』と共通点が多い。完成度の圧倒的高さという点でも一致する。が、『かぐや姫の物語』をけなすことはたやすい。

曰く「高尚過ぎる、娯楽要素が足りない」、曰く「フェミっぽい」、曰く「劇場版日本昔話だ」云々かんぬん……反知性という名の「拒否に対しての拒否」が噴出した。「教養をちらつかせとけば俺らが黙ってるとでも思ったか? 映画に難しいことなんか入れたって意味ねぇだろ、おもしろきゃいいんだよ!」と四六時中喚き散らす、頭の悪いことをついに誇りにしてしまった連中の怨嗟が飛び交った。高畑勲の「観客に対しての拒否」が強烈・強固・論理的だったから、それに対する「拒否」もたやすかったのだ。

翻って『この世界の片隅に』はどうか? 大前提として「観客に対しての拒否」は明確にある、といわねばならない。それは、どんな悲惨な中にあっても「日常」を描き通すことに、広島への原爆投下を知っている観客の「わくわく感」を裏切るような淡々さに、つまりはアンチ・カタルシスであることに現れている。それなのに、言いようのない迫力が全編に込められて、半ば本能的に(広島弁ってよくわからないのに)満足してしまう、心を動かされてしまう、面白い、と思ってしまう。ここまでは『かぐや姫の物語』と共通する部分も多い。

決定的に違うのは、『この世界の片隅に』では「日常」=「端的にあること」=「論理の外」が目立つのに対して、『かぐや姫の物語』では「物語」=「構築されたもの」=「論理の内」が目立ってしまう点にある。「論理の外」にあり、なおかつ娯楽性が高い作品に論理で切り込んでも「暖簾に腕押し」だ。一方、「論理の外」をふんだんに示す『かぐや姫の物語』のような作品であっても「論理の内」と‘見なされた’場合、論理(どんなに稚拙なものであれ)によってネタにされ、分析され、批判されることは免れ得ない。

では『この世界の片隅に』に軍配が上がるのかというと、微妙だ。論理で切り込む余地が十分あってもなお、好きにならざるを得ない作品というのが存在するからだ。映画からあるメッセージを読み込む、それは言葉であるがゆえに言葉によっていくらでも反論可能である、が、それを知ってもなおそのメッセージにフィットしてしまう自分に「論理の外」を感じるからだ。

かぐや姫の物語』の阿弥陀如来来迎シーンは忘れがたい(ただ、月に赤ん坊の絵はいらんだろう)。