であ・あいんつぃげ

こんにちは……

タバコについて

3ヶ月ほど禁煙していたが、先週あたりからまたちょこちょこタバコを吸い始めてしまっている。もっとも、2日に1本ぐらいのペースで、しかも1箱(400円)買って1本吸い、残りは全部水につけて捨てているのだが。それでも、もう喫煙体質に戻ってしまっているのかもしれない。普通、3ヶ月もやめていればタバコはまずく感じられるだろうと思って1本吸ったのがよくなかった。つまり、旨かったのである。

心から思うが、タバコを1日1本程度に制限できたらどんなに幸せ(健康)なことだろう。やはり快楽があるのは事実だし、我慢しすぎるのはどんなものにしろ(心の)健康によくない。しかし、ちょうどいいところにとどまれないのもまたタバコであるから、難しい。世間のタバコバッシングに逆らいたい気持ちもあるから尚更である。私は酒が飲めないから、そして酒の方がどう考えても人を直接的に死に追いやるから、酒を非難せずタバコだけバッシングする人の群れには世界からご退場願いたいが、他人を貶めることでどうにか生きていけるだけの彼らが多数派なのだから、仕方がないのだろう。

『ゲット・アウト』から『ブラックパンサー』へ

ゲット・アウト』をDVDで見た。くだらなかったが、けっこう面白かった。
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この映画でなにか考えさせるところがあるとすれば、それはあの一家、というかあの地域の人間らがなぜ黒人を選んだのか、その理由であろう。劇中で主人公の体を乗っ取ろうとする盲目の老人は確か、それは黒人(の身体)に憧れているからだ、というようなことを言う(もっともこの老人自身はもう少し「高尚な」理由なのだが)。さて、これをどう考えればいいのだろうか?

まず思い浮かぶのは、この映画の話は黒人が今や憧れられる対象になり得るからこそ成立する物語だということ、もしくはそうなり得ると主張する物語なのだということである。この観点から見てみると、この映画は(黒人たちがひどい目にあっているからわかりづらいが)黒人差別を描いているように見えて、実は黒人であることへの圧倒的な肯定感を前提にして成り立っているか、もしくはそのような肯定感を持つべきだと主張しているように思えてくる。これは事態を逆にして考えてみるとそう奇異な考え方ではないはずである。つまり、例えば、白人と黒人が結婚することを望まない差別的な白人は「私たちの血に混じってくるな」というような被害妄想的なことを言うが、これなんかはまさに自分たちが優れていると思っているからこそ被害者になるという物語である(そう、そういう「物語」に過ぎない)。

とはいえ、やはり今作は黒人差別の物語だとも(当然のことだが)言われるべきなのであろう。第一に、白人による黒人(の身体)への価値評価がネガティブなものではなくポジティブなものであるとはいえ、やはりまだ黒人をモノのようにひとまとめにして「区別」しているから。第二に、仮に今は違うにしても、やはり黒人がネガティブなレッテルを貼られていたという過去は現にあり、今のポジティブな評価(レッテル)はただ過去の評価(レッテル)を反転させただけなのではないか、という疑いが消えないから。第一点目よりも第二点目のほうが深刻である。というのも、白人、黒人、黄色人種、その他「なんであれ」区別はされうるのだから「区別」というのは普遍的であり、ゆえにみんなに「区別」の呪いがかけられている(のだから、実は呪いなどないと言える)のに対して、過去こそがあるもの(ここでは黒人)の個別性を形作るのであるから、黒人が黒人という個別性を生きる限り苛烈に差別されてきた過去から逃れるのは難しい(過去は普遍化できないがゆえに呪いであり続ける)。差別問題が難しいのは、被差別者がたとえ今現在は(自他共に)ポジティブに捉えられているにしても、それは過去のネガティブな評価に対する相対的なものに過ぎないのではないか、この肯定は絶対的ではないのではないか、という疑念が消えないことに由来するのだろうと思う。

さて、この点に関連して、先日dvdで3回目の鑑賞をした『ブラックパンサー』を手がかりにして考えてみる(ところで私は、政治的理由を抜きにしても、この映画は今まで見たスーパーヒーローもので一番だと言いたい。とにかくエリック・キルモンガーの涙を誘うキャラクター造形が最高である。が、今はその話ではない)。
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この映画の画期性は、上に書いた「第二点目」、つまり過去という呪いのことだが、それから完全に自由な黒人たちを描いたことにある。つまり、ワカンダの連中がそれである。彼らは「そもそも」豊かだし「そもそも」クールだし「そもそも」自信にあふれている。そして私は思うのだが(そして言いにくいことだが)、本当に被差別者が救われる世界とはこっちの方向、つまり「過去を忘れる」という方向なのではなかろうか。もちろんワカンダなんかないわけだが、それでも例えばそういうのをスクリーンで見て「そもそも」感を身に着けて忘却する方向……しかし、それ(忘却)はなんとなく不誠実なように思ってしまうからこそのキルモンガーのあの説得力でもあるのだろうから……うーん、悩ましい。が、やはり「個人が」幸せになるためには忘却しかなかろうよ(キルモンガーの末路を見よ!)。

ドイツ語原書マラソン

約10日ほど休みがあるので、その間にドイツ語の原書を一冊読もうと計画した。予定していた本(ケストナーの"Der 35. Mai")が休みの初めに届かなかったので、うちにすでにあった(そして昔挫折した)同じ著者の”Das fliegende klassenzimmer”(『飛ぶ教室』)を課題の本にした。児童書とはいえ、この間原書で読んだ『点子ちゃんとアントン』よりずっと分量が多く語彙も豊富であるからなかなかの強敵である。ともあれ、前に結構長い前書きは読んだから、p.22からのスタート、p.175までだから150ページぐらいを10日のうちに読むことになる。一日15ページぐらい読めばいい計算だが、もちろん毎日その分量読めるわけではないから、読める時間がある日は20ページを目指す。

6月29日
p.22~36、初日から20ページ(ノルマ)頑張れなかった。ただ、ちょうど一章分を読んだことになる。

6月30日
p.37~40、一日中外出していたので、あまり読めなかった。

7月1日
p.41~60、20ページ達成。

7月2日
p.61~80、そろそろ、この本が『点子〜』よりもずっと面白いのが明らかになってきた。最初は登場人物が多くて(なにぶんドイツ語で読むだけでも大変なので)名前とキャラクターを一致させるのに苦労したが、今はそれぞれの言動を通してキャラがくっきりとした印象。乱暴者と臆病者の友情や、この子どもたちと先生との関係など、ホロッとしてしまった。やはり、前はこの本がつまらなく感じたのは、ただ単にドイツ語力が不足していたということなのだろう。

7月3日
p.81~104、午前中は用事があったが、ノルマ以上をこなすことができた。結構な分量を短期間に読んでいるので、何回も同じに単語に数時間のうちに出会い、結構自然と語彙を吸収して結果として読むのも早くなっているようだ。主人公らが信頼を置いている学校の先生と、その近くに住む世捨て人的な男との関係が明らかになった。毎回毎回ある特定の授業をするときにある特定の冗談を言う先生を、そのことを逆手に取って生徒たちがその先生をバカにし、先生が意気消沈してクラスを出て言ってしまうというエピソードは悲しいが、その話を得意げにする上級生たちを快く思わない子どもたちが大多数だったということを含めて、味わい深い。臆病者のUliが勇気を持ちたいと願っている姿は愛おしい。明日は彼のさらなる活躍を読めることであろう。

7月4日
p.105~133、『カメラを止めるな』を見に行ったりしたが(ちなみに、超面白かった!)、楽々ノルマを超えることができた。臆病者のUliは大胆だが馬鹿げた行為をしでかした(乱暴者のMatthiasとの友情はあぁ、泣ける!)。貧乏なMartinはクリスマスに金の関係でうちに帰ることができなくなったり……。あした40ページ読めればこの本を終わらせられるが、さて……。

7月5日
p.134~175、40ページも読み、そして完読! しかし、こんなに焦らなくてもよかったかもしれない。最後はもう物語を楽しむどころか、息も絶え絶え、後頭部がどういうわけか痛くなってきたりした始末。予定より3日ほど早く、つまり一週間ほどで読み終えたことになる! わーい!

ともあれ、なるほど、傑作だと思うと同時に、こういう「良い話」にまだ自分が感動できること自体を嬉しく思った。一つには(いつも言っている通り)、ドイツ語を理解できたという(本の内容とは関係ない)楽しみがこの本に対する私の評価を上げてしまっている面もあるだろうが、他方で、ケストナーが物語の中に「苦味」を入れ忘れていないことも私を素直にしているのだろう。本作で言えば、世捨て人のNichtraucher(禁煙者)やJohnnyが抱えている傷はがそれだろう。彼らは(もはや)不幸ではないかもしれないが、だからといって傷が消えるわけではない。ケストナーはそれを消そうなどと思って物語を書いていない、それが好ましい。

 

 

飛ぶ教室 (岩波少年文庫)

飛ぶ教室 (岩波少年文庫)

 

 

 

Das fliegende Klassenzimmer

Das fliegende Klassenzimmer

 

 

『海を駆ける』

海を駆ける』を見た。素晴らしかったが、あまり言うことはない。
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インドネシアが舞台の話で、海から人間(日本人)の形をした神様(でいいんだと思う)がやってきて良いも悪いも様々な奇跡を起こし、そしてまた海に帰って行く、というもの。それに四人の若い男女の物語が絡む。彼らによる青春劇は微笑ましいが、この映画は特にプロットで魅せるようなものでもない。

が、最後はやられたなぁ。最後、この若い男女らは海へと帰っていく日本人の形をした神様を追いかけて文字通り「海を駆ける」のであるが、「若さ爆発」とはこのことだろう。観客は目が眩むほどの青春のきらめきを見せつけれる(本当に!)が、もちろんそれ(青春)は長くは続かず、間もなく彼らは海の中にドボン。直前に日本人の形をした神様がもしかしたらヤバい奴かもしれないという描写があるので、四人が沖から海岸へと泳いで戻ろうとしているエンドロールの映像が私には不気味に思えて仕方なかった(私の考え過ぎだろうが、私には彼らが海岸へと戻れるような気がしなかった)。黒沢清映画並みの不気味さだったが、あまり賛同は得られないかもしれない。

 

 

『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』

全く期待していなかった『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』を見たので少し感想。事前に予想していた通り、全く内容のない映画だった。
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今までにないことに挑戦して完全に失敗し退屈な作品になったエピソード8からは打って変わって、今作『ハン・ソロ』は全く新しみのない退屈な作品へと逆戻りした。オタクにはよくわかるのであろう旧作にあった小ネタの種明かし展開の数々、古臭い未来描写への懐古趣味、ど派手だがどうでもいいアクションシーンの数々を怒涛の(説明不足、というかそもそも語るべきものなどなかったことが明らかな)スピードで駆け抜けていく。『ローグ・ワン』とほぼ同じだが、スピード感があっただけマシか。
巷間では「スター・ウォーズ疲れ」などと言われているようだが、それも当然だろう。こういう厳密なルール設定のないSFというかファンタジー世界でのアクションは当然大味にならざるを得ず、そして数年前から始まったスター・ウォーズのこの新シリーズは(旧三部作のように)どうやら活劇映画にしようとしているみたいなのだから、観客は毎回毎回同じ世界観の同じように単純なストーリーを同じように荒唐無稽なアクションを通じて見ることになる。飽きないわけがない。プリクエルが政治劇化したのは、その意味で圧倒的に正しかった。
いや、そこまで言わなくとも、今作にもその片鱗はわずかに認められたが、何か他スターウォーズとのテイストの違いがあればまだマシだったのだが、それもどうやらフィル・ロード&クリス・ミラーを降板させたことで駄目になってしまったようだ。今作に見られる「圧倒的に半端な」コメディ要素は彼らの名残だろう。彼らが最後まで監督していたら、ドタバタアクションの最高峰が見られたことだろうが、そういう極端さが嫌われたのだろう、『ローグ・ワン』同様のゴミができてしまった。にも関わらず『エピソード8』方向の出来の悪さを許したディズニーおよびルーカスフィルムは、多分あまり頭が良くないのだろうと思う。

「ひとりごと」BUMP OF CHICKEN

最近またBUMP OF CHICKENを聴き直しているが、なかなかいい。今のところ一番新しいアルバムの『butterflies』もなかなかいいが、やっぱり思春期(だったっけかな?)の頃に聴いていたものは格別。特に『orbital period』の(藤原基央の)思考の煮詰まり感は半端ではなく、こんな曲を聴いていなければ私ももう少し軽やかに生きられたのではないかと疑うほど(こんなややこしいバンドが日本の超人気バンドだなんて!)。特に「ひとりごと」がやばい。

「ひとりごと」は(大げさに言うと)倫理というのは果たして成立しているのか、という疑問を投げかける。2番のAメロの歌詞前半部がこの曲のテーマをわかりやすく伝えている。

ねぇ/心の中にないよ/僕ためのものしかないよ/そうじゃないものを渡したいけど渡したい僕がいる

そう、どう考えたって、いやむしろ一度考えてしまったら「全て自分のすることは自分のためにしている」という理屈が絶対の真理のように思われてくる。この曲に沿って言えば「私があなたに優しくするのも結局は私の益になるからなのだ」ということを否定するのは難しい、ということだ。優しさによって直接的に「あなた」から自分の利益になるものを引き出すことももちろん「私のため」だが、それはまだ甘っちょろくわかりやすい話で、本当の問題はそれじゃない。「わたし」にはなんの利益にならず「あなた」にだけ利益になることを「わたし」がしても、結局「わたし」のためになってしまう、なぜならそうなることを「わたし」が望み実現したのだから。そしてそれは本当の優しさではない……それがこの曲で嘆かれている問題なのだった。

バンプの他の多くの曲同様、「ひとりごと」もまた提起された問題に対してある解答を与えている。ここではその解答とは「優しさは人の心の中にはないが、人と人との間にある」といったもの。つまり、動機はどこまでも利己的かもしれないが、事後的に「優しさ」と(相手から)みなされる行動を我々は取るのであり、そういう関係性ぐるみで眺めれば、人間という存在もそう悪くはない、といった感じである。エゴから脱するために、自分をもっと大きな関係性の中の一部とみなすという点で、仏教の縁起説なんかと近いのかもしれない。

昔この曲を聴いたときは「うまい展開だなぁ!」と感心したものだが承服しきれなかった。その時は「人と人との関係の中に優しさがあるって言ったって、結局わたしがわたしの内部でそう思っているに過ぎないじゃないか」という点で引っかかっていたのだが、今はむしろ「究極的には人間は利己的存在であったとして、そもそもそれが悪いとなぜ言えるのか? 〈本当の優しさ〉なるもの、ありもしないものを想定したことが、そしてそれにたどり着けないと嘆いていたことが、そもそも間違っていたのではないか。エゴイスティックで当たり前なのではないか」という思いが強い。そして実は、最近のバンプの曲、例えば「Hello, world!」のような「自分=世界」という曲を聴くにつけ、明らかに藤原基央の中にも「ひとりごと」で示された方向とは真逆のベクトルが潜んでいると私は踏んでいるのだが、それはまた別の話。

 

高橋ヨシキさんについて

今、シュティルナーの『唯一者とその所有』の原書読みをまた再開した。といって、ケストナーの“Der 35. Mai”が届くまでの短い期間だが(間違えて変な業者に頼んだせいでなかなか届かない)。ともあれ、『唯一者〜』は電子書籍で読んでいるのだが、そのkindleによるとまだ11%しか読めていない。内容はといえば、宗教をボロクソに言う人間もまた(宗教の代わりとして)結局は崇高なものを崇めているに過ぎないと断じているところ。例えば次のような調子で批判している、久しぶりにちょっと翻訳してみよう(原文も載せたいが、ドイツ語の入力の仕方がわからない!)。


国家の基礎としてのキリスト教、つまりはいわゆるキリスト教国家に反対する当の人々が、道徳は社会生活と国家の支柱である、と繰り返して飽くことを知らない。まるで、道徳の支配が神聖なるものによる完全なる支配・一つの「ヒエラルキー」ではないかのような言い草だ。


つまり、このような人々は宗教(あるいは神)の代わりに道徳を崇高なるものとして掲げているだけであって、「崇高なるものを掲げる」という抽象的な構造自体は宗教の信者たちとまるで変わらない、というある意味では当たり前のことを言っている。ここらへんのことを読んでいて思い出すのは、映画評論家の高橋ヨシキさんだ。


はじめに断っておくと、私はかなりの高橋ヨシキファンである。毎週NHKラジオの「高橋ヨシキのシネマストリップ」は欠かさず聞いているし、ご著書も(買ってはいないが立ち読みで)結構読んだ。彼の主張に共感することは多々ある。しかし、やはり自分とはまるで違うタイプの人間を眺める感じでファンなのである。さっき「抽象的な構造」という言葉を使ったが、言ってみれば私は高橋ヨシキさんとは違う抽象レベルを生きているのだと思う。


ヨシキさんは自身をサタニストだとして宗教を否定するわけだが、サタニズムの教義がどんなに宗教に対して否定的であろうが、あるいは「自分の頭を使って考えろ」的な教えであろうが、サタニズムを「掲げている」時点で宗教を「掲げている」人間と同じ穴のムジナである。現に、さっきの『唯一者〜』からの引用じゃないが、ヨシキさんはなんと道徳的なことだろう! ヨシキさんはあんなに頭が良さそうなのに、こういう視点のとり方が圧倒的に欠けているように見える。ヨシキさんは科学に絶大な価値を置いているが、それだって同じである。宗教の代わりに科学を掲げているに過ぎない、崇高なものの内容が変わっただけで、「崇高なもの」は残り続けている。本当に宗教を否定したいのなら、「自分の頭を使って考えろ」的な非宗教的な教えさえ、それが教えであるがゆえにやはり宗教的なのだとして退けなければならないはずだ、決して「掲げて」はならないはずだ。宗教の否定とはそこまで、つまり「信じること」一般の否定にまでいかなければ達成できないことであるはずだ、それぐらい途方もないことであるはずだ。おそらくヨシキさんにとってキリスト教の否定は個人史的・具体的に大きなことであったのだろうから、否定した先でもまだ自分がキリスト教的な構造のうちにあることに気づきにくいのだろう。しかし、熱狂的なアンチ・キリスト教徒がキリスト教徒の変形に過ぎないことは、もう一つの宗教に過ぎないことは、かなり当たり前のことのように思われるのだが。

 

高橋ヨシキのシネマストリップ

高橋ヨシキのシネマストリップ

 

 

 

新悪魔が憐れむ歌

新悪魔が憐れむ歌