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homeroom-man’s diary

映画・本 慰め以上を求めて……

傑作二本。『沈黙ーサイレンスー』『アンチポルノ』

映画の感想・所見

マーティン・スコセッシ監督『沈黙―サイレンス―』
園子温監督『アンチポルノ』

どちらも観る気があまりしなかった。『沈黙』について言えば、その生真面目そうな内容から。『アンチポルノ』は、その「ちょっと古いアーティスティック」な風貌から。そして、それらの印象は観終わった後も変わらなかった。けど、どちらも観てよかったと心底思った。傑作だ。

どちらも「傷」を受けた者の顛末を描いていた。『沈黙』では、他者(信者)が傷つき殺され、宣教師たちもまた(心に)大きな傷を負う。結果、彼らは宗教の鞍替えかキリスト(教)に固執するか、どちらかを選ばざるを得なくなるだろう。いずれにしろ「傷」が(より強固な)信仰を招くさまを描く。

翻って『アンチポルノ』では「傷」が永遠の自己言及を招く。これがわたしの現実! ってわたしが思っているだけでしょ、ホントはこっち! ってわたしが思っているだけでしょ、ホントはこっち! ってわたしが思っているだけでしょ、ホントは……永遠と繰り返される反省が、妹の自殺という痛ましい出来事=「傷」に由来するという作劇をどう見るべきか。

実は、永遠と続く自己言及もまた信仰の一種に過ぎないということ。正確に言えば、強烈な「反省信仰」を持つに至った者が永遠の自己言及に陥るのだ。

(心に)「傷」を受けた際に人間が取れる道は二つしかない(もちろん、どちらか一方だけを取ることはあり得ないはずだが)。「傷の強化」か「傷の相対化」だ。「傷の強化」は思考の回路を固定化してしまう、「傷」から膿のようにあふれ出た憎しみに囚われ、抜け出られなくなってしまうからだ。

「傷の相対化」は別の言い方をすれば、「傷を眺める」ということだ。眺めることで、距離を置くことで、どうにか苦しみから逃れようとするのだ。そして、そう、この時初めて眺める意識が、「自意識」が発生する。その「自意識」を「神」と置き換える時、「信仰」が生まれる。「自意識」をそのまま受け止めようとすれば、永遠の自己言及に苛まれる。しかし、それが果たして「偉い」のか? 永遠と反省し続けることを「信仰」することが「正しい」と「誰が決めるのか」?

『ローグワン』スター・ウォーズ終わりの始まり

映画の感想・所見

『ローグ・ワン スターウォーズ・ストーリー』感想・所見

つまらなかったわけじゃない。が、思った。情報テクノロジーの発達を欠き、それ以外の技術は異様に発達したアナログなSF的世界観を頑迷に守り続けるこの新シリーズは、今後かなりきびしくなるだろうということ。今時巨大なアンテナがないと設計図のデータ一つ送れないような世界観を作る者たちから漂う「恣意性」が、逆にスターウォーズを徹底的に食い散らし、破壊するという予感。旧作の世界観が時代にそぐわなくとも、ファンへの「おべっか」として無理してでもそれを守る、その後ろ向きの姿勢もさることながら、製作人のそのような態度、事情が世界観から容易に読み取ることができるという点で、今後、このシリーズへの人々の関心は着々となくなっていくと容易に予想できる。どういうことか。

製作者の「恣意」あるいは「事情」が画面から漂うにつけ、スターウォーズの「現代の神話」的側面がほとんど消えうせた、ということ。「神話」に作者はいらないはずだ、「その世界はただただそうなのだ」という説得力だけあればいい(『怒りのデスロード』を参照)、そう感じなければ「現代の神話」たりえない。「ミディクロリアン」という設定がファンの間で不評なのがわかりやすい――フォースに説明はいらないのだ。なら、現代の映画で古臭い未来像を見せられても、「ただただその世界はそうなのだ」と納得すればいいじゃないか、という声が聞こえて来る。確かに、よほど鈍感な人にとってはそれも可能かもしれない。だが普通の現代人なら、あれだけ高度な建築物が備える通信手段を起動させるのに、そこらへんに転がっているごつい機械のごついレバーを下げなければならない(あるいは、下げればよい)、という状況に違和を感じざるを得ない。この映画の世界は意図的に、それもかなりしょぼい意図(細かいことは考えたくない!)により作られているという退屈。「ただただそうなのだ」というのは「世界の恣意」だが、『エピソード7』や『ローグ・ワン』のそれは「(製作)人の恣意」に過ぎない。その退屈を回避するためには、現実の現代のテクノロジーを前提にしながら、それでもスターウォーズ的だと思わせる世界観にすることが必要だったように思われる、たとえそれが限りなく困難であったとしても(というのも、ルークの居場所を記した地図の追っかけみたいなものは成立しなくなるだろうから)。

ちなみに、園子温監督の『ひそひそ星』は、この種の問題全体を俯瞰したような作品だった。ものすごくテクノロジーが発達し、物体もテレポートできるような未来に、それでもまだ人はなぜか宅急便を利用していて、時間をかけて贈ることに、時間をかけて贈られたものに心を動かされる。それが人なのだ、あえて言えば人の限界なのだ、と言い切る『ひそひそ星』。対して、現実ならEメールで送れるような情報の取り合いのために星間移動し、戦争する人々を描く『スターウォーズ』をいまだにわりと面白く観れてしまう我々。限界を感じる。

『この世界の片隅に』にみる「良質」の罠

映画の感想・所見

この世界の片隅に』感想・所見

うーむ、すごい映画だ。ネタ化や分析や批判をしたくないと思わせてしまう迫力に満ちている。しかもその迫力は淡々とした日常描写・コメディー演出に宿っている。だから(特に最近の)観客がせずにはいられない作品のネタ化や分析や批判への拒否がとても「やんわり」としており、「拒否に対しての拒否」という分析・批判・ネタ化すらもできない。できたとしても暖簾に腕押しだ。まぁすごかったんだけどね、泣いちゃったんだけどね、と結局は呟いてしまう。

(ただ、ネタ化ができない部分もないわけじゃない。例えば、風呂でのすずの妹のセクシーシーンはちょいキツカッタ。あと、空襲時突っ立っているすずに義父が覆いかぶさって身を挺して守る場面で、義父が急にうたを歌いだしたことのシュール感も相まって、なんかよからぬこと、ありていに言えば卑猥なことを予感がしてしまった……義父も男だし……)

「拒否に対しての拒否」が観客の間で散見される映画でわかりやすいのが、高畑勲監督『かぐや姫の物語』だ。絵の雰囲気といい、背景と登場人物の半端ない馴染み方といい、『この世界の片隅に』と共通点が多い。完成度の圧倒的高さという点でも一致する。が、『かぐや姫の物語』をけなすことはたやすい。

曰く「高尚過ぎる、娯楽要素が足りない」、曰く「フェミっぽい」、曰く「劇場版日本昔話だ」云々かんぬん……反知性という名の「拒否に対しての拒否」が噴出した。「教養をちらつかせとけば俺らが黙ってるとでも思ったか? 映画に難しいことなんか入れたって意味ねぇだろ、おもしろきゃいいんだよ!」と四六時中喚き散らす、頭の悪いことをついに誇りにしてしまった連中の怨嗟が飛び交った。高畑勲の「観客に対しての拒否」が強烈・強固・論理的だったから、それに対する「拒否」もたやすかったのだ。

翻って『この世界の片隅に』はどうか? 大前提として「観客に対しての拒否」は明確にある、といわねばならない。それは、どんな悲惨な中にあっても「日常」を描き通すことに、広島への原爆投下を知っている観客の「わくわく感」を裏切るような淡々さに、つまりはアンチ・カタルシスであることに現れている。それなのに、言いようのない迫力が全編に込められて、半ば本能的に(広島弁ってよくわからないのに)満足してしまう、心を動かされてしまう、面白い、と思ってしまう。ここまでは『かぐや姫の物語』と共通する部分も多い。

決定的に違うのは、『この世界の片隅に』では「日常」=「端的にあること」=「論理の外」が目立つのに対して、『かぐや姫の物語』では「物語」=「構築されたもの」=「論理の内」が目立ってしまう点にある。「論理の外」にあり、なおかつ娯楽性が高い作品に論理で切り込んでも「暖簾に腕押し」だ。一方、「論理の外」をふんだんに示す『かぐや姫の物語』のような作品であっても「論理の内」と‘見なされた’場合、論理(どんなに稚拙なものであれ)によってネタにされ、分析され、批判されることは免れ得ない。

では『この世界の片隅に』に軍配が上がるのかというと、微妙だ。論理で切り込む余地が十分あってもなお、好きにならざるを得ない作品というのが存在するからだ。映画からあるメッセージを読み込む、それは言葉であるがゆえに言葉によっていくらでも反論可能である、が、それを知ってもなおそのメッセージにフィットしてしまう自分に「論理の外」を感じるからだ。

かぐや姫の物語』の阿弥陀如来来迎シーンは忘れがたい(ただ、月に赤ん坊の絵はいらんだろう)。