しゅばいん・げはぷと

こんにちは……(全てネタバレ)

『クリード 炎の宿敵』

クリード 炎の宿敵』(『クリード2』)を見た。泣き濡れてしまった。
f:id:hr-man:20190112211759j:image

しかしまぁ、欠点から言うと、前作から感じていたことだが、ロッキー(シリーズ)にはあったストーリー・テリングのタイトさとシンプルさは失われ、冗長に感じた部分もあるにはあった。しかし、その印象もまたときに来るエモーションの爆発で掻き消されるのだが。ともあれ、いわゆる「完璧な」作品ではないことはまず言っておかなければならない。

にもかかわらず、である。にもかかわず、本作がサイコーの一本であることに疑う余地はない。ロッキー4と関連付けてもなお真面目な雰囲気の映画を成立させ得たことが、まずは驚きであった。途中のトレーニングシーンは前作より盛り上がったように感じたし、最後の試合の勝敗における「ひねり」が物語的にとても大きな効果を持っていて、意外なだけでなく感動的だったのには唸らされた。「たとえ負けても、そのことが目に入らないぐらい大事なことがあるだろ!」といういつものテーマが、予想外(少なくとも私にとってはそうであった)の形でスクリーンに映し出されたのである。

確かにロッキー4の直系だと思える場面もなきにしはあらずで、トレーニング・シーンの(いい意味での)馬鹿さ加減はとてもいい。

その一方で、奥さんの難聴が子どもにも遺伝してしまうという人生の厳しさ・苦さも描かれていて、ロッキーシリーズらしい。(ただし、私はほとんど反出生主義者なので、これは映画なのだということを度外視にして「子どもに障害が遺伝するかもしれないのに子どもを作り産んだ」ことを考えると複雑な気分だが、今はそのことを書いて感動に水をさしたくない。ちなみに、それに少し関連していることを前にロッキーと絡めて書いたことがある→『ロッキー ザ・ファイナル』に違和感(など覚えたくないが……) - しゅばいん・げはぷと

キャラクターの魅力は言うに及ばず。ロッキーとクリードの仲直り場面の爽やかさと自然さは、あぁ、お前らホントいいやつだな! と思わざるを得なかった。この映画のベストシーンかもしれない。

とにかく、ロッキーは最高ということに尽きる。個人的には、ロッキー4よりもロッキー・ザ・ファイナルを予習しておくことを勧める。

 

 

『ゲルマニア』

ゲルマニア』をドイツ語でついに読み終えた……。長い戦いだった……。

 

ゲルマニア (集英社文庫)

ゲルマニア (集英社文庫)

 

 

歴史ものでありかつミステリーだが、ミステリー部分は大したことがなかった。というか、これまた最近(なぜかドイツ語で)読んだサイモン・ベケットの『法人類学者デイヴィッド・ハンター』と恐ろしく話の展開が似通っていたので、どうかと思ったが。

 

法人類学者デイヴィッド・ハンター (ヴィレッジブックス)

法人類学者デイヴィッド・ハンター (ヴィレッジブックス)

 

 

似通っていたというのは、つまり、女性が被害者であることや、しかもひどい拷問の後に殺されること、一旦は白痴の男が捕まり一件落着にみえたところで黒幕の存在が露わになることなど、この点に関しては、はっきり言ってうんざりであった。この二作の影響関係はわからないが、まぁ、ありきたりと言えばありきたりの話なのかもしれない。ただ、あまりにも似ているので、他のミステリーに手を出す気が失せている。というのも、また同じような展開だったら最悪だからである。こういうのは、ミステリー界である時期流行ったりしたのだろうか?

ともあれ、『ゲルマニア』に話を戻すと、続編を読みたくなるぐらいにはキャラクターの魅力は十二分にあった。とはいえ、続編を読むかはわからない。私はドイツ語の勉強も兼ねて読んだので特にそう感じたのだろうが、あの時代の描写・説明の冗長さや、ストーリーテリングの回りくどさにまた耐えられるかどうかがわからないからである。でも、彼らがどうなるかは気になるなぁ。

それと、1つ気づいたのは、欠点というわけではないが、歴史小説とミステリーを融合させるのは結構難しいというか、実はその2つは本質的に相容れないのでは、ということである。というのも、ミステリーの快感というのは、合理的思考によって正解を導いていくことによるもので、そこで偶然が大きな役割を演じてしまったら(例えば、たまたま入った店でたまたま悪自慢をしている犯人を見つけて一件落着などしてしまえば)しらけるわけだが、一方歴史的事実とは、なにはともあれもう起こってしまったことであり、究極的にはそのことに理由はなくただそうなのであり(=偶然)、それはもう変えられないのだから、それを物語の中に組み込むとしたら、それは偶然と同じような、合理性にとっての異物としての不合理を演じざるを得ない。であるから、歴史(知識ではなく、実際にあった出来事そのもの)が少なくともミステリー的捜査に影響を与えてはならないのである。本作はそのような間違いを犯しているわけではないのでミステリー的倫理は守られているが(とはいえ、歴史とは関係ないところでそれを破ってしまっているところはある。黒幕周りがそれである)、逆に言うと、実際に起きたことがダイレクトには展開に反映されないので歴史小説としては物足りなさが残る。歴史が(犯人の動機など)背景としてだけ使われるだけで、それが限界なのだ。

『ワイルド・ストーム』

『ワイルド・ストーム』を見た。ほっこりした。
f:id:hr-man:20190108025642j:image

ここまで何もない映画というのも最近は珍しい。ラストの見せ場がマッドマックスから美学を抜いたようなあれだったのはただただ愉快(事前に予想できていてもよそさそうなのに、私は全く予想だにしていなかった!ので、気づいたときには笑っていた。ただ、もうちょっと色々見せてくれたらとは思ったが)。その他の場面でもしばしば他の観客の方々から笑いがもれていて、中々いい雰囲気だった。

あえて特筆すべき点をあげるなら(ということは、本当はそんなものはなかったということだが)、主人公の兄弟二人のキャラクター造形だろう。特に兄貴だが、彼らの締まりのない、全然かっこよくない、幼くて知性の全く感じられない、しかし全然悪気のない感じの会話は(皮肉ではなく)新鮮であり、可愛げさえあった。とにかく主人公感が全くなかったのが今も深く印象に残っている。思い返してみると、小市民にさえなりそこね、しかもなりそこねたことにすら気づいていない、ゆえにルサンチンさえも持っていないのでそこそこ善良な、凡庸中の凡庸な人間(現実に結構いると思います)にスポットライトを当てた作品とも言えなくもない。よく、普通は主人公にならないような人物が主人公である物語はそのことで褒められるが、だとすれば、本作『ワイルド・ストーム』は称賛に値するだろう。意図されたものではなかったと思うが(というのも、一応彼らは小市民ではあるという設定ではあったから)、特に後半の兄弟の掛け合いの凡庸中の凡庸さとしかいいようのない感じは、ちょっと見たことがなかった。

vs.『欲望会議』〜この本は自己批判して(しまって)いるか〜

『欲望会議』(千葉雅也、二村ヒトシ、柴田英里)を読んだ。思うところがあるので、ちょっと感想(というか批判)を書いてみようと思う(とはいえ、最初から軽いものを読む気持ちで読んだのだから、文句を言う必要、または権利さえ実は全くないのだが……)。

 

欲望会議 「超」ポリコレ宣言

欲望会議 「超」ポリコレ宣言

 

 

本書の三人の著者の思考の基本姿勢は、次のようなものになるのだろう。つまり:

人には無意識があり、それをきちんと受け止めることが大切である

という実は(今や?)常識的すぎる考え方である。「無意識」というのも、別に学問的に厳密な意味で使われているわけではなく(たとえそう使われていたとしても、だからどうしたという話だが)、ごくごくざっくりした意味での「無意識」、つまり「自分では容易に探ることの出来ず、しかし確実に自分に影響を与えている、自分の心の中にある知識や経験などのプール」とでもいったイメージのことだと思っていい。二村ヒトシの言う「傷」なども、この意味での無意識のうちに入るであろう(このテキトーさの問題も、後に指摘する)。

もし本書に貫かれているこの基本姿勢が常識的でないとしたら、それはその後半部分、つまり「それ(無意識)をきちんと受け止めることが大切である」というところであろう。というのも、まさにそれをきちんと受け止めていない人々が(今や?)たくさんいることをこの本は問題視して批判しているのだから。「無意識をきちんと受け止めていない人」として本書では例えば、本当は自分の傷の苦しみの解消することだけが目的なのに(あるいは逆に傷の苦しみという快楽を味わうのだけが目的なのに)正しさを振りかざして誰かを攻撃しているポリコレ野郎や安易な#MeToo女などがやり玉に挙げられている。というか、もちろん「無意識をきちんと受け止めていない」ことだけで誰かを非難することは難しいので、無意識ときちんと向き合っていない人は「弱い(強くない)」し、社会に害悪をもたらすとされ批判されている。その上で無意識と向き合って「強くなる」ことが奨励されている。

以上が、私のなりの本書の要約である(精確ではないと思うが、そもそも本書全体が精確ではなく、読者にざっくり理解するよう促していると思う)。まず最初に私が引っかかるのが、そもそも「無」意識なのだから、無意識が「ある」とはどういうことを言っているのか実はよくわからない、というそもそも論。無意識などと言わず、実は、二村ヒトシが言うところの「傷」とかニーチェが言うところの「ルサンチマン」程度の言葉で抑えておくほうがかえっていいのではないか。「傷」や「ルサンチマン」は「ある」からである(というと、無意識のレベルでは実はそういうことではないのだ、とか話が転がるのだろうが……)。ただしこの問題は、何かを論じるなら何か確実なものを「設定」しそこから出発しなければならないというそもそもある一般的な問題の一種で、その「設定」が本書では「無意識」だった、それだけのことであって、目くじらを立てることではないかもしれない。もしそのこと(「設定」)を批判するのだとしたら、この世のほとんど全ての本(ただし「全ての本」ではない)を同じ理由で批判しなければならなくなるだろうから。

ということにしても、さて、無意識があるとしたら、それとちゃんと向き合っていないことは確かに「弱い」ことかもしれないが、しかしそもそもどうして強くなければならないのだろうか? それは害悪だから? しかし、そもそもなぜ害悪であってはならないのか? もちろんこの種の問いに対しては究極的には答えられない。答えられた答えに対して、さらにその根拠を問う、という流れが繰り返され、終わらないからである。そして私が言いたいのは、むしろこのような無根拠性(根拠の答えられなさ)を見えなくするためにこそ、「無意識」などという神秘的な言葉が持ち出されたのではないか、ということだ。千葉雅也は本書の中で、人は(時に)全き偶然性に耐えられず物語を捏造する、というようなことを言っているが、それを言うなら本書の中での「無意識」は本書の主張の無根拠性に耐えられず持ち出された概念に過ぎないんじゃないか?(千葉雅也はそれも認めるのだろうと思う。だったら持ち出さないでほしいが)

また、本書を読んでいてバカバカしくなっていくのは、議論の深め方が多くの場合「連想ゲーム」ないし「言葉の置き換えゲーム」にすぎないから全然議論が深まっておらず、実のところとても常識的でしかも同じ意見を言葉だけを変えて永遠と述べ続けているだけだからだ。「連想ゲーム」ないし「言葉の置き換えゲーム」とは、本書の中の一番下らない例で言うと(千葉雅也本人が「あまりに突飛」だとエクスキューズしてはいるが)、次のような「話芸」である。「『ゆらぎ荘の幽奈』という漫画で、偶然の水の噴射で女性が裸になるというラッキースケベが描かれているが、ラッキースケベというのは責任が問えないものですよね、ところで、原発事故もまた水と関係しているが、それもまた実のところは誰かのせいというより偶然という要素が大きいのだから実は責任が取れないものですよね、ということで、この2つの事例(『ゆらぎ荘幽奈』と原発事故)は関係しているのではないでしょうか」……無意味だし、無益だろう。私にはこういう話芸は端的に言ってバカバカしく感じられる(バカバカしく感じていい前提なら、時に面白くも感じられようが)。ここまでひどいものではなくても、すでに述べたように「傷」と「無意識」を置き換えても話が成立しそうな感じや、柴田英里が震災の「偶然性と暴力性、非対称的で「わかりあうこと」など到底できない圧倒的なものの快感と不快感」のことを、震災の「エロさ」と言い換えていたりするところなどは、何かを言っているように見えて、何も言っていないに等しいと思った。地震のヤバさとセックスのヤバさは違う、当たり前のことではないだろうか? もしその2つのヤバさが同じだと言い張るなら、物事の差異を無視してクソも味噌もポリコレ違反だと断罪するPC野郎の批判などしても説得力がない。柴田英里もPC野郎も記号(言葉)に引っ張られて、同じだの似ているだのと言ってるだけだからである。本書全体へと拡大して言うなら、ツイッターフェミニズムなど安易な連帯を三人は批判しているが、その三人のそれぞれの主義主張やその時使われる概念(例えば「無意識」や「傷」や「エロさ」など)自体もまた他の概念と安易に交換可能なものとして扱われ、つまりただの記号として扱われ、しかもそのことによって三人はある程度の共感を得ているのであるから、彼らが批判しているところの安易な連帯と大した違いはないことになる。

とはいえ、最後に本書でいいところを特に1つ上げるとしたら、それも柴田英里の発言であった。彼女は一貫して、ある種の女性がテキストに過ぎないもの(わかりやすい例で言えば、物語の登場人物や赤の他人であるポルノ女優など)と安易に同一化して感情的になって誰か・何かを攻撃し始めることを批判している。この種の批判は正当だろうと思う、というか、(フェミニズムに限らず)大体の問題というのはこれに尽きるだろうと思う。しかし突き詰めて考えると、実はこれはフェミニズムも破壊してしまう。というのも、フェミニストを名乗るにはまずは自分を「女性」というテキスト(記号)に過ぎないものと同一視、とまでは言わなくとも、自分をその枠の中に閉じ込めなければならないのだから、フェミニズムはまさに柴田によって批判されているところのもののはずだ。私は私であって他の何かではない、というのが柴田英里の主張のはずだが、それはフェミニズムになり得ない、のではないだろうか。そしてそれでいいのではないだろうか。

ドイツ語マラソン途中経過

 

ゲルマニア (集英社文庫)

ゲルマニア (集英社文庫)

 

 

最近は長い休み中なので、また懲りずにドイツ語で長い小説を(休み中に読み終えるのを目標に)読んでいる。『ゲルマニア』という歴史+ミステリーといった感じの本で、舞台は1944年のベルリン。ユダヤ人の元刑事がその優秀さゆえに、なんとナチ(というかSS)が手をこまねいている事件の解決に協力しなければならなくなる、という面白い設定。

ところどころ時代背景の説明・描写が入り(むしろそれをするためにストーリーがあるような印象さえ受ける)中々読み応えがある、といったら感じはいいが、ドイツ語で読んでいることもあり、多少面倒ではある。それと、たぶん世界のミステリーの潮流なのだろうが、グロテスクな描写が多く辟易とする。生理的に嫌だというより、よりグロテスクにして刺激たっぷりにしないとみんなは退屈してしまうのだろうという作者の配慮と、とはいえどんな刺激にも慣れてしまう我々のことを考えると、切りがないという思いでいっぱいになる。

とはいえ、中々キャラクターが魅力的で面白い。続編が数冊出ているようだが、手を出そうかどうか検討するくらいにはいい作品だ。

 

Germania

Germania

 

 

2018年ベスト映画(+ブログ名変更)

ブログ名を変更した。

それはいいとして、今年(2018年)のベスト映画(おすすめ映画)を5本上げようと思う。基本的にはこのブログに書いたものから。(ちなみに、ブログに感想を書かずとも観た映画は結構あるが、大抵は何か書くほどのものではなかった、つまりはつまらなかったから書かなかった。ただし、このブログが始まる前に観たものはほぼ書いていないと思う。)

 

5位『へレディタリー/継承

かなり期待して見に行ったが、あまり怖くなく、当ブログではなぜ怖くないのか、その理由を徹底的に書いた。しかしこの作品、つまらなかったわけじゃない。最恐ではなかったが、最悪なシーンが(いくつか)あり、そういう意味で最高ではあった。

 

4位『SUNNY 強い気持ち・強い愛

感想を書いたあと、オリジナル版を見返したが、今作はほとんどそのコピーと言ってもいいぐらいであることが判明。セリフからギャグシーンから果てはあまりうまくない展開まで……オリジナル版のコピーであった。その薄っぺらさがまた、作品内の在りし日の女子高生たちの薄っぺらさと呼応したりもするのだが、にもかかわらず、いや、だからこそ、過去を思うことそのものは、過去の内容とは実は関係のなく、いつだって濃厚な何かなのだと告げ知らせることもできた。

 

3位『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ

同時に『イコライザー2』も推す。どちらも私は2の方が断然好みである。どちらの作品の主人公(ら)も「もう終わっている」人である。本当はもう人生でやることなどないのに戦っている、その寂寥感に馴染んでいる私を発見した。

 

2位『インクレディブル・ファミリー

当ブログでは今作の自己矛盾的なメッセージについて言及したが、その厄介さとは正反対の面白すぎるアクションとコメディこそが(もちろん)この映画の魅力である。見るべし! 私は3回ぐらい見てしまった。

 

1位『ブラックパンサー

悪役のキルモンガーの魅力に尽きるだろう。彼はああならざるを得なかったのであり、しかも素晴らしいことに、そのことでいじけていない。その乾ききった強さの中でも彼が涙してしまうあの場面には、私もまた涙せざるを得なかった。

 

エンタメ色が強い5本になった。文芸映画っぽいもので傑作だと思ったものもいくつかあったが(例えば『寝ても覚めても』)、最近は自身を「真面目なんだ、現実を写し取っているんだ」と主張しているような創作物に耐えられない思いがするので、あえてそういうものは外した。

それと、個々の作品の感想を読んでもらえると有り難い。

『アリー/スター誕生』に泣く

『アリー/スター誕生』を見た。泣いてしまった。
f:id:hr-man:20181224124330j:image

とはいえ、監督(ブラッドリー・クーパー)のセンスがとりわけいいとか、話し運びがとりわけうまいとか、そんなことは思わなかった。むしろ、二三回あった無駄にシンメトリーな画面構図のシーンやぶつ切りに見えるような場面転換など、ぎこちなさを感じることも多かったのであるが、しかし(これこそもしかしたら『ボヘミアン・ラプソディ』との決定的な違いかもしれないが)ライブシーン(歌のシーン)が圧巻で、もうそれだけで「よい」と思わざるをえない。つまり、(私はもともとは興味がなかった人だが)レディ・ガガ(の曲と歌唱力)が凄い! これに尽きそうである。特に、「シャロウ」や「アイル・ネバー・ラブ・アゲイン」で急にグッと声が力強くなるところがツボであった。

いや、レディ・ガガが凄かったのは音楽の面だけではない。存在感とでも言えばいいだろうか、本人がどんな人かは知らないが、少なくともこの映画において彼女(アリー)は、「肯定性の塊」とでも言いたくなるぐらい、「自然に自然」であった。自然にならなければという不自然な努力の結果自然に見せているのではなく、もともと自然であって今もそうである、という単純極まりない力強さに溢れていたように思う。だから実のところ、彼女が苦悩している場面というのはあまりこちらに迫ってこなかったのも事実である。というのも、何があろうとも彼女は人生にノーを言うことないだろうと、こちらは彼女の佇まいから瞬時に理解してしまうからである。最後に彼女の歌う歌(「アイル・ネバー・ラブ・アゲイン」)の内容がどんなに否定性に溢れていようと、アリーの歌声と佇まいの力強さは変わらないどころか(恐ろしいことに)ますます強まっていたのであり、この「既に常に人生にイエスと言っている感じ」こそがスター性だなぁ、と思ったのであった。