であ・あいんつぃげ

こんにちは……

最高な『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』

ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』を見た。めちゃくちゃ面白かった。先の読めない展開、善も悪もクソもない剥き出しの暴力、淡々としているようでいて緊張感のある演出……
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しかしまぁ、『イコライザー2』のときも思ったが、こういうひたすら面白い映画というのは、別にこちらとしては言うべきことがあまりない。ただ、前作は見返していないが、前作よりは面白いのは間違いない、それだけは言えそうである。前作のドゥニ・ビルヌーブの演出は緊張感に溢れていたというより、(彼の作品はいつもその傾向があると思うが)ただ「緊張感に溢れているという演出意図」を観客である私が受け取っていただけのように思う。言わば、私は緊張で体をこわばらせたわけではなく、緊張で体をこわばらせる「べき」場面なのだろうと、あくまでも抽象的に理解し、理解できたことを(他人に、自分に)示したくて緊張した「ふり」をしていた。「こういうのが逆に緊張感があるんだよ! 僕は知っているんだ!」というわけである。一般にアートと呼ばれるものはより抽象的である方が「偉い」とされる傾向があると思うので、今作よりも前作の「抽象的な緊張感」の方が尊ばれるのは当然と言えば当然だが、今作の脚本家の監督作である『ウインド・リバー』を見たあたりで、私はどうもその「抽象的な緊張感」に決定的にうんざりしてしまったようである。あの作品も「緊張すべき」であることは伝わってきたが、実際のところ私はあくびを噛み殺していただけであった。

さて、それでは今作はどうだったかと言うと、前作ではまだまだ「演出意図としては緊張すべき」という抽象的な段階に留まっていたのに対して、演出の方向性は同じなのにも関わらず(そう、そここそが素晴らしい!)、実際に観客である我々(私)を緊張させることに成功している。他では味わったことが(あまり)ない緊張感、振り回され感、寂寥感、素晴らしかった!

 

ボーダーライン(字幕版)
 

 

ボーダーライン

『エミールと探偵』

『エミールと探偵たち』(原題“Emil und die Detektive”)をドイツ語で読んだ。

 

エーミールと探偵たち (岩波少年文庫 (018))

エーミールと探偵たち (岩波少年文庫 (018))

 

 

飛ぶ教室』や『点子ちゃんとアントン』、はたまた大人向けの『ファービアン』など、ケストナーの作品はこの一年で随分と(ドイツ語の勉強のために)読んだ。ケストナーは主に児童書で知られているが、しかし彼の作品は厳密に言うと「子どもが読む本」(児童書)というよりか「子どもについての本」という気がする。もちろん子どもが読めるように作られているのは間違いないが、しかしその実、子どもを客観視できる人、つまり大人でなければ面白みがわからないのでは、と思うことも多々ある。例えば今作『エミールと探偵たち』では、子どもたちが探偵の真似事をしている場面が可愛らしく、明らかに読み手にそう思わせるのを狙っているが、しかし当のこれを読むような子どもがエミールたちを「可愛らしい」などと思うことはないだろう。そう思うのは大人だけだ。

(もっとも、逆に「可愛らしい」と思うのは私が大人だからに過ぎないのかもしれない。子どもたちはもっとストレートに楽しむのかもしれず、「可愛らしく」思わせようなど端から意図されていなかったのかもしれない。)

ともあれ、安定したケストナー・クオリティであった(マザコンぽさが多少目につくようになってきたが)。前も書いたかも知れないが、ドイツ語の勉強のためなどに読む場合、最初は『点子ちゃんとアントン』あたりがいいと思う。

 

Emil Und die Detektive

Emil Und die Detektive

 

 

Puenktchen & Anton

Puenktchen & Anton

 

 

『ヴェノム』とマインドフルネス

『ヴェノム』を見た。つまらなかったことは間違いない。アクションの半端さ、コメディの半端さ、ストーリーのどうでもよさ……
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とはいえ、この映画にとっては全く本質的な事ではないが、しかし考えるべき点がないではなかった。それを一言で表現してみれば、心の声と瞑想の関係、とでもなるだろうか。

主人公のエディが仕事を失くし恋人に去られ不幸のどん底に落ちた時、彼は起死回生を夢見て再度悪役のラボへの取材を敢行する。しかしそこで地球外生命体のシンビオートに寄生され「ヴェノム」になってしまい、それ以来心の中でその寄生生物の声が聞こえるようになる。それを制御できない彼はしばしば統合失調症患者のような振る舞いをしてしまうのだった。重要なのは、「ヴェノム」になる前、不幸から抜け出すためにエディが(馬鹿にしたような演出とともにではあるが)瞑想を試みようとし、失敗する場面があることだ。

私の知っている限りの瞑想、すなわち巷でマインドフルネス瞑想と呼ばれているものは、心の声を対処する(消す)のが目的(の一つ)だが、ここで描かれているものも同じようなものだとすると(おそらく制作者の意図を超えて)この瞑想失敗→心の声の氾濫→精神病(のメタファーとしてのヴェノム)という流れはかなり的を射ていると思った。不幸ゆえに氾濫した心の声に対処できず、彼は精神病者になったのである。

心の声はしばしば(この映画のキャッチコピー通り)「最悪」である。精神病者にまでならなくとも「最悪」である。この映画の中でその好例と言えるのは、ヴェノムがエディの恋(?)を後押ししているかのように見せかけてただおちょくって楽しんでいる場面だ。これをヴェノムというメタファー抜きで見てみると、その「不幸」は明らかだろう。自分にとって大事な事柄にさえ心のどこかでは真剣になれない人間の「不幸」である。最も、この映画の他の全てと同じように掘り下げが足りないし、基本コメディなので、そうは映らないだろうが。ともあれ、瞑想することの大きな利得の一つは、このような「真剣になれない心の声」を消し去ってしまえることだ。

ファスビンダー作品を「楽しむ」

最近、たまたまファスビンダーの『ベルリン・アレクサンダー広場』をたまたま見返しており、これまたたまたま同監督の『13回の新月のある年に』『第三世代』がユーロスペースでやっているというので見に行った。
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といって、私は特にファスビンダーのファンというわけではない。そもそもは、ドイツ語の勉強をしているのでドイツ語に少しでも慣れたいと思って映画を探していて、(映画ではなくテレビドラマだが)『ベルリン・アレクサンダー広場』に出会ったのだった。計二回見ているが、そんなに面白くない(でも、なんとなく気になるから二回も見てしまったのだろう)。どころか、(色々な面で)難易度が高すぎるので、ドイツ語の勉強にもほとんどならない。

ファスビンダー作品で最も特徴的だと私が思うことを一言で言うと、「重層(奏)性」ということになるだろう。つまり、一見無関係に思える台詞やらモノローグやら音楽やらが画面に被さっていたりする「音−画面」の重層性と、そして、私にとってはこちらのほうがより印象的なのだが、台詞とモノローグが被っていたり、音楽と音楽が被さっていたりする「音−音」の重奏性が、私が見た限りのファスビンダー作品の特徴であると感じる。

「重層(奏)性」と感じるからには、何か異質のものが重なっているのでなければならない(でなければ、それは「調和」してしまうだろう)。では、異質なものが重なるとどうなるか。大抵は(「調和」ならぬ)「不協和音」が生じることになる。それをより強く感じるのは(「不協和音」という呼び名からして明らかと言えば明らかだが)「音−音」の「重奏性」の方である。ファスビンダーによる重奏は不協和音的で、はっきり言って多くの場合、不快だ。そして人間の情報処理には限界があるから(ましてや外国語の映画だからなおさら)、多くの場合意味不明でもある。

さて、『第3世代』『13回の新月のある年に』はかなり意味不明な作品、いわゆる「難解な作品」であったと思うが、こういった作品を楽しむとき、「読み解く」ことが唯一の方法だと言えるのであろうか。

そんなことはない、どころか、所詮は作り物である作品の中に設けられた謎を解くという不毛さ、虚しさを鑑みれば、(精神分析などの理論を使って)「作品を読み解く」などということは屁みたいものだ。それじゃあ、この種の難解な作品群は意味がわからないとして切り捨てられるだけかと言えば、そうではない。不協和音をそのまま不協和音として、意味不明をそのまま意味不明として味わうという道が残されているからである。もっと言うと、ファスビンダーのような作家の場合、観客にはそのことが望まれてさえいるのではないか。

しかし、それじゃあやはり「意味がない」ではないかと思う人がいるかもしれない。確かにそうだがしかし、「意味がない」ということで言えば、調和の取れた「意味がある」作品(いわゆる「娯楽」)を楽しんでいるときも、楽しめていること自体には「意味がない」。娯楽作品からは「意味がある」と感じるにしても、なぜ「意味がある」から楽しいのかということには「意味がない」(「理由がない」)。であるのだから、「意味がない」から楽しい、という回路が作られてもいいはずである。見るものを拒絶することがほとんど目的であるようなファスビンダー作品を見ていて感じるのはそのことである。あまりにも不快であったり意味不明であったりして、観客は作品を読み解く余裕がなくなっていく、そしてそのこと自体を(うまくいけば)味わい始めるのだ。これは言ってみれば「裏の娯楽」と言えよう。「表の娯楽映画」においては「意味がわかること」によって観客がドライヴされるのに対して、「裏の娯楽」においては「意味不明なこと」にドライヴされる。この「ドライヴ」という点が「娯楽」の本義であり、意味がわかるかどうかはどうでもいいのだ。

 

ベルリン・アレクサンダー広場 Blu-ray BOX

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ベルリン・アレクサンダー広場 DVD-BOX <新装・新価格版>

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『ロッキー ザ・ファイナル』に違和感(など覚えたくないが……)

クリードの新作に備えて、最近『ロッキー』シリーズを見返した。と言っても、3,4,5,ファイナル、だけで、1,2は(特に1は昔見過ぎたので)見なかった。3,4は昔よりも面白く感じ、5,ファイナルは昔ほど楽しめなかった(もちろん楽しんだが)。

前に『THIS IS US』や『スカイスクレイパー』の感想のときに書いたが、「生きること」やら「愛」やら「家族」やらの価値が疑われず、問うことさえせず、考えなしに前提にされている(世の95%の)作品に付き合うことが、どうやらますます耐え難くなっているようである(そのせいか、ただのアクション娯楽の方が最近は好きになった)。『ロッキー ザ・ファイナル』を見て、(そんなことを思いたくはなかったのに)そのことを思い起こしてしまった。

具体的に言うと、ロッキーが息子に説教する場面である。昔はえらく感動したものだが、今は「この世界はバラ色じゃない」と息子に説教するロッキーに一抹の違和感を覚えずにはいられない。つまりは、じゃあロッキーよ、それならなぜあなたはそんな世界に息子を、新たな命を送り込むようなことをそもそもしたのか、という疑問が、私の中で湧いてきてしまうのだ。おそらくそれに対してのロッキーの答えは、「酸いも甘いも経験したが、ともあれ充実した人生はすばらしいのだから、息子がそれを味わうのはいいことだ」というようなものだろう。それはわかる、一理あるのは認めるがしかし、(善人たちに非人扱いされることを承知で言うなら)そもそもはロッキー、「息子の」ではなく「あなたの」人生を充実させるために子どもを作ったのではなかったか、人生が生きるに値すると「自分が」思いたいがために子どもを作ったのではなかったか、それは果たしていいことと言えるのであろうか、もしかしたら何も考えずに言わば動物的に子どもを作ったときよりもそれはよくないことなのではないか、と思ってしまう。

とはいえ、もちろん『ロッキー』も『クリード』も大好きだ。このシリーズには、上のような疑問を消化した上で作られていると感じる瞬間さえある(例えば『クリード』の「何を証明したいんだ」「俺は過ちなんかじゃない」など、涙なしでは見られなかった)。

上と全く関係のない余談:『クリード』は名作だったと思うが、あえて言うと「ポーリー的キャラ」がいなかったのが、若干の食い足りなさの原因だったと思うので、『クリード2』ではポーリーのように「本当に駄目なやつは駄目なんだ」と思わせてくれるキャラが登場することを願う。

 

 

ドイツ語マラソン(ミステリー篇)

『法人類学者デイヴィッド・ハンター』をドイツ語で読み終えた(ドイツ語題は“DIE CHEMIE DES TODES”だが、そもそもこの本はもともと英語で書かれたもので、英題は“THE CHEMISTRY OF DEATH”である)。ミステリーである。

 

法人類学者デイヴィッド・ハンター (ヴィレッジブックス)

法人類学者デイヴィッド・ハンター (ヴィレッジブックス)

 

 

法人類学者、というのは聞き慣れない肩書だが、要は警察の捜査などにおいて、死体やその周りを(生理学的な手法ではなく)観察して、死因は何か、凶器は何か、いつ死んだか、などなどを推測する仕事らしい。とはいえ、この設定は本書においては大して役に立ってはいないように思われる。が、別に気になるほどでもなかった。

しかしまぁ、ドイツ語の勉強のため、という付加価値がなければもはや絶対に読まないタイプの小説だった。いや、私はもはやほとんど小説は英語とドイツ語の勉強のためにしか読まなくなってしまったのだが(小説単独の価値にもはやあまり惹かれることがなく、外国語の勉強、という付加価値が必要になってしまったのだが)、それにしてもこういう先が気になって仕方がない系のミステリーは日本語で読み通すのは逆に困難であっただろうと思う。というのも、先に書いたように本書は法人類学者による緻密な現場検証などが主題ではなく、あくまで伏線に次ぐ伏線、そして回収、クリフハンガーに次ぐクリフハンガー、そして「驚きの」展開によって魅せるミステリー(というか海外ドラマ的なにか)なので、面白いのだがだんだん馬鹿らしくなってくる。まるで永遠と欲望を一つ一つ叶えていくがいつまでも不満足のまま、という仏教的人間理解のメタファーでもあるかのように、あまり中身のない話が過剰に面白く語られており、虚しい。

とはいえ、こういう娯楽小説はしばしば苦痛を伴う語学の勉強として読んでも飽きないし、難易度的にちょうどよく、(おそらく)文芸作品なんかよりは一般的な表現に触れることもできるから、もっと早くに読んでおくべきだった(調子に乗って異様に難しい本から始めてしまうたちなので…)。

 

Die Chemie des Todes: Ungekuerzt

Die Chemie des Todes: Ungekuerzt

 

 

The Chemistry of Death: (David Hunter 1)

The Chemistry of Death: (David Hunter 1)

 

 

一人称と三人称

最近は相変わらず『法人類学者デイヴィッド・ハンター』のドイツ語版(“DIE CHEMIE DES TODES”)にかかりきりだ。知らなかったのだが日本語訳でどうやら500ページ近くあるようで、わりとすぐに読み終えられるだろうと思っていた私は、甘く見ていたと言わざるを得ない。そろそろ半分が読み終わりそうだが、もうこの本に一ヶ月以上付き合っている……まぁ、結構面白いのでいいっちゃいいのだが、やはりこれだけ付き合っているのならば、この本を手がかりにして何か考えてみよう。

さて、この本、基本的に主人公のデイヴィッドの一人称視点で語られるわけだが、時折客観視点から三人称で語られる場面もある。デイヴィッドが事件を究明しようとしているパートは一人称、犯人についての仄めかしや被害者が被害に遭ったりするところなどは三人称だ。

私は別に、こういう書き方自体が真新しいとか興味深いと言いたいわけではない。いや、私の読書遍歴的にあまりこういう書き方の本は読んでこなかったが、別に普通の書き方と言っても間違いではないだろうと思う。現に、読んでいて違和感を覚えることはない。私が言いたいのはむしろ、こういう書き方が別に普通だということのほうが興味深いのではないか、ということだ。小説の技術的な面ばっかりに気を取られてしまう頭でっかちな人にとっては、もしかしたら本作のような一人称と三人称との混在は統一感ないものとして斥けるべきものなのかもしれない。しかし普通に読む限りでは、(少なくとも人称の問題によっては)統一感の欠如を感じることはない。だが再び頭で考えると、「私視点」と「客観視点」が混在しているのだから不統一の印象を受けるのもまた当然ではないか、という疑問が湧いてくる。

小説に限らず(特にテレビゲームなどでは)「私視点」で描かれた物語には没入感を得やすく、「客観視点」で描かれる物語にはどこか他人事感、とまでは言わなくとも、外側から舞台を見ている感覚が伴う、というような見解が一般的だろうと思う。しかし、これは誤解ではないだろうか。なぜなら、物語中の「私」は(当たり前のことながら)私ではないからである。「私視点」はどこまでいっても所詮、本当の私の視野の中の対象物(私の視野の模造、枠そのものではなく枠の中の枠)に過ぎない、という意味においては、一個の舞台を作り出す「客観視点」と等価である(「私視点」も一個の舞台を作り出すに過ぎない)。そう考えると、頭で考えると統一感の欠如のように感じられる「私視点」と「客観視点」の混在が、なんの問題にもならないのにも合点がいく。「私視点」の世界も「客観視点」の世界と同じように、本当の私の世界の中の対象物(外から眺める舞台)に過ぎないとして一括できるからである。

さてここで、上のことを前提として1つの疑問が湧いてくる――「私視点」と「客観視点」とどちらの方が没入感が得られやすいか、という疑問である。いや、「没入感」という言葉は「私視点」びいきの言葉のように思われるから、どちらの方により夢中になれるか、という形に疑問を変えたほうがいいだろう。

しかしもちろん、この疑問に答えるのは簡単ではない。人によって違うとしか言いようのない面もあろうし、その他無限の要素が絡んできてしまうのでおそらく解答は得られない。だが、少なくとも次のようなことは言えるのではないだろうか。「私視点」は本当のところは私ではないのだから、私が「私視点」と一体化していると言う時その言明にはある種の「騙し」があって(騙しているのか騙されているかはここでは問題ではない)、その「騙し」は場合によっては、あるいは人によっては夢中になることを妨げる要因となるのではないか。ゲームの例で言うと、モニターに映るFPSゲームの一人称はやはり私の視野自体ではなく、どこまでいってもそれは私の視野の中のモニターに過ぎず、これを私の視野と同一視できる能力というのはかなり個人差がありそうである。また逆に「客観視点」およびそれが作り出す世界というのは、端から私の世界の中の対象物・ある種の舞台として受け取られ、そして事実そうなのであるから、そこに「騙し」が介在する余地はない。ゲームの例を続けるならば、TPSゲームの世界というのはそれがヴァーチャルであるというだけで、例えばおもちゃの家などと同じように、それは私という世界の中の対象物・ある種の舞台であり、それだけである。私が私のままで舞台を観察したりいじれるのである。ただし、舞台の中の登場人物に「感情移入」するとか、言い出すと話がややこしくなるのであるが……

 

Die Chemie des Todes (David Hunter 1) (German Edition)

Die Chemie des Todes (David Hunter 1) (German Edition)